82.
サーベルが毛布のみを切り裂き、愉快げに笑ったハイデリヒは自らも剣を引き抜いた。寝台から転がり出るついでに右足を大きく踏み出しては、ミカエルの背後を容易く取って素早く斬りかかる。咄嗟に振り返ったミカエルがその刃を受け止め、甲高い剣戟と共に二人は後方へと弾かれた。
「気が動転しているのかな? 天下のミカエル様にしては動きが鈍い」
「貴様……! 何故……何故ここにいる!? エリシャは……」
「今頃は屋敷の外だよ」
ハイデリヒは細身の剣を握り直すと、一瞬で距離を詰めては突きを繰り出す。ミカエルの耳や首を重点的に狙いながら、浮かべた笑みは絶えることなく。剣術の腕前において右に出る者はいないと評されたミカエルを相手に、彼は明らかな余裕を見せていた。
「ところでミカエル。俺の妹を泣かせたのはお前か?」
「!」
静かに揺さぶりを掛ければ、サーベルの剣先がわずかにぶれる。その動揺を見逃すはずもなく、ハイデリヒは力づくで鍔迫り合いとなった剣を下ろさせた。そして、すかさずミカエルの額に頭突きをかます。鈍い音が鳴り、あまりの痛みにミカエルは思わずよろめいた。
「っ……!」
「久々の再会を喜びたかったが、残念ながら道を違えたみたいだな。……宰相に手を貸したんだろう?」
そこでようやく笑みを消し、ハイデリヒは冷たい瞳でかつての友を見下ろす。左頬に残る傷跡を摩りつつ、彼は低く語りかけた。
「俺はランクセン公爵家の……いや、俺自身のためにここへ戻った。二度と家族の命が脅かされないように、父上が忠誠を誓った王家が、これ以上穢されないように……ミカエル」
──だからお前は、俺の敵だ。
彼がはっきりと告げたとき、ミカエルの瞳が大きく見開かれる。侵略に手を貸し、領民を不安に陥れ、妹を傷付けた罪を、ハイデリヒは許すつもりはなかった。しかし剣を突き付け、彼はこうも述べたのだ。
「……あの事件がなければ、お前としっかり話せたのかもしれないけどな」
「っ……何を、今更……!!」
「そうだ、今更なんだよ。悔いるなミカエル、俺たちはもう昔に戻れない」
ミカエルは言葉を詰まらせる。先程の懺悔にも似た言葉を聞いたからこそ、ハイデリヒは戒めのように告げたのだ。それは救いでもなければ罰でもない。一人の友人として掛けた言葉に他ならなかった。
「おーい、用事は済んだのか美青年」
「その呼び方やめてくれないかい」
するとそのとき、部屋の外から手紙屋が顔を覗かせる。そろそろ私兵が騒ぎに気付く頃合いだろう。ハイデリヒは放心状態のミカエルを一瞥し、静かに剣を下ろす。廊下には手紙屋の他に、ここまで付いて来てくれた反乱軍の騎士がいた。
「ハイデリヒ様、ご無事でしたか」
「ああ。妹が逃げる時間も稼げたし脱出しようか」
「はっ」
彼らが立ち去っても、ミカエルは動くことができなかった。手放したサーベルを虚ろな瞳で見つめては、力なく腰を下ろしたのだった。
□□□
何とも聞きなれない絶叫にエリシャは振り返り、苦い表情で顔を前に戻す。兄が時間を稼いでいる間に、彼女は一人で屋敷を脱出すべく走っていた。
「……何をしたんだろうか」
十年経っても悪戯好きな性格は治っていない様子だったので、ミカエルに余計なことをしたのではないかと彼女は不安だった。だが「心配無用」と一言告げられただけで安堵してしまうほどには、兄を信頼しているのもまた事実。とにかく今は脱出のことだけを考えよう。ハイデリヒによれば、屋敷の西側から外に出られるという話だった。充分に周囲を警戒しつつ、彼女は一階の裏口へと駆ける。
「ここか……」
「おい、貴様!」
