79.
「──……ひとつ言っておきたいのは、僕は君が鬱陶しくて家を出たわけじゃないこと。貴族のしがらみ全部が鬱陶しかったと言った方が良いね。元々、家とは縁を切るつもりでいたんだ」
ホーネルは頬杖をつきながら、せせらぎに耳を傾ける。伯爵家にいたときは、こうして自然に触れる時間も少なかった。領主である父を手伝い、暇があれば他の貴族の顔を窺い、普段は身に着けもしない装飾品を磨く。教育係はそれこそが貴族の嗜みであるとでも言いたげな顔で、ホーネルに厳しく指導をしていた。それを馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった彼が、やがて屋敷を出て行くことは不思議ではなかったのかもしれない。
「貴族向きの人間じゃなかったのさ。僕も自分で似合わないと思っていたし、そんな馬鹿息子と結婚させられる君に申し訳ないともね」
「……」
「まあ結局、君にはかえって苦労を掛けてしまったわけだから、僕はやっぱり馬鹿なんだろうねぇ」
自嘲気味に笑えば、少し離れた場所で座っていたアドリエンヌが拳を握り締める。何かを言おうとしていることは分かるが、まだ踏ん切りがつかないような、躊躇っているような……そのような雰囲気が感じられた。彼女にも言いたいことが山ほどあるだろうと、ホーネルが話の主導権を渡そうとした時だ。
「……私は」
先ほど渡した首飾りを見詰め、彼女は掠れた声で呟く。
「私は、あなたが姉さまと恋仲だと思っていました」
「え」
「だ、だってあのような体勢を見せつけられて、勘違いしない方がおかしいでしょう! あなたが家を出たのも、てっきり姉夫婦を見るのが嫌だからと……!」
「それは僕の予想をはるかに超えてるんだけどちょっと待って」
軽い頭痛を覚えながら、彼はアドリエンヌの話を中断させた。よもや彼女にそんな誤解を与えていたとは露知らず。いや、子どもだからとしっかり説明しなかったホーネルが悪いのは明白だ。婚約破棄の理由が恋愛の拗れだと思われていたことに、彼は思わず天を仰ぐ。
「はあ……そこまで女々しくなった覚えはないよ。僕はただ単に貴族をやめたかっただけ。君との婚約が、家を出るきっかけになったのは確かだけどね」
「……」
「それで? 君はこの十六年間、どうしていたんだい」
「え……」
「最後に見た時と雰囲気も違うし、僕より屈強そうだし気になるでしょ」
「一言余計です」
こめかみに青筋を立てて発言を咎められ、ホーネルは悪びれもせずに視線を他所へ飛ばした。アドリエンヌはようやくいつもの調子を取り戻したのか、溜息交じりに自身の過去を語る。
「……婚約が破談になってから三年後、王宮騎士団に入団しました。私は、私がやりたいことをやるべきだと思ったので」
「! ……十五で入団試験に受かったのかい?」
「ええ、及第点にぎりぎり届く程度の実力でしたが。……女性の騎士があまりよく思われていない中、厳しくも丁寧に指導してくださったのがフェルグス隊長です」
事も無げに語っているが、十五歳という若さで入団試験に受かる者はそう多くない。男性であってもなかなか厳しいものがあるだろう。それはひとえにアドリエンヌにも騎士の血が流れており、秘められた武術の才を開花させたということか。
「しばらく訓練に打ち込む日々が続き……ある日、フェルグス隊長が話をしてくださいました。先王が不審な死を遂げたこと、それと併せて当時の団長だったマクガルド将軍が行方をくらませたこと……そしてそれが」
──ホーネルが消えた日に起きた、ということを彼女は知った。
フェルグスは王宮への不信感から、自ら騎士団を辞することを告げた。また指導途中である新兵を放棄することが心苦しい、ということを聞いたアドリエンヌは、ほぼ反射的に彼についていくことを表明したのだ。
「……胸騒ぎがしました。あなたが家を出た日、“天空の塔”では様々な変化が同時に起きていたのです。私の、騎士の勘が告げたのです。あなたの身に何か起きたのではないかと……ここにいてはならないと」
彼女は苦笑をこぼし、呆けているホーネルの顔を見遣った。
