プラムゾの架け橋

第七章

 78.





「……ホーネル! またここにいたのね」

 木陰で熟睡していた青年──ホーネルは煩わしそうに目を覚ます。そこには桃色の髪の乙女が、膨れっ面でこちらを見下ろす姿があった。彼はその言葉を聞くなり大きな溜息をついて、億劫な動きで体を起こす。

「もう、貴方はいつまで経ってもぐうたらしてるわね。お兄様を見習ったらどう?」
「見習う? 僕は兄上になりたいわけじゃないんだけどねぇ」
「待ち合わせに遅れるどころか故意に寝坊する悪癖を治せと言っているのよ!」

 後頭部を引っ叩かれ、彼は痛む個所を摩りながら振り向く。恨みがましく見詰めたつもりが、逆に睨み返されてしまった。彼女は兄や他の男に対してはしおらしく振舞っているくせに、何故か二人きりで話すときは暴力的かつ強気な性格になる。それほど嫌われているのか、いや、呆れられているのか。

「あのね、僕は他人の──兄上の婚約者と二人で会うほど愚かではないんだよ。何だい、いきなり町に行きたいだなんて」
「……。なら良いじゃない、私たちも義兄妹のようなものでしょ。買い物くらい付き合って」
「はぁ? 嫌だね、お前の買い物は長い上に何も買わないことの方が多い」
「な……っ今回は欲しいものがあるのよ!」
「未来の夫に買ってもらえば良いと思うよ。はい解散」

 再び木に凭れ掛かろうとすれば、無理やり襟首を掴まれる。ホーネルは噎せながら彼女の手を掴み、力づくで引き摺ろうとするとんでもない令嬢に異議を申し立てた。

「君は言葉が通じないのかい! どうしても来いって言うなら兄上同伴にしろ!」
「だぁかぁらぁ! お優しいマルク様がいると余計なものまで買ってしまうのよ! 貴方は何も奢らないから荷物が増えなくて良いの!」
「なおさら僕は要らない気がするね、男を引き摺れる貴女ならお一人でも大丈夫ぐぇッ」

 いきなり手を放され、ホーネルは後頭部を草むらにぶつける。痛みに悶えたのも束の間、ふと陰った視界に気付いて咄嗟に片手を持ち上げる。触れかけた柔らかな感触を寸でのところで押し留めれば、目の前まで迫っていた桃色の瞳が歪む。既に潤んでいた瞳から、ぬるい雫が落ちては頬を濡らした。

「……ひどいことばっかり。私のこと嫌いなの?」
「少なくともこういう悪ふざけはすべきじゃないと思うね。婚約者の弟に不貞行為とか」
「婚儀が行われたら貴方と二人で出かけることなんて出来ないもの。……お願い、今日で最後にするから」

 彼は参った様子で溜息をつき、際どい姿勢のまま暫し無言になる。そこで気付いたのは、屋敷の方でちらりと動いた小さな人影。それを捉えた直後、ホーネルは彼女の肩を押し返した。

「……そういえば僕、君の妹に頼まれ事されてたんだった」
「え?」
「首飾りを壊したから直して欲しいって」
「わ……私の約束は!? 妹のは聞くのにっ」
「不純じゃなかったら聞くよ」

 しれっと告げてから、ホーネルは隙を突いて体を起こす。服を軽く払いつつ、今にも決壊しそうな彼女の瞳に肩を竦めた。

「……オフェリー、前から言ってるけど僕と関わるのはもうやめた方が良い。ただでさえ僕は馬鹿息子なのに、そこへ兄上の婚約者に手を出したって罪状まで付け加えられると面倒だ」

「だって──好きなんだもの。マルク様じゃなくて、貴方がよかった」

 今日も聞く羽目になってしまった彼女の告白を、ホーネルは頭を振って聞かなかったことにする。こんな偏屈者を好きになるなど、若い娘が抱く幻想、気の迷いでしかないのだから。

「……兄上に言っておくよ、君の買い物に付き合ってほしいって」
「な……」
「一人よりマシだろう」
「ホーネル!」

 オフェリーは追ってこなかった。多分、泣いているかもしれない。ここ最近は泣かれてばかりだ。というのも、もう婚儀が今月末に控えているからだろう。段々となりふり構わず会いに来るようになったオフェリーを、彼はこうして素っ気なくあしらっていた。曲がりなりにも尊敬する兄の面目を守るためでもあり、彼女の評判を下げないためでもあるのだ。

 ──彼女の家は代々、有名な騎士を輩出している。長女のオフェリー、次女アドリエンヌの他、三人の息子はそれぞれ騎士となるため日々教育を受けているという。ホーネルの両親はかの家との交流が深く、一年前に伯爵家嫡男マルクとオフェリーの婚約が取り決められた。だが肝心のオフェリーは、何故だか弟のホーネルに好意を寄せているというよろしくない状況にある。このままでは両家の不和を生む可能性も考えられたため、ホーネルはしぶしぶ行動に気を付けながら日々を過ごしていた。

「……あ」
「悪いね、今のは忘れてやってくれるかい」

 屋敷の陰を覗き込むと、そこに少女が隠れていた。それはオフェリーの六つ下の妹、まだ十二歳になったばかりのアドリエンヌだ。桃色の髪と瞳は姉と同じだが、妹の方は少し気が弱く、話しかけるときももじもじとすることが多い。……今は、ホーネルとオフェリーのやり取りを目撃して動揺しているのだろうが。

