プラムゾの架け橋

第七章

 71.




 吹雪の続く雪原を進むに当たり、マオはハイデリヒや手紙屋からいくつか助言を貰った。一つは隠れ里の位置を誰かに知られることのないよう、“歪み”を抜けたらまず南下すること。深い森の出口が見えてきたら、そこで改めて第四層の北部を目指して歩いて欲しいとのことだった。次に、雪原を歩くときはその針葉樹林に沿っていくこと。そうすれば積雪に足を取られず、体力もそれほど奪われないだろうと彼らは言った。

 ……のだが。

「──よく埋まるね」
「お、おかしいなぁ……」

 ノットの手を借りて、マオは積雪の上に這い上がる。恐らくマオの勘が絶望的に悪いのだが、やわらかい雪を踏んでは何度も下に沈んでしまっていた。かく言うノットもたまに足を取られているが、彼女ほどではないだろう。

「北に近付くにつれて雪が多くなってきてるみたいだ……もしかしたら、これまでよりも吹雪が強まるかも」
「うう、少しでいいから晴れてくれたら良いのに」

 はらはらと舞い降りる雪を見上げ、マオは赤くなった鼻先を手袋で押さえる。今は穏やかな天気だが、段々と風が強くなってきた。今のうちに雪を凌げる場所を探した方が良いかもしれない──とマオが視線を動かしたときだ。北方より少し左寄りの方角、見通しの悪い白んだ景色の向こう側、ぼんやりとした不自然な明るさを捉えた。

「ノット見て、向こうの空ちょっと明るいよっ」

 雪を踏み固めていたノットの手を引いて指し示せば、彼がそちらを確認してはまばたきを繰り返す。

「……ほんとだ。何だろう……」
「あそこだけ晴れてるのかな? 行ってみよ!」
「えっマオ、待っ」
「ひゃあー!?」

 足元には十分に注意をしたはずが、今度は頭上から雪が落ちてくる。少量の雪が頭に降りかかった直後、勢いよくマオの体が引っ張られる。次いで訪れた浮遊感に、思わず瞑っていた目を開けた。見ればノットは軽々とマオを横抱きにして、落雪の塊を回避してくれていた。危うく首が折れるところだったと、マオは今更になって冷や汗をかく。

「び、びっくりした……ありがとう、ノット」
「ううん。……腕、痛くなかった?」
「大丈夫だよ。それにしても」

 自分の体とノットの両腕を交互に見つつ、マオは前々から思っていたことを口にした。

「ノット、細いのに力持ちだね。マリーさんとかオングさんとか、あとドッシュさんぐらいしかしないよ。えっと……お姫様抱っこ」
「……」

 その名称が何を指すのか、ノットはいまいち理解ができていない様子だった。しばらくして自分の体勢と、マオが幼い頃に流し読みしていた絵本の内容を思い出したのか、何となく恥ずかしそうに彼女を降ろす。

「……行こ」
「あっ、ノット、別に嫌じゃないよ! 私もノットのこと抱っこしてたし!」
「そ、それ言わないで!!」

 余計に彼を複雑な気持ちにさせてしまったようだ。マオは頭に乗った雪を払いつつ、彼の外套を後ろから掴んで付いていく。堆く雪を積もらせた木はもう近くになさそうだったので、マオは足元に注意しながら地図を引き抜いた。最初の目的地である北の渓谷がそろそろ見えてきても良い頃合いなのだが、如何せん同じような景色が続いているおかげで分かりづらい。何か目印はないかと注意深く見ていくと、手紙屋が描いた地図には、渓谷の手前に何やら変な模様が記されていることに気が付いた。

「うーん……? ノット、この模様なんだろう?」
「? ……手紙屋の落書き?」
「ええっ」

 「有り得る……」と考えてしまうほど、何故か手紙屋への信頼が低いことはさておき、マオは一応その模様に目を凝らしてみた。お椀型にした手で雪を防ぎつつ、眺めること数秒。マオが閃いたとばかりに声を上げるのと、ノットが足を止めたのは殆ど同時だった。

