プラムゾの架け橋

第七章

 81.




 ランクセン公爵家とヴァイスリッター公爵家。同じ爵位を得ながら、その性質は対極であると言われている。ランクセン公爵家は元々平民から騎士へと成り上がった初代当主の影響により、代々領民に親しまれてきた。一方のヴァイスリッター公爵家も良心的な統治をしていた点では同じだが、初代当主より脈々と続く血筋は王家の遠縁に当たるため、その権力に恐れおののく者が多くいた。

 次期ヴァイスリッター公爵になることを義務付けられたミカエルは、幼き頃より厳しい指導を受けて育った。勉学に武術はもちろん、このプラムゾに貴族として生まれた者の心構えを叩きこまれた。王家の血筋にあたる人間は常に高潔であらねばならぬこと、“天空の塔”こそがプラムゾの秩序を守る存在であること──この世界を美しく保つために我々は在るということ。

「……へー」

 その話を、ランクセン公爵家嫡男ハイデリヒは欠伸をして聞き流した。その隣では真面目に話を聞いてくれていたエリシャが、双子の兄の脇腹を肘で突く。

「おにいさま、ミカエルが丁寧にはなしてくれたのに……」
「つまんなかった。そんなことより庭で遊ぼうミカエル」
「おにいさまっ」

 ハイデリヒはいつもそうだった。何よりも尊敬している父の話を、「つまらないからやめろ」と一刀両断してくる。ランクセン公爵はこのような話をしないのかと尋ねれば、彼は当然のように頷くのだ。

「父上は全てのいきものに優しくしろ、とおっしゃるよ」
「そうだ! 今度ミカエルもいっしょに林へいきましょうっ、おとうさまもきっと喜びます!」
「え……いや、僕は……」

 エリシャの誘いに、ミカエルは素直に頷くことができなかった。全てのいきものに優しく? そのようなこと、ミカエルは父から一度も教えられたことがない。心優しいエリシャならともかく、猫かぶりだけは一人前のハイデリヒに左様な心構えなど備わっているものか。

「……林に行ったなんて知られたら、父上にお叱りを受けてしまう」
「ミカエルの父君は厳しすぎるんだ。息苦しくて僕ならやってられないね」
「で、でもヴァイスリッターさまは賢いお方だって、おとうさまが言ってました」

 双子の顔は殆ど同じはずなのに、その性格は正反対だ。だが幼い頃から、ミカエルはこの二人に憧れのようなものを抱いていたのかもしれない。自分とは異なる考えを持つ者と、対等な立場で言葉を交わせることが羨ましかったのだろう。ミカエルの傍にはそういった人間がいない。己の考えを一方的に押し付ける父、それに何も口を出さない母、まるで糸繰人形のように働く給仕。ランクセン公爵家のような暖かみのある空気など、どこにもない。

「なあミカエル、早く庭に行こう」
「わかったから引っ張るな──」

「──出て行け!!」

 突然聞こえてきた怒声に、三人は驚いて硬直する。ミカエルはすぐに悟った。また父があの男に八つ当たりをしているのだと。まさか客人が来ているときにまで怒鳴るとは思っていなかったが……。

「な、なんですか……?」

 すっかり怯えてしまったエリシャは、兄の腕にしがみついて部屋の外を見遣る。同様にしてハイデリヒがこちらを見遣ったので、ミカエルは少しだけ声を抑えて告げた。

「……叔父上だよ。また父上をいらつかせるようなことをしたんだと思う」
「おじ……サイラムどの?」

 肯定すれば、彼は途端に不快そうな顔をする。それは何も叔父に対するものではなく、今しがた聞こえた罵声にも等しい怒鳴り方に対してだろう。

「サイラムどのは優しいぞ。この前、ここでエリシャと迷子になったときに案内してくれた」
「……。あの目を見て何も思わないのか? 大人なのに、まともにしゃべれないのを変だと思わないのか?」
「何だお前、嫌な奴だな」
「な……」
「お、おにいさま!」

 ハイデリヒは理解できないと言わんばかりに眉を顰め、エリシャの手を引いて椅子から降りる。そのまま部屋の出口まで向かい、挨拶もせずに出て行ってしまう。とても慌てていたエリシャは、ミカエルの方を振り返って忙しなく手を振り、やがてその姿も見えなくなった。

 しばらくして気付いたのは、ハイデリヒを本気で怒らせてしまったということ。いつもなら掴み合いなり拙い口論なりで終わるところを、今回は完全に無視である。だが残念なことに、ミカエルには何故そこまで彼が怒っているのか分からなかった。普通の人間と違うばかりか、美しさと掛け離れた叔父をよく思えないのはミカエルも同じだったからだ。父が苛立つ理由が、分かってしまうからだ。しかしあの双子には、そんな親子が異常に見えているのだろう。ランクセン公爵の元で育った彼らには……。