扉を開けようとした瞬間、背後から二人の兵士がこちらに駆けてきた。エリシャはすぐに剣を引き抜いて応戦の構えを見せたのだが、後方から扉が勢いよく開かれ、彼女の脇を走り抜けていった人物に目を丸くする。二人の兵士をあっという間に斬り伏せたその人物を見て、エリシャはつい大声で彼の名を呼んでしまった。
「グレンデル!」
長い間、ずっと傍で守ってくれていた騎士の背中。それに駆け寄ったは良いが、彼女は勢い余って衝突する。グレンデルが慌てた様子でこちらを振り返り、すぐに肩を支えては顔を覗き込んだ。
「エリシャ様、よくぞご無事で」
「それは僕の台詞だ。ああ、本当に良かった……! 怪我は? 追手を差し向けられたんじゃないか?」
「……いえ、私のことは構いません」
「だけど」
エリシャの心配そうな眼差しを間近で注がれ、グレンデルはほんの少したじろぐ。だがすぐに頭を振っては、彼女の肩に外套を被せたのだった。
「本当に大丈夫ですから、今はご自分の身を案じてください」
「グレンデル……」
「……あ、いえ、エリシャ様」
しゅんと視線を落としてしまった彼女に再び慌てた騎士は、二回ほど周囲を確認してから、剣を握る彼女の手を恐る恐る掬い上げる。そしてもう片方の手でその小さな白い手を包み込み、彼は浅く礼をした。
「……ご厚意、痛み入ります。お迎えが遅くなり申し訳ありません」
いつも通りの真面目な言葉に少しばかり呆けたエリシャは、短く笑いながら自身も手を重ねる。
「きっと来てくれると信じていた。それに兄様まで連れて……本当にありがとう」
「! ……エリシャ様」
一粒だけ零れ落ちた涙に、グレンデルがふと指先を持ち上げた時だ。二人の背後の扉から、大きな声が飛んできた。
「グレンデル! 剣戟の音が聞こえましたけど……はぅあッ」
勢いよくグレンデルが体を離し、背中を壁にぶつける。何やら非常に驚いた様子で口元を覆う姿は、エリシャも見たことがないくらいだ。新鮮な反応にびっくりしつつ振り返れば、そこには彼と同様に口元を覆ったセレスティナの姿がある。こちらは何というか、「しまった」と言わんばかりの顔だったが。
「え? セシィ!?」
「あッあ……セシィ、一生の不覚……!! 許してくださいましグレンデル!!」
「い、いえ……」
──何故か一気に珍妙な空気になってしまったことに首を傾げつつ、エリシャは二人と共に取り合えず屋敷の外へと出たのだった。ハイデリヒと手紙屋、それから数人の騎士たちと合流する地点があるとのことだったので、ひとまずそこへ向かうことになったのだが……。
「セシィ、どうして君がここに?」
「え!? ああ、わたくしもいろいろとありまして……ざっくり言うと、ハイデリヒに連れて行かれましたのよ。侵略計画に巻き込まれないように」
「! そうだったんだね……ええと、髪はやっぱり兄様が……?」
「そうですわよ」
ブスッと顰め面を浮かべたセレスティナに苦笑していたら、今度はその不機嫌さがエリシャにも向けられてしまった。
「そういえばエリシャ、貴女わたくしが行方不明になったとき探そうともしなかったそうですわね」
「え」
「エクトルから聞きましたわよっ」
「あ、ああ、それにはちゃんと理由があってだな……」
「何ですのっ!?」
詰め寄るセレスティナを押し宥めつつも、エリシャは言いづらそうに視線を彷徨わせる。確かにセレスティナがいなくなってしまったとき、非常に心配をしたのは本当のことだ。同時にマオまで拉致されたことも相俟って、何か危険なことに巻き込まれていやしないかと肝を冷やした。だが同時に、セレスティナに関しては結婚披露宴当日だったということもあり──。
