プラムゾの架け橋

第七章

 80.





 ──まただ。


 部屋に置かれている華やかなドレスを見て、赤みがかった金髪の──エリシャはその端正な顔を思い切り歪めた。数日に一度の間隔で、年頃の娘が好みそうな服がこれ見よがしに置かれることがある。それも手を付けていないと知るや、毎回その趣向を変えてくるところが妙に腹立たしい。エリシャは今回も問答無用で白いシャツと紺のズボンを着用し、気合を入れるが如くブーツの紐を固く結んだ。

 そして細身の剣を手にしたところで、ちょうど扉を叩かれる。エリシャは悠然と扉に歩み寄り、開くと同時に剣を振り抜いた。

「おはよう。今日も元気だな」
「ああ、おはよう──ミカエル」

 斬りかかってくることは予想済みと言わんばかりに、ミカエルは片手でサーベルを押し返す。エリシャは鼻を鳴らしつつ、不機嫌さを丸出しにして剣を納めた。

「いい加減、部屋にああいうものを無断で置いておくのはやめてくれないか」
「なかなかお気に召すものが用意できなくてすまんな。私の美しいエリシャには何でも似合うと思っているのだが」
「……僕は君の着せ替え人形ではない」

 “ランクセン公爵は重篤な状態にあるため、王宮にて療養中である”──半月ほど前にそのようなデマを領民に流し、ミカエルは彼女の身柄を拘束した。理由を問えば、“大地の塔”侵略計画における反乱因子と王宮から見なされたのだとか。そのような馬鹿げた計画が進んでいたことはもちろん、エリシャは王宮がマオを探す真の理由を知っては愕然とした。

 ──彼らはプラムゾを目覚めさせる気なのだ。

 千年を超えるプラムゾの歴史において、この巨大な橋が侵略目的で起動された事例はない。古文書には大量のミグスによって目覚めるとだけ記されており、まだ全ての詳細は解読できていないという。しかし既に解読されたもののうち、プラムゾに眠る兵器は非常に強大であり、人知を超えた力を誇るとの旨が記載されていた。宰相ヴェルモンドはその力を以てすれば、“大地の塔”への侵略も可能だと王に進言したのだ。


「どこまで君たちは愚かなんだ。“大地の塔”を滅ぼすなんて……正気の沙汰じゃない」

 エリシャが苦々しく告げれば、残念そうにドレスを見詰めていたミカエルはふと笑う。白金の髪を掻き上げ、閉め切ったカーテンを少しだけ開けた。

「確かにな。ヴェルモンドや陛下は……“天空の塔”だけではない、このプラムゾの支配者になりたいのだろうよ」
「……おかしいと思いながら従ったのか」
「ああ。私は彼らが侵略に失敗して死のうがどうでもよいからな」
「な……」

 彼は格子窓の桟を指でなぞってから、再びこちらへ歩み寄る。怪訝な表情を浮かべるエリシャの肩を引き寄せたかと思えば、そのまま勢いよく壁に押し付けた。

「また窓を破壊しようとしたな、血が残っていた」
「っ……」

 傷跡の残る指を絡め取られ、エリシャは肌が粟立つのを感じる。だが気丈にも彼を睨み返しては、自身の持つ剣を握った。

「なら剣を取り上げたらどうだ。僕はこれがある限り何度でも脱出を試みるぞ」
「脱出を企てる分には構わないさ。その方が君も元気でいられるだろう? 問題は傷が増えることだ」

 手のひら、指の腹、甲、と手を這わせ、小さな傷を確認される。その間にミカエルは彼女の肩を抱く手で襟元を引っ張り、傷のない柔らかな肌に顔を埋めた。

「い……っ!? な、何をして」
「そろそろ自覚してもらいたいな。君はもはや公爵でもなければハイデリヒでもない。私が心から欲していたエリシャに他ならないのだよ」

 まるで恋人のように彼女を抱きすくめると、ミカエルはどこか恍惚とした表情で目を閉じる。慌てて突き放そうとしたエリシャだったが、彼の腕が微かに震えていることに気付いてしまい、動揺を露わに動きを止めた。

