プラムゾの架け橋

第七章

 72.




 ──ミグスを操る力、それはしばしば自然を操る力とも呼ばれる。

 “天空の塔”橋脚第二層、ロンダムの町に伝わる昔話には、大瀑布の水を操り天井を築いた“術師”の逸話が残る。かの者は激情に任せてミグスを掌握したがために、その肉体を第三者に害されずとも、やがて真紅の石となり朽ち果てる定めだったと学者は言う。

 “術師”は聡明であらねばならない。それは自然を歪めることによって生じる被害を考慮した言葉でもあり、“術師”自身に訪れる破滅を免れるための言葉でもある。



 □□□



 ──マオは慌てて手袋を嵌め、しばらく視線を彷徨わせた。続いて自身の頬や額を探り、何の異変もないことを確認しては息をつく。落ち着きなく周囲を見回しては、少し離れたところにノットの姿を発見した。彼も今しがた雪の中から出てきたようで、咳き込みながらこちらを振り返る。

「マオ! 大丈夫?」
「うん、何とか……あっ、そこに槍が落ちてるよ」

 渓谷に飛び込んだ直後、穴に雪崩れ込んできた大量の雪によって二人は勢いよく流されてしまった。とは言え遠くはぐれることもなく、目立った外傷も受けずに済んだのは、ひとえにノットが彼女の手を掴んでいたおかげであろう。

「ノット、ありがとう。さすがにダメかと思っ……」

 笑いながら喋っていたマオは、薄氷色の瞳がじっとこちらを凝視していることに気付く。マオは動きを止め、しばしの間を置いてから首を傾げた。

「……な、なに?」
「……マオ、それ」

 ノットが怪訝な面持ちで指差したのは、マオの首元。促されるまま、取れかかったマフラーの隙間を探ると。

「!!」

 ころ、と何かが太ももの上に落ちる。それは先程マオが慌てて見なかったことにした、真紅の石の欠片だった。顔を引き攣らせて石を隠せば、既に近くまで来ていたノットがその手を掴む。次いでミトンの手袋まで外されてしまい、マオは待ったも言えずに口を大きく開けた状態で固まった。


「……何かよそよそしいなと思った」


 右手の甲にも浮かび上がった小さな真紅の石を見て、ノットは心配するような、それでいて責めるような眼差しを向ける。そんな彼の視線に耐え切れず、マオは意味を成さない声を発しながら首を横に振った。

「あー、ええと……私もちょっとびっくりして……き、気のせいかなと……」
「さっきの吹雪が一時的に止まったの、やっぱりマオの術だったんだよ。だから……石が」
「……そっか」

 二人してミグスの石を見詰めること数秒、やがてマオは思い切って手の甲を拭ってみる。

「えいっ、あ、取れた」
「!! い、痛くないのっ?」
「うん、とくに……」

 石を皮膚から引き千切るというよりは、押し出すような感触だった。手の甲にはうっすらと痣が残ったが、放っておけばすぐに消えそうな程度だ。マオは軽く手を振っては、未だ心配そうな顔をする彼に微笑みかける。

「ノインさんも普通に拭い落としてたから大丈夫だよ。体も何ともないし」
「……つらくなったら言って」
「うん。ありがとう」

 マオは苦笑まじりに頷き、心配性な彼と額を突き合わせた。誰に対してもそうだが、やはりマオは隠し事ができない質だ。仔猫だったとはいえ唯一の相談相手だったノットには、嘘など全く通用しないことだろう。下手な芝居はやめておこうと彼女が反省したところで、二人は渓谷の細道を振り返る。

「入口、雪で埋まっちゃったね」
「その外套の持ち主もいなかったみたいだ」

 真っ白な滑り台のようになっている雪から視線を外し、マオは自身が被っている黒い外套を見下ろした。細やかな金色の刺繍が施されていたり、上等な生地が使われていたりと、改めて見るとこれが随分と高価なものであることが分かる。

「高そう……貴族の人が使ってたのかな」
「……あんな危険な場所に貴族が?」
「行かないかな? じゃあエクトルさんみたいな、お金持ちな商人さんかも」

 恐らくは後者の線が濃いだろう。貴族は自らの足で歩くこと自体が少ない上に、このような極寒の地に赴くことなど滅多にないと考えられる。用事があったとしても私兵を遣わすことが大半ではなかろうか。一方の商人は、希少価値の高い商品を仕入れるため、危険な場所に赴くことがしばしばある。第一層の商業区で暮らしていたマオは、そのような商人の武勇伝をよく聞かされたものだ。

「とにかく持って行っておこうか。ひょっとしたら、この先にいるかもしれないし」

 どこも破れていないことを確認してから、マオは外套を畳んだ。温かいので羽織っていてもいいのだが、如何せんマオやノットでは背丈が足りず動きづらさが目立った。渓谷の中か、または抜けた先で持ち主と会えるかもしれないことを考慮し、これは大事に扱うべきだろう。マオは畳んだ外套に一本のベルトを巻きつけて輪っかを作ると、頭をくぐらせて背負い鞄のように固定した。

「これでよしと。ノット、行こっ」

 ノットの手を握り、マオは細道の奥へと進む。遥か上空からうっすらと射し込む光が、氷の壁を仄かに照らす。あの吹雪の中に見えたのは、恐らくこの氷に反射する光だったのだろう。何層にも重なる氷の向こうには、マオとノットの横顔が無数に連なっている。屑々と落ちるのみだった雪が、わずかに後方へ流れ出した頃。細道が途絶え、二人の視界に広い景色が飛び込んできた。