「あ! 分かった、渦巻き……ふぁ」

 彼の背中に顔を押し付ける形になり、マオは不思議そうに彼の視線の先を追う。珊瑚珠色が次第に見開かれ、地図を掴んでいた手は知らずのうちにノットの体を抱き締める。二人が唖然とした面持ちで見上げるのは、視界を遮る真っ白な──“球体”。第二層のリンバール城よりも大きなソレは、内側で激しい吹雪を起こしているようだ。中に入ればひとたまりもないことは容易に想像がつく。そして何よりも奇妙なのは、ノットの爪先からまるで線を引いたかのように、吹雪の領域が丸く切り取られていることだ。

「……もしかして、地図の渦巻きがこれかな?」
「だと思う……」

 マオは彼の肩越しに地図を広げ、問題の渦巻きの印を指差した。手紙屋が書き加えた矢印は、なんと非情なことか渦巻きを突っ切っている。つまり、「通過しろ」ということらしい。

「ええっ!? こ、これ入っちゃいけないところだよ……!」
「でも渓谷はこの先って描いてるし……」

 慌てるマオとは対照的に、ノットは注意深く吹雪のドームを観察する。やがて薄氷色の瞳が一点を凝視し、怖がるマオの手をそっと掴んだ。

「マオ、あそこ」
「なに……?」

 ノットは彼女と一緒に地図を持ち上げ、実際の方角と合わせるように宙へと翳す。矢印の方向に沿って視線を移動させていくと、先ほどマオが見付けた仄かな明かりを捉えた。光はちらちらと点滅を繰り返しているようにも見え、加えて広範囲に散りばめられている。この激しい吹雪の向こう、もしくは中心に光の正体があるかもしれない。

「あれを目指して歩いてみよう。これも“歪み”の一種かもしれないし……そうだとしたら、マオだけ先に抜けられそう」
「! ノットも一緒に引っ張るからね!」

 “歪み”ならばと任せろと言わんばかりに、マオは拳を握った。実のところ、ノットと共に吹雪を抜けられる自信はそんなにないのだが、それでも彼とはぐれないようにする術ならば身に付いている。マオは地図を鞄にしまい込み、ノットの左腕にがばりとしがみついた。彼は突然の行動に驚き、寒さとは別件で顔を赤くしつつ振り向く。

「わ!? 何!?」
「目的地の設定よし! さあ行こう!」

 ミトンの手袋で光を指差し、冒険家のごとく勇ましく声を上げる。言いつつ途中で笑いが混ざったが、それが返って緊張をほぐしてくれた。怯えの消えた笑顔を向ければ、ノットの表情も次第に和らぐ。彼は頷くと同時に、背負っていた槍を右手に携えた。それを杖のように軽く積雪に突き立てながら、慎重に吹雪の中へと足を踏み入れる。

 体が完全に吹雪の中へと入った瞬間、凄まじい雪と風が二人を襲った。あまりの暴風にマオが慌ててフードを押さえると、しがみついていた腕が外され、すぐさま肩に回される。それに倣ってマオも右腕を伸ばし、今度は腕ではなく体にしがみついた。真っ白な視界と吹き付ける風。満足に目も開けられない中、ノットのおかげでいくらか安定して歩けるようになったマオは、進行方向を薄目で確認する。するとどういうわけか、心なしか光が弱くなっていた。あの光が消えてしまえば、自身がどちらに歩いているか分からなくなってしまう。マオは焦るままにノットに呼び掛けた。

「あ……っノット、光がぅぶわあ!?」
「マオ!?」

 何かが眼前に飛来し、それはべたりとマオの顔面に張り付く。大きな雪の塊かと思いきや、視界には黒い影が映っていた。風ではためくせいで、マオはそれを上手く掴むことができない。一人でもがいていると、やがてノットが彼女の頭に引っ掛かっていた物体を取り除いてくれた。

「ぷはッ、もう、何これぇ……っ?」

 ノットが手にした黒い布は、成人男性の体を覆うことができるほどの大きさだ。試しに二人で広げてみれば、腕を通すような二つの袖や、頭を守るフードまである。

「外套だ。何でこんなところに」

 驚いた様子でノットが呟き、マオも同様にしてその外套を見詰めた。この激しい吹雪の中を舞っていたにしては、あまり傷んでいないように見える。それどころか、こうして両手で抱えていればそれなりに温かい。もしやこの先に他の誰かがいるのだろうか。外套はその人物の落とし物で、今頃は防寒具を失って寒さに震えているかもしれない。