「……み、ミカエル……?」
「……。君は知らないだろう? 十年前、ランクセン公爵家が襲撃されたとき、エリシャが死んだと聞かされた私の気持ちなど」
「!」
「絶望したよ。二度と君の笑顔が見られないのかと。……だが」

 ──死んだのはハイデリヒの方だった。

 事件から数年後、心身ともに立ち直った嫡男が世間に姿を現したと聞き、ミカエルはすぐに公爵家に向かった。双子の兄とは顔を合わせれば喧嘩しかしないような仲であったが、それでも友人として交流していた。どう声を掛けたものかと迷いながら、ようやく彼の姿を見たミカエルは──硬直した。

「髪を短く切ろうが、口調を変えようが、服装を変えようが……どれだけ君と奴がそっくりでも、私が君を見間違えることなどなかった」
「……じゃあ、最初から」
「そう、最初から気付いていた。君はハイデリヒとして生きていくつもりなのだと、その時に悟った」

 ミカエルは彼女の意思を曲げるまいと考え、問い詰めることなどはしなかった。それで良いと考えていたのだ。片割れを失ったエリシャの悲しみが、そうすることで埋まるならば。

 だが近くで彼女を見ているうちに、その心境は変化していった。その理由は傍で見ていると嫌でも分かってしまう、エリシャの様々な変化に起因する。歳を重ねるごとにハイデリヒとは少しずつ異なっていく顔つき、男として偽るには些か足りぬ体格、艶を帯びゆく声──昔よりも一層美しくなってしまった彼女に、ミカエルは殺したはずの感情が抑えきれなくなっていた。

「喉から手が出るほど君が欲しかった。君を縛るしがらみ全てを取り払い、エリシャという女性を手に入れたかった……!」
「……っ!」

 強まりかけた拘束を必死に振り払い、エリシャは転がり出るように彼から離れる。引き抜いた剣をミカエルへ向けながら、彼女は苦しげに首を振った。

「わ……僕は、そのしがらみの中で生きることを決めたんだ。たとえ苦しかろうと、領主の役目を放棄するつもりはなかった! 君は……っ僕から存在意義を奪ったんだ、ミカエル!」
「……エリシャ」
「君はそんな私欲のために、宰相殿に……“大地の塔”を滅ぼさんとする者たちに与したのか!?」

 ミカエルはほんの僅かに眉を顰め、彼女の震える剣先を指先で退ける。近付く気配に目を見開き、反射的にエリシャが剣を振った。刃が彼の手を薄く切り裂いた直後、エリシャは衝撃を受けた様子で顔を歪めてしまう。ついで剣を手放しては崩れ落ち、顔を覆って蹲った。


「……っ出て行ってくれ……君と話すことなんてない……」


 手のひらを涙が伝い、シャツの袖を湿らせた。溢れ出すのは人生を奪われた悔しさか、それとも──友と信じていた者に裏切られた絶望か。いいや、ミカエルも王宮も、端からエリシャのことを侮っていたのだ。何も知らなかったのは彼女だけだったのだ。民のための領主などと幻想を抱いていたのは……。



 暫しの沈黙を経て、ミカエルが踵を返す。静かに扉が閉められた後、エリシャはずっと抑えていた嗚咽を洩らした。その姿はまるで、“オルトアの門”で彼女が見た過去の自分のようだった。兄に置いて行かれ、一人で泣き咽ぶ無力な少女そのものだ。

 ──彼女には、“エリシャ”として公爵家を支えることが出来なかった。

 男性社会にも等しい貴族の世界で、エリシャが女性のまま公爵になることなど誰も認めやしない。もしも兄の代わりに家を継いだとして、周囲から侮られることは必至。それどころかランクセンの名を戴くため、彼らは挙ってエリシャに婿を取るよう勧めてくるに違いない。そうして妙な輩を懐に入れてしまえばランクセン公爵家の名が廃り、父が築き上げた現在の地位を危ぶめることにも繋がる。