 それは言うなれば、氷漬けにされた寒空を見ているような。極光を思わせる分厚くて平らな氷柱が、左右の氷壁からカーテンのように視界を縁取る。美しい氷の天井に意識を奪われたのも束の間、片足ほどの幅しかない足場と下方に口を開ける暗闇に慄いた。

「え、え……っここしか道ないのっ?」
「……みたいだね」

 細道の延長線上に真っ直ぐ伸びる氷の橋を見詰め、マオは強張った表情でノットを振り返る。彼は何度かまばたきをしてから、そっと手を握って尋ねた。

「高いところ苦手だっけ?」
「いや、うーんと……足場の問題が……」

 心許ない細い橋を見て、ノットは「なるほど」と頷き平然と歩き出す。マオも手を引かれるまま後ろを付いていくが、やはり恐怖が顔を覗かせてしまい、小さく悲鳴を洩らした。

「うわあぁ……っやっぱり怖い!」
「下見たら駄目だよ」
「ふ、踏み外すよ! うう……ノットは、こういう細いところ歩き慣れてるよね。私、見てて冷や冷やしてたんだよ」
「……猫のとき?」
「うん。朝、屋敷の二階に来るときなんて、お隣さんの屋根から来てたでしょ」
「……だって正面扉から行くと花屋に見付かるから嫌だった」

 仔猫がわざわざ危険な場所を通ってきていた理由を聞き、マオは思わず笑ってしまう。

「マリーさん、いっつもノットのこと探してたよ。撫で回したいって」
「ここから落ちるより怖い」

 ノットが心の底から怯えた声で答えたので、笑い声はさらに弾む。当人にとっては笑いごとではないようで、若干青くなった顔で後ろを振り向いた。

「マオもすぐに僕を差し出そうとしたでしょ」
「ふふ、マリーさんが来ると逃げちゃうの、私も原因だったのね。ふらっと消えちゃうから不思議に思ってたの」

 視線を逸らし、彼は苦々しく頷く。そのまま前に向き直ったところで、マオは「あのね」と優しく語りかけた。

「いろんな人に自慢したかったんだ、私の友達だよーって」
「!」
「ノットは一緒にお散歩してくれるし、絵本も隣で見てくれたし、転んだときは宥めてくれたし……ん……? ちょっと保護者っぽいけど……あの頃は嬉しくて堪らなかったんだと思う」
「……それは僕にも伝わってた」
「でしょ? 連れ回してたもんね」

 マオは片手を鞄の中に突っ込み、内ポケットに入れているそれを取り出す。青い鈴のついた耳飾り。ちらりと彼の右耳を見遣っては、やはりこの金具の形では身に着けられないことを悟った。いや、そもそもこれを再び受け取ってくれるかどうかも分からないのだが……。

「……あの、ノット──」
「あ、マオ、あそこ」

 発言のタイミングが被り、ノットが不思議そうにこちらを振り返った。マオは咄嗟に首を振り、「なに?」と笑顔で取り繕う。耳飾りはそっと鞄の中へ戻しつつ。

「向こう、影が見える」

 楽しく会話をしている間に、橋はほとんど渡り終えていた。彼が指差した方を見遣ると、氷柱の合間からぼんやりとした影が佇んでいるのが見える。それはちょうど、橋脚外から“大地の塔”を見たときのような。

「……あそこが“歪み”かな? 手紙屋さんの地図……あ!!」
「え?」
「ど、どうしよう、吹雪から逃げるときに……地図、落としちゃったみたい……」

 今思えば、渓谷の入り口に飛び込む時点で、既にマオの手には何もなかった。マオは顔を覆い、己の犯した失態に落ち込む。だが幸いなことに、渓谷から“歪み”までは一本道だったはず。それまでの道に、あの吹雪のような奇妙な模様も記されていなかったと記憶している。ノットを不安にさせまいと、マオはすぐにその旨を伝えようとした。

「ご、ごめんね、でもだいじょう──」
「あの状況じゃ仕方ないよ。謝らないで」
「ぶ? え、あ」
「向こうから光も射してる。一旦この渓谷を抜けて、あそこの影を目指してみよう」

 マオよりも数段は冷静な態度でノットは告げると、落ち着きのある笑みを浮かべる。その応じ方についつい安堵してしまったマオは、橋を渡り終えると同時に項垂れた。

「……ノット、猫のときもそうだったけど落ち着いてるね」
「ん……そうかな?」
「今、私の方が安心させられちゃったもの」
「なら良かった」

 ほっとした笑顔を浮かべた彼を見詰め、マオも釣られて微笑む。彼は仔猫のときと違ってふてぶてしい態度が消えているが、そこに共通する冷静さは筋金入りのようだ。いや、よく考えれば彼は“大地の塔”で生まれた民で、その寿命はマオの数倍に及ぶはず。外見や言動は若くとも、知識や経験はマオよりもずっと多いのだろう。つまりこの落ち着き加減は、マオの知らない過去に由縁するもので──。

「……」
「……? マオ?」

 ノットの手を強めに握り、マオは彼の隣まで大股に進む。そして肩が並んだところで、いつの間にか剥がれていた笑顔を浮かべたのだった。

「行こ、ノット。えっと……一緒に」



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