「大変! ノット、これ落とし物だったらどうしよう! その人死んじゃう!」
「えっ……身に着けてるものを落とすかな?」
「でも現に飛んできたし……私も落としそうな気がするし」

 マオが苦笑いを浮かべて告げると、何となく納得したような表情でノットが頷く。

「じゃあ急ごう。ちょっとずつ風が強くなってるから気を付けて」
「うんっ」

 彼は外套をマオに被せてしまうと、先程よりも少しばかり大股に歩みを再開した。彼の言う通り、光の方へ進むにつれて風は更に強まっているようだ。あまり体感できていなかったマオにも、次第にその変化が読み取れるようになった頃には、足を前に出せないほどまでに至っていた。

「っ……す、進めない!」

 まるで両足を地に固定されてしまったかのようだ。目印の光も吹雪によって掻き消され、途方に暮れた二人は顔を見合わせる。だがここで折り返すにしても足跡が見当たらず、正確な帰り道を辿ることも難しそうだ。どうにかして先へ進みたい──と再び足を踏み出そうとしたとき、マオはハッと息を呑む。

 ──人の体内だけじゃない。ミグスはそこらじゅうに漂ってる。

 もしも、この吹雪が“歪み”によって生じた局地的なものだとして。そこに大量のミグスが偏っていたとして……それを操ることはできないだろうか。

 “術師”であると言われながら、マオはいまだに自らの力でミグスを上手く操作できた試しはない。“階段”を早く抜けてしまうのは非常に受動的なもので、いわゆる体質と考えるべきだろう。そうではなく自らの意思で、ミグスを能動的に動かし──この勢いを増すばかりの吹雪を止めようと彼女は考えたのだ。

「う、うーん……! も、ものは試し!」
「へ?」

 些か無謀な気がしたが、マオは頬を叩いて気合いを入れる。が、やはり不安なのでノットにはしっかりと抱き着いておく。そして強く目を閉じれば、暗く冷たい闇が訪れた。頬を打つ豪雪、獣の咆哮を思わせる風、それらを聴覚だけで捉えていたマオは、ふと違和感を覚えて眉を顰める。

「っ……?」

 目を閉じているはずなのに、仄かな光が見える。細く儚い光の筋が、遠くの方で煌めいている。

 ──雲の方、きらきらしてない?

 隠れ里の子どもたちの言葉を思い出し、マオは弾かれるように片手を伸ばした。刹那、暗闇のあちらこちらから光が発せられ、彼女の指先に集う。もう少しで届く、もう少しで掴める──と思った瞬間、マオの踵がずるりと滑った。

「あれ──うべっ」

 彼女が前のめりに倒れたときだ。すかさずノットはマオを抱え上げようとして、硬直する。薄氷色の瞳を大きく見開き、戸惑いの声を洩らしながら周囲を見渡していた。

「いたた……」
「マオ、何かした?」
「転んだ……」
「いや、そうじゃなくて」

 ノットはそこでようやく彼女の肩を抱き、そっと起こしてくれた。マオは顔についた雪を払い落とし、すぐ近くにあるノットの横顔を確認する。ついで彼の視線を辿っては、自身も目を見開くこととなった。叩きつける雪は勢いを失い、吹き荒れていた暴風も嘘のように沈黙している。本当に吹雪を止めることができた──否、二人が驚いたのはそれだけではない。

「……何あれ……」


 ──澄み渡った快晴の空、その遥か向こうに浮かぶ巨大な“歯車”を見つけたのだ。


 白む地平線と青色、まるでそこに模様を刻むかのように佇む規則的な並びの影。二つの歯車の凹凸が噛み合っているように見えるが、そこから推測できる歯車の全体像は、今見えている空よりも大きいのではなかろうか。

「歯車……もしかして……」
「ノット、知ってるの?」

 呆然と空を見上げていたマオは、上ずった声でノットに尋ねる。空に巨大な歯車が見える光景など、彼女には到底理解が追い付かない。きゅっと手を握れば、安心させるように彼が力を込めた。

