プラムゾの架け橋

第七章

 73.





「──ノットって呼んでもいい?」

 今日も屋敷へ来てくれた仔猫を膝に乗せ、少女は珊瑚珠色の瞳を輝かせながら尋ねた。薄氷色の瞳がまばたきを繰り返していたので、マオは「待っててね」と仔猫を床へ降ろす。本棚のある部屋まで走っては、紫色の装丁が特徴的な絵本に手を伸ばした。何度か飛び跳ねて、ようやく絵本を入手した少女は、再び走って私室へ向かう。

「わ!」

 廊下へ出た直後、のんびりと少女の後を付いてきていた仔猫と鉢合わせた。マオは嬉しそうに笑ってその場に座ると、スカートがぐしゃぐしゃになるのも構わずに、仔猫の前に絵本を突き出す。

「これだよ! これにね、真っ黒なネコさんが出てくるの」
「みー」
「まほ……まほーつかいのノット! そっくりでしょ?」

 少女はページを開き、黒猫の挿絵を指差した。このノットは金色の瞳なので全く同じというわけではないのだが、仔猫の体の大きさや賢さはとても似通っていて、少女にはもう彼がノットとしか思えなかったのだ。きっと絵本の中から出てきて、この商業区を散歩していたに違いない、とホーネルには既に十回ほど熱弁している。


「だめかなぁ?」
「みゃー」
「ノットって呼んだら、お返事してくれる?」
「……みー」

 仔猫がマオの方を向いて座り、じっと見上げてくる。暫しの沈黙ののち、マオは笑顔を咲かせて両手を広げた。

「ノット!」
「みぃ」
「わあ……!!」

 感極まった様子で、少女は喜びの悲鳴を上げる。小さな手で、小さな友人を抱き締め、何度もその名を呼んだのだった。



 ◇◇◇



 懐かしい夢から目を覚ましたマオは、頬に触れる冷たさに飛び起きた。寝ている間に、氷壁に頬を押し付けてしまっていたようだ。少しばかり赤くなった頬を手袋で摩りながら、すぐ隣で眠っているノットを見遣る。

 渓谷を抜ける前に一休みしようと、二人は雪を凌げる小さな洞に身を寄せ合っていた。眠る前はちらちらと降っていた雪も、今は珍しく止んでいるようだ。そっと顔を洞の外側へ傾け、マオはこれから向かう先である“歪み”と思われる影を見た。それは周囲の雪に覆われているのか、やはり朧げな輪郭しか捉えることが叶わない。

「……お城みたい」

 ぽつりと呟いたとき、マオは地図を紛失したことを改めて悔やむ。それと言うのも、隠れ里の子どもたちから聞いた話を思い出したのだ。第四層の西側には人を寄せ付けない神殿がある、と。もしもこの渓谷の出口が西側にあり、手紙屋が告げた“歪み”とやらの位置が合致するようなら──あの影こそが神殿なのではないだろうか。

「でも、神殿……って何だろ?」

 マオにとって、否、プラムゾに暮らす民にとって「神」という存在はそれほど大きなものではない。五穀豊穣を祈る際には便宜上「神」へ向けて祭事が行われるものの、その名前すら彼女は知らないのだ。しかし婚姻の儀を執り行うヒェルフの中には、いくつもの「神」を象った荘厳な石造が飾られているという。うろ覚えだが、確か三柱の「神」がこのプラムゾを創ったとか何とか。人々の暮らしに過度な干渉はせず、また人々も過度な信仰をせず。互いはちょうどよい距離感を保っていたと聞く。それは今もなお同様に続く関係だ。

 もしもその神殿とやらが実在するのなら、それは三柱の「神」を崇めるための建築物かもしれない。この極寒の地の果てに、人目を避けるように建てられた……少しの怪しさを纏う遺物。もしかするとその他のものを信仰する集団が造ったのかもしれないが、そうなると尚更不気味さが増すというものだ。

「…………でもわくわくするなぁ」

 不安げな表情から一転、マオは期待に満ちた笑顔を浮かべてしまう。幼い頃から恋物語よりも冒険譚を読んで育った彼女にとって、誰も知らない場所というのは好奇心を強く刺激する。それにこの旅は“天空の塔”の民がなかなか経験し得ない、まさに大冒険と呼ぶに相応しいものではないか。こうなることが分かっていたら、迷わずペンと日記帳を持って来ていただろうと彼女は思う。この感動を、この高揚感を逐一記して残すことができたのにと。