 数日後、ミカエルは父に頼み込んだ末、護衛と共にランクセン公爵家へ赴くことになった。喧嘩をして自ら謝りに行くなど初めてのことだったため、とてもじゃないが両親にその件は伝えられず。忘れ物を届けるという名目で、短時間だが屋敷へ行くことを許可してもらったのだ。実のところ謝罪の内容は決まっていないが、ハイデリヒが怒った原因については理解した。

 ──全てのいきものに優しく。

 それは何も、貴族が毛嫌いする獣に対する言葉ではなかったのかもしれない。叔父のような人間に対しても、平等に接するべきだという意味が込められていたのだろうかと、ミカエルは手探りのまま答えを求めた。重い鎧のような父の言葉を脱ぎ捨て、眩しい光を放つ彼らに近付きたかった。彼らなら答えを知っているはずだと、貴族としてではなく──人としての生き方を教えてくれるはずだと。ミカエルは今まで感じたことのない温かさを胸に、屋敷の扉を開けようとした。

「──待ちなさい、ミカエル」

 開きかけた扉は閉ざされ、ミカエルは戸惑いを露わに振り返る。見上げればそこには、強張った表情で息子を見詰める、父の姿があった。

「父上……?」
「……」
「……どう、されたのですか?」

 父はひとつ呼吸をして、ゆっくりとその場に屈む。そして平素の無表情を微かに歪めて、頭を振った。



 ◇◇◇



 エリシャの訃報が届けられて以降、ランクセン公爵家は社交の場から姿を消した。表向きの話はそうなっていたが、実際に亡くなったのがハイデリヒだということに気付いたのは、皮肉なことにミカエルだけだった。エリシャに好意を抱いていたこともそうだが、たとえ双子の片割れだろうと数少ない友人だったハイデリヒを見間違うことはない。

 己が謝罪したかった人間を、間違えることはない。

 ミカエルは答えを得られぬまま、公爵への道を進むことになった。目指すべき領主の姿など分からぬまま、しまいには逞しく生きるエリシャに縋った。そして──。

 ──出て行ってくれ、君と話すことなんてない。

 彼女をも怒らせてしまった。悲しませてしまった。手に入れた光は、道を違えたミカエルを拒絶した。彼がひたすらに歩んできた道は、どこまで行ってもあの双子とは交わらぬ道だったのだ。今更ながらそのことに気付いたミカエルは、自身の傷だらけの手を見詰める。ひとつは黒い仔猫に噛みつかれたもの、ひとつはエリシャの剣が掠めたもの。その他にも傷が沢山刻まれた手は、今までに犯してきた罪の数にも思えてしまった。

「失礼いたします! ミカエル様、ご報告が」

 扉が叩かれ、ミカエルは出口のない思考から我に返る。新しい手袋を嵌めて、彼は扉を開けた。

「どうした」
「は、外を巡回していた兵士が、何者かに襲われ昏倒していたと……周辺の警備を強化しておりますが、私兵に扮し既に侵入している可能性があるとのことです」
「……そうか。引き続き警戒を怠るな」

 一礼して退室した兵士を見送り、ミカエルは壁に立て掛けていたサーベルを手にして廊下へ出た。宰相からエリシャの身柄を預かり、侵略が終わるまでここから出すなという話だ。事が終われば好きにしろとのことだったが、果たしてそれはいつになるのやら。ランクセン公爵領の民は領主の急な不在に戸惑いを露わにしており、徴兵も上手く進んでいないと聞く。宰相としては公爵家の戦力も当てにしていたのだろうが、領民からエリシャを取り上げたのはやはり悪手だったと後悔している最中かもしれない。しかし……もはや、ミカエルには関係のない話だ。

「……」

 彼女のいる部屋の前までやって来たミカエルは、静かに息を吐いた。返事など来ないことを分かりつつ扉を叩く。そのままゆっくりと取っ手を押した。視線を巡らせ、寝台の上に膨らみを確認する。毛布から微かにはみ出した髪を見ながら、ミカエルは近くまで歩み寄った。

「……エリシャ」
「……」
「私は……君をどうしたかったのだろうな。こうして君を捕まえたとして、昔のようにまた微笑んでくれることなど、ありはしないというのに」

 彼女に触れようとした指先を曲げ、その場に膝をつく。額を手で覆い、ミカエルは苦しげに笑った。

「ハイデリヒが死んだときから、私は狂っていったのかもしれない。日々侵蝕する空虚に耐え切れず、それを埋めるために君を欲したのかもしれない。明確な答えなど……今も分からない」

 ──行く先に何が待ち受けるのか、それを見るのが恐ろしくて堪らない。

 まるで懺悔をするかのように、ミカエルは項垂れた。彼女の慰めや励ましを求めているのではない。ただ聞いて欲しかった。このまま破滅へ進んでいく己の気持ちを、誰かに……できることなら愛しい人に。

「……!」

 そっと頭に手が乗せられ、ミカエルは目を見開く。弾かれるように顔を上げ、そして。

「エリ──」


「──はぁい、エリシャでーす」


 にやつく傷跡の青年を見て、絶叫と共にサーベルを突き立てたのだった。


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