 先のことを考えると、不安ばかりがエリシャを襲う。これほどまでに自分は公爵令嬢であることに、女性であることに甘んじていたのかと愕然とした。家を継ぐのは兄だと分かっていたからこそ、突如として降りかかる大きな責任に押しつぶされかけた。ゆえに──彼女は決断したのだ。女性であるがゆえに不安要素が湧き出てくるのなら、それらを今のうちに取り除いてしまえ。期待の星であった双子の兄になり代わり、何もできないエリシャ=ランクセンを殺してしまえばいい。

 ──グレンデル、私を……僕を、支えて欲しい。

 震えた君主の言葉に、騎士はただ黙って跪いてくれた。


 涙に濡れた顔を上げ、点々と血が付着した剣を見遣る。エリシャは歯を食い縛り、剣を握り床に突き立てた。涙を乱暴に拭い、呼吸が落ち着いたところで立ち上がる。泣いている暇などないはずだ。ここで大人しく軟禁されたまま、父から譲り受けた領地を放っておくわけにはいかない。もうランクセン公爵家には自分しか残っていないのだと、彼女は己の折れかけた心を叱咤する。

「グレンデル……どうか無事で」

 小さく呟き、彼女は背後にある格子窓を見遣った。ここは何度も破壊を試みたが、やはり頑丈で些細な傷を付けることしかできない。この屋敷から脱出するには部屋を出て、警備の手薄そうな出口を探すしかない。そのためには戦闘も避けられないが、ミカエルほどの者でなければ突破できるだろう。つまりは彼に見付かれば脱出は失敗するわけだが……。

「……それが何だ。誰だろうと変わらない」


 ──私の足を止めようとする者に、屈してはならない。


 エリシャはひとつ深呼吸をして、扉をそっと開ける。視認できる範囲に人影は見当たらない。不思議なことに、ミカエルはこの部屋付近に見張りを置かないのだ。逃がさない自信があるのか、それとも屋外に突破口がないがゆえの余裕か。いずれにせよ部屋を出てすぐ捕まるようなことはない。エリシャは足音を抑えつつ、廊下を突き進んだ。

 周囲の音に耳を澄ましながら、廊下の角に背中を付ける。微かだが、この先から足音が近付いていた。幸い、音はひとつだけ。恐らく屋内を巡回している私兵だろう。エリシャは自身の姿が見えるぎりぎりのところまで足音を引きつけ、視界に爪先が入った瞬間に飛び出した。

「!?」

 甲冑を被った兵士は咄嗟に剣を引き抜き、エリシャの攻撃を受け止める。その素早い反応に少しの危機感を覚えつつも、怯むことなく剣を振るった。

「ちょ、ちょ、ちょっと」

 途端に動きの鈍くなった兵士は、立て続けに繰り出される攻撃を防ぎつつ声を上げる。エリシャが構わず首を狙えば、寸でのところで兵士が屈んだ。甲高い音と共に冑を壁に固定した直後、彼女は露わになった兵士の顔を見て固まった。


「──ティナの奴、嘘ついたな。これのどこが紳士なんだ……?」


 心底参ったように頭を振ったのは、左頬に大きな傷跡を抱える青年だった。見覚えのある金髪と碧眼に呆けていれば、彼がへらりと笑ってみせる。

「やあ、エリシャ。喜べ、お兄様の帰還だぞ」
「……!?」
「おっと」

 落とした剣と冑を受け止めた兄──ハイデリヒは、ついでに崩れ落ちたエリシャのことも抱き止める。彼女は逸る気持ちのまま兄を抱き締め、それが決して亡霊などではないことを確かめた。

「どこに……今までどこにいたのですか……っ、私、ずっと探して……!」
「……。んー……いろんなところに行ってたよ。エリシャが知らないようなところ」

 ハイデリヒはしばらく彼女の背を摩っていたが、ふと思い出した様子で顔を覗き込む。彼女の赤くなっている目許を確認しては、呆れたように溜息をついた。

「このままこっそり逃げる予定だったけど、仕置きが必要かな」
「仕置き……? 兄様、何を……」
「何って」

 兄は満面の笑みを浮かべ、額を押し付ける。優しい仕草とは裏腹に、エリシャはどことなく嫌な予感がした。

「片割れを傷付けられたんだ。──報復は必要だろう、妹よ」



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