「……その、君が自ら逃げたことも考えていて。大っぴらには探さなかっただけだよ」
「わたくしが自ら?」
「アルノー殿との結婚、相当嫌がっていたじゃないか。君ならやりかねないなって……」
「まあ……双子共々失礼の塊ですわね……」
「い、一応探してたから気を悪くしないで。それに兄様と一緒にいたんだろう? 昔から好きだったし結果的に良かったじゃない」
「はぁああ!? ぐ、グレンデルっ、この無遠慮な主人をどうにかしてちょうだい!」
先導していたグレンデルにも、もちろんその会話は聞こえていた。彼は困惑した表情で振り返ったものの、エリシャの楽しそうな笑顔を見てしまい何も言えず。結局無言で顔を前に戻し、セレスティナが悔しげにその背中を叩いたのだった。
それから暫く林を歩きながら、エリシャは今の“天空の塔”の状況を二人から聞かされる。王宮による“大地の塔”侵略計画を阻止すべく、ハイデリヒが結成した反乱軍は着々と準備を進めており、既に出撃体制も整っているとのことだ。また侵略計画に必要とされているマオは、その身を隠すためにも一時的に“大地の塔”へと渡り、向こうの王に謁見を試みるとの話だった。
「マオが……」
「ええ、でも大丈夫ですわ! ちょっと彼女ぽやっとしてますけれど、これまで幾つも危機を切り抜けてきたんですもの。きっと無事に帰ってきますわ」
セレスティナの言葉に、エリシャは「そうだね」と心配そうにしつつも頷いた。確かにマオは戦う術こそ持たないが、何度も“お付き”の手から逃れることに成功している。その強運が続くよう祈るばかりだが、話を聞く限り、彼女の傍にはちゃんと護衛もいるそうだ。
「ところで護衛って?」
「あの黒い猫ですわ。“大地の塔”で暮らしていたそうですから、向こうで道にも迷わないと思いますわ」
「へえ………………セシィ、それってもしかして獣人……」
「ええ! 黒髪の可愛らしい男性ですのよ」
エリシャはふと、マオと初めて会った時のことを思い出す。彼女が真っ黒な仔猫を大事そうに抱える姿は印象的で、昔から小動物が好きだったエリシャはついつい触ってみたいという欲を抑えきれず──マオの言葉に甘えてわしゃわしゃと撫でてしまった気がする。図らずも“大地の塔”の種族と触れ合っていたこともそうなのだが、まず不快ではなかっただろうかと心配にもなる。聞けば十代後半くらいの見た目だったとセレスティナは言うし──。
「……会ったら一度謝っておかないと……」
「?」
セレスティナとグレンデルが不思議そうにする傍ら、エリシャは気を取り直して会話に戻る。
「さてと、反乱軍が結成されているということなら……最初の攻略対象としてランクセン公爵領を指定してもいいか、兄様に尋ねよう」
「公爵領を?」
「拘束と同時に、王宮の支配下に置かれてしまったからね。あそこを取り戻せば僕の私兵も動かせるようになるし、反乱軍の戦力増強にも繋がる……だろう?」
確認するように視線を動かせば、その先でグレンデルが静かに頷いた。領地奪還に加え、本物の領主が生還したと知れば彼らの士気も向上する。戦の流れとしては悪くないだろう。問題は王宮が反乱軍の存在に気付いているかどうかだ。既に気付かれているのなら行軍はより慎重に決めなければならないし、まだ知られていないとしても、エリシャが監視下から脱走したことによって反乱軍の存在を嗅ぎつける可能性は十分にあるだろう。つまり、いずれにせよ本隊との合流を急がねばならないのだ。マオの帰還を待たずして開戦となる場合も大いにある。これから気を引き締めなければと、エリシャは暗い星空を見上げたのだった。