「私も貴族の身分を捨てました。裕福な生活はなくなりましたが……明日を生きるため、日々を大切にすることはとても、よいものですね」
それは少女の無垢な笑顔などではなく、ホーネルが知らない騎士の美しい微笑みだった。暫しその表情を見詰めていたせいか、アドリエンヌが段々と気まずそうに視線を泳がせる。
「……な、何です?」
「マオが憧れる理由も分かるなと思ってね。君、実は傭兵になってからも縁談持ってこられることあったでしょ」
「!?」
「ああ、図星を突かれたときの顔は変わってないねぇ」
フェルグスの元にいたのなら、騎士としての心構えはもちろん、人としての器も十分に磨かれることだろう。気弱な令嬢から独立した女騎士に成長を遂げた彼女が、行く先々で依頼主や傭兵仲間に目を付けられることは充分に考えられた。恐らくアドリエンヌはそれらをこっそりと、ことごとく蹴ってきたわけで、残念な男であるホーネルにはその理由が全く分からない。
「……別に僕と離婚したわけでもないんだし、そこらへん気にしてるんだったら本当に」
「……が」
「え?」
「──初恋が忘れられなくて、結婚なんて考えられなかったんです!! わ、悪いですか!?」
強い風が吹いた。ホーネルは彼女に圧倒され、間の抜けた表情で固まる。アドリエンヌはとても惨めな面持ちで顔を背け、ぐしゃりと桃色の髪を両手で乱した。
「…………ええと、それは」
「あなたよ!! 申し訳ないとか何とか言ってましたけど、私は嫌だなんて一言も言わなかったでしょう!」
ホーネルは頬を引き攣らせ、うちに湧いて出た焦りに困惑する。つまり何か、十二歳だったアドリエンヌは既にホーネルに好意を持っていて、婚約に関してはどちらかと言えば乗り気だったということになるのだろうか。しかしながら奇しくもその好機をぶち壊したのは初恋相手のホーネルであり、それだけに留まらず彼は勝手な思い込みで家まで出てしまったと。
「……うわ……」
今まで散々他人の恨みを買うような言動をしてきたが、もしやこれが人生で最も凄惨な行為なのではなかろうか。マオに知られたら大目玉を食らうこと間違いなしである。ホーネルは思わず顔を覆い、脱力した。
「……君はもう少し人を見る目を養った方が良いよ。しょうもない男を好くとこんな残念なことになる」
「……別に、見誤ったとも思っていません。あなたはマオを助けて、今まで王宮の目を掻い潜ってきたのでしょう。並大抵の者では成し遂げられることではありませんから」
「それは買い被りというやつだね。実際に頑張っていたのはマクガルドだし」
ホーネルは大きく息を吐き、ゆっくりとその場に立ち上がる。難しい顔で唸っては、やがて諦めたように肩を竦めた。
「あー……アドリエンヌ、君この戦で死ぬ予定とかある?」
「どんな質問ですか。私に死ねと?」
「いや、勝算があるならお詫びでもしようかなって」
「へ?」
アドリエンヌの持つ首飾りを指差し、彼はこれまでの非礼に対する謝罪を告げた。
「僕はそれしか芸がないからさ。君に似合いそうなやつでも作ってみるよ」
「……え」
「気に入らなかったらその時はまぁ……すごく嫌だけど、今までの恨みも込めて殴ってくれていいよ」
言い方はやはり婉曲したが、これが彼なりの精一杯の誠意だった。歳が離れていたとは言え、自分に好意を寄せる女性を傷付けるどころか抉ってしまったことは確かで、そのうえ十六年も放置した罪は重いものだと彼にも判断できる。この謝罪が受け入れられないのなら、煮るなり焼くなり好きにしてくれと言おうとして──閉口した。
アドリエンヌは手元の首飾りを見下ろし、ゆっくりと彼を見上げる。始めは困惑していたが、やがてその目許が和らぎ、泣き笑いのような表情で彼女は頷いたのだ。
「……分かりました。楽しみにしています、ホーネルさま」
あまりにも嬉しそうな顔をするものだから、彼は面食らってしまう。これでは嫌でも力を入れて作らなければならないではないか。無論、装飾品制作で手を抜いたことなど一度もないが──よく考えたら他人に贈ることは初めてだったかもしれない。注文されるより妙に緊張するのは何故だろうか。
「……殴られないように頑張るよ」
「ええ」
彼女は今と同じように、笑ってくれるだろうか。