「ごめんなさい、ホーネルさま。わ、私、覗き見しようと、思ってたわけじゃなくて……」
「……。責められるべきは僕の方さ、君が謝ることじゃないよ。それより、壊したのはそれかい?」
「! は、はい」

 アドリエンヌが差し出したのは、シンプルな宝石が一粒だけあしらわれた首飾り。身に着ける際に金具が外れ、その小さな部品も紛失してしまったという。

「な、直りますか……?」
「うん、金具なら部屋に置いてるよ。少し預かってもいいかい」
「はい……あの、ホーネルさま」
「ん?」
「近くで見ていても、いいですか?」
「……直すところを?」

 こくこくと頷いた少女に、彼は不思議そうに首を傾げる。非常に地味な作業であることはもちろん、装飾品をいじっている最中はホーネルも無言だ。アドリエンヌが退屈する姿しか思い浮かばなかったが……いや、退屈そうにしていたのはオフェリーだったか。

「いいけど、暇だと思うよ」

 少女はとんでもないと言わんばかりに首を振り、嬉しそうに笑った。


 ──その後、ホーネルは屋敷の部屋で黙々と作業に没頭した。数年ほど前から装飾品に興味を持ったのだが、この細かい作業が意外にも楽しい。宝石を削り、樹脂で固め、金具を取り付け……初めて一から装飾品を作ったときは快感すら覚えたほどだ。とは言っても素人に毛が生えた程度のものしか、彼にはまだ作れない。それでもこうして知人から修理を頼まれることはしばしばある。この前なんてどうやって城を抜け出してきたのか、あの脳内お花畑の王子が耳飾りを直して欲しいと訪問してきた。あれは修理せずにさっさとお帰り頂いたが。

「……。!」

 ふと視線を横に向けると、アドリエンヌと目が合った。少女はハッとした様子でホーネルの手元に視線を移し、再び忙しなく彼を見遣る。

「あ、えっと……終わりましたか?」
「うん。よく寝ずに待ってたねぇ、僕なら横になってるよ」

 ホーネルは首飾りを持って椅子から立ち上がると、少女の後ろへと回り込む。その際に手鏡を少女に持たせ、彼は長く細やかな桃色の髪を胸元の方へと流した。露わになった首に修理したネックレスを回し、鏡でちょうどよい長さを確認しつつ金具を調整する。

「これくらいかな」
「わぁ……ありがとうございます、ホーネルさま! もう壊さないようにしますね」

 アドリエンヌが安堵と喜びの笑みを浮かべる様を、ホーネルは鏡越しに見詰めては手を放した。

 時折、こうして装飾品を修理してやると、大抵の人間がこの少女のように華やかに笑う。貴族嫌いという難儀な性格上、なかなか穏やかなやり取りというものが出来ないホーネルだが、このときだけは他人から優しい表情を向けられるのだ。最近は、そういった顔を見るのも悪くないと思えるようになってきた。……が、余計な一言を付け加えてしまう性格が治ったというわけでもない。些細な心境の変化である。

「……ところでそれ、母君の形見かい」
「! はい。お母さまから頂いたものです。もう着けられなかったらどうしようと思って……」
「そう。……大事にすると良いよ、僕は母上の鏡を割って殴られたからね」
「ええ……っ」

 少女は心配そうな顔をしたものの、やがておかしげに笑った。



 ──それから数か月後のことだ。両家は何を血迷ったのか、ホーネルとアドリエンヌの婚約を取り付けた。

「は? いやいやいやいや父上、酒の飲みすぎですか?」
「黙らんか。お前がまともに接することが出来る令嬢など他におらんだろう」
「いや、あの子まだ十二歳ですし、さすがに婚約は」
「婚儀はアドリエンヌ嬢が十八歳になってからだ。心配するな、お前を犯罪者にするつもりはないぞ」
「充分に重罪だよ」

 結局、その決定は覆ることはなかった。正直なところ、ホーネルは人生において結婚などする気は毛頭なかった。伯爵家の当主は兄マルクが継ぐことになっていたため、彼は昔から自分のやりたいことをやってきた。貴族の風習やら作法やらは関心を示さず、学者や商人が好むような内容ばかり学んでいたのだ。その過程で見付けた唯一の楽しみが──装飾品を作ることだった。本格的に技術を学ぶため、そろそろ家を抜けてしまおうかと考えていた矢先、まさか十四も歳下の娘と結婚しろだなんて。

 ──何より、あの子が不憫でならない。

 確かにアドリエンヌは姉と違って大人しく、幼さゆえかホーネルを穿った目で見ることもない。加えて気が弱いので彼も暴言を吐かないよう気を付けていたが、それだけで仲睦まじいと勘違いされて結婚まで飛躍してしまうのは、少女の将来を早い段階で固定するような……そんな不自由さを感じた。「貴族として生まれたからには、その贅沢と引き換えに自由を差し出さねばならない」──ホーネルはそういった考え方が大嫌いだった。

 ホーネルにも、アドリエンヌにも、自由に生きる権利はあるはずだ。狭い屋敷で生涯を終えて何になる、この奇妙な巨大な橋を知らぬまま死んで何になる。無論、兄のように貴族としての人生に満足する者もいるだろう、それを否定するつもりはない。だがホーネルは納得できなかった。

「君は君の人生を歩んで欲しい」

 置手紙の最後の一文は、少女に届いただろうか。

 雷雨の中、己の不甲斐なさに笑うこともできず、彼は導かれるように暗い森へと向かったのだった。

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