 ──しかし。

 マオには幸運なことに、この旅をいつか共に思い出せる者がいる。言葉を交わせば文字で記すよりも鮮明に、色褪せることなく大事に記憶を抱えていられるだろう。マオは崖の合間から覗く大きな影を眺めながら、ノットの肩を抱き締める。仔猫を撫でる感覚で、その癖気味な黒髪を優しく梳いた。

「ふぁ……あったかい……」

 そうしているうちに再び眠気が襲い、マオは彼を抱き締めたまま寝息を立て始めたのだった。



 □□□



 寝ぼけ眼に華奢な背中を引き寄せてから、ノットは眼前にある寝顔を見ては目を剥いた。

 慌てて離れようとしたが、彼女を起こしてしまう気がして儘ならず。それでもこの姿勢は不味い、何だかんだ彼女を溺愛している保護者に見られたら殴られること間違いなしだ。周囲には別に誰もいないのだが、ノットは何故だか危機感を覚えて彼女の両腕から慎重に頭を引き抜く。すると途端にマオが寂しそうな呻き声を洩らしたため、結局ノットは離れることはせずに彼女を抱き締めておいた。

 ひとまず安堵の溜息をつきながらも、彼は自身がどれだけ安心して眠ってしまっていたのかを考えては消えたくなる。気を抜けば寒さで凍え死ぬ可能性もあると言うのに、この十何年かで刷り込まれた彼女の温もりというものは恐ろしいほど心を落ち着かせていく。……現状のように気を張るべき場面でもたまに弛んでしまうので、そこが困りものだ。

「にしても、寒いな……」

 眠る前よりもわずかに気温が低く感じられ、ノットは自身の吐く白い息を見ては身震いをする。これ以上寒くなると、せっかく回復した体力も歩いているうちにみるみる奪われてしまう。マオが起き次第、すぐに渓谷を抜けた方が良いだろう。


「──そうだね、それがいい」


 ノットは息を止め、今しがた聞こえた声に思考までも停止させられる。そっと隣を窺ってみるが、マオはすやすやと寝息を立てるばかりで言葉を発した気配はない。ならば今のは……。

「僕はこっちだよ」

 弾かれるように正面を向けば、そこに“彼女”はいた。長い茶髪、珊瑚珠色の瞳、極寒の地には相応しくない白いワンピース。“彼女”は向かいの氷壁に凭れ掛かり、笑顔で二人を見詰めていた。

「な……お前、“階段”の……」
「覚えててくれたんだね」

 マオと同じ姿をした奇妙な存在など、忘れたくとも忘れられないに決まっている。だが何故“彼女”がここにいるのだろうか。いつもなら“階段”の中でマオに話しかけていたはず。その不気味さも最後に見たときは薄れていたが……。

「ここはミグスが多くて好都合だから、二人で話してみたかったんだ。向こうへ渡る前に」
「え……僕?」
「そう、君と」

 “彼女”はノットを指差し、いたずらにその指先をくるくると回す。寒さは全く感じていないようで、“彼女”は平然と氷壁に手を滑らせた。

「不思議だったんだよ、どうして君がマオと一緒にあの遺跡へ来ることができたのか」
「……!」
「マオしか来れないはずだったんだ。けど君はあっさりとマオの手を引いて外に出ることができる。どうして君が。とても不思議だった。理由に心当たりはあるかい?」

 ノットは視線を彷徨わせ、少しの間を置いて首を左右に振る。すると“彼女”は途端に目を丸くして、大袈裟に肩を竦めた。

「それは残念。教えてくれないんだね」
「し、知らないって意味だ! あの遺跡についてもよく分かってないのに……」
「僕らはあるよ、心当たり」
「!?」

 “彼女”は唇の端を吊り上げ、マオがしないような不気味な笑みを浮かべる。そして緩慢な動きでこちらへ歩み寄っては、ノットの頬に手のひらを這わせた。


「いや、違う──思い出したんだ。“君たち”のことを」


 その声に秘められていたのは、愁えだろうか。何も反応できなかったノットが、一時的に忘れていた呼吸を思い出したとき、珊瑚珠の輝きは視界から消えていた。

「……ノット、どうかした……?」

 隣ではマオが身動ぎをし、目を擦りながら彼を呼ぶ。

「……何でもないよ」

 心なしか震えた声で、彼は静かに笑ったのだった。



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