「“大地の塔”にも同じものがある。……けど、あんなに大きくない」
「……ミグスで大きく見えてるのかな?」
「多分そうだと思う。大丈夫、落ちてきたりしないよ」
「え! 何で考えてること分かったの!?」
「そんな顔してた」

 咄嗟にマフラーで顔を隠すと、ノットはくすくすと笑う。マオは恥ずかしげに視線を逸らしたが、真っ白な積雪を見ては羞恥を引っ込める。

「私ね、さっきミグスを動かそうと思ったの」
「ミグスを? ……あ、だからさっき“ものは試し”って」
「うん。吹雪を止められないかなって……でも空まで晴れちゃったし、私の力じゃなさそうだね」

 雪原ではまず見ることができなかった青空を指差し、マオはその手で頬を掻く。暗闇の中できらきらとした光は見えたが、あと少しのところで足を滑らせ、同時に集中力も切らしてしまった。結局あの真っ白な光──おそらく吹雪を形成していたミグスを掴むことはできなかった。

 そう語りながら二人は立ち上がり、改めて進行方向を見遣る。

「でもマオの干渉も、少しは影響したんじゃないのかな。そうじゃないと、いきなり吹雪が止むなんて……」
「だと良いなぁ……ん?」

 外れてしまっていたフードを被り直したところで、マオはまばたきを繰り返す。雪原の向こうに、見覚えのある人影が二つ見えた。それは二人が前に進むのに併せて、同じようにこちらに向かってくる。もう数歩だけ進むと、ようやく鮮明にその姿を捉えることができた。

「私とノットだ」

 マオが手を振れば、そこに“映った”彼女も同時に手を振り返す。視界に走った閃光を辿り、二人は再び視線を持ち上げた。目を凝らすことで現れたのは、景色を丸ごと反射する巨大な鏡──芸術品と見まがうほど、美しく氷漬けになった岩壁だ。

「すごい……あ! もしかしてこれが渓谷かな?」

 明るく声を上げたマオは、いそいそと鞄から地図を取り出す。その傍ら、じっと氷の鏡を見詰めていたノットは、ゆっくりと後ろを振り返る。

「……!!」
「ほら、やっぱりそうだ! どこかに入口が……」
「マオ!!」
「え?」

 切羽詰まった彼の声に振り返り、マオはすぐそこまで迫っている雪の嵐に目を剥いた。あれは先程止まったはずの吹雪だろうか? 二人を食らおうとするばかりの勢いは、もはや雪崩にも等しかろう。

「嘘、何で!? わあ!?」

 隣から真紅の光が発せられ、慌てふためくマオの腹部に軽い衝撃が与えられる。体が持ち上がったと思えば、漆黒の獅子がマオを背に乗せて走り出した。振り落とされぬよう黒い毛並みに掴まったマオは、急いで渓谷の入り口を探す。氷の鏡の間際まで近付いたノットは、そこから直角に曲がっては壁と平行に走った。

「ええと、これは溝、これも違う……ノット! あそこ!」

 ようやく壁の切れ目を見つけたマオが叫ぶと、その指先を目で辿った獅子はさらに加速した。よくよく見るとそれは壁を無理やり刳り貫いたような穴だったが、その先に道が伸びていることを願うばかりだ。半ば賭けにも等しい気持ちで二人が飛び込めば、すぐ背後まで迫っていた雪が大きな音を立てて壁にぶつかる。

 当然その穴にも雪がなだれ込み、すぐさま獅子の足を浚ってしまう。ぐらりと体が傾いたかと思えば、ノットは即座に真紅の光を纏って人型へと戻る。マオの体が慣性に従って宙に浮き、とんでもなく恐ろしい浮遊感に見舞われた彼女は悲鳴を上げた。

「ひゃああ!?」
「マオっ」

 ぐいと腕を引き寄せられ、マオはほとんど逆さまの状態でノットに掴まる。その後、勢いよく二人の視界は雪に覆われ、穴から続いていた細い道を滑るように運ばれていったのだった。



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