66.
──グレンデル、顔を上げなさい。
屋敷の扉を前にして、少年は俯いていた。まばたきもせずに爪先を見詰めていれば、隣から困ったような溜息が降る。
「グレンデル、大丈夫だよ。私の子どもたちは、君が来ることを楽しみにしている」
ランクセン公爵家の当主ヒズベルトは、まるで実の父のように少年を抱き締めた。
「ほら、おいで」
優しい笑みを浮かべ、ヒズベルトは扉を開ける。暖かな灯火が月影に射し込んだ直後、屋内から一つの影が勢いよく飛び出してきた。
「父上! おかえりなさい!」
「うぐッ」
ヒズベルトの腹部に頭突きをかましては、陽だまりのような笑顔を向ける金髪の少年。その後ろを小走りに付いてきたのは、駱駝色の髪の少女。髪や瞳の色以外は瓜二つと言っていい二人を、ヒズベルトはしっかりと抱き留めた。
「ただいま、ハイデリヒ、エリシャ。良い子にしていたかい?」
「してたよ」
「おにいさま、さっきお皿を割っていました」
「準備を手伝ってたから割っても良いんだよ」
「ハイデリヒ……外だけじゃなくて、屋敷の中でも行儀よくしてくれると嬉しいんだが……」
ヒズベルトは顔を覆ってから、その手でこちらの肩を引き寄せる。知らずの間に、後ずさっていた少年の肩を。
「あ! 父上、もしかしてそれが……」
「ああ、この前言っていた子だよ。グレンデルだ」
「じゅうしゃの?」
「そう、お前たちの……今は、友達と言った方がいいかな」
ハイデリヒとエリシャは顔を輝かせると、それまで抱きついていたはずの父を放ってこちらへ近付く。思わず距離を取ろうとしても、双子はお構い無しに少年の両手を握ってしまった。
「初めまして! 僕はハイデリヒ」
「エリシャ……です」
「今日、グレンデルが来るからお祝いの準備をしてたんだよ! 早く行こうっ」
ぐいぐいと手を引っ張られ、少年は戸惑い気味にヒズベルトを振り返る。彼は穏やかに頷くと、扉を後ろ手に閉めて告げた。
「我が家にようこそ、グレンデル」
△△△
騎士というものは、幼き頃からその精神と肉体を鍛えられ、選ばれた者だけが獲得できる誇り高き称号である。武門の出であるグレンデルの家は、代々勇猛な騎士を輩出してきた家系の一つとして有名だった。
……のだが、グレンデルは少々、勇猛な騎士とはかけ離れた性格をしていた。身体は丈夫だが小心者で、小さな動物を見ると驚いて固まってしまったり、他人に対しても何処か堂々と振る舞えない節がある。豪胆で勇ましい三人の兄と比べると、やはり見劣りしてしまう。
これで本当に騎士になれるのかと、グレンデルの両親が頭を抱えた頃のこと。一体どういうことか、少年の噂を聞いたランクセン公ヒズベルトが、是非とも息子らの従者にと申し出てきたのだ。
慌てた両親が、「このような臆病な騎士など、とてもじゃないが渡せない」と言ったところ──。
▽▽▽
「──君は臆病なわけじゃない、優しいんだ。ウサギに触れないのも、自分より弱いものであるとしっかり理解してるからさ」
あのときと同じ台詞を言いながら、ヒズベルトはにこやかに笑って、子ウサギを抱え上げた。ほら、と眼前に差し出され、グレンデルは泣きそうになりながらも、恐る恐るそれに触れてみる。
「騎士とは主君を守る……いわば“盾”だ。誰かを傷付ける“剣”ではない。グレンデル、君は無闇に誰かを傷付けることはないだろうから……立派な騎士になれると思うよ」
「……」
「“強さ”にもいろいろある、ということだ」
滑らかな毛皮と、内側から感じる鼓動。少しでも力を入れれば死んでしまう、か弱い生き物。殆ど身動きも取れぬまま抱えていると、そこに小さな手が伸ばされる。
「わあ、見てくださいっグレンデル! ウサギがわたしの指の匂いを嗅いでいます……!」
「あ……は、はい」
「おにいさまも見……おにいさま?」
すぐ隣でウサギを撫でていたエリシャは、兄の姿を探して森を見渡す。ウサギを落とさぬように気を付けながら、グレンデルも顔を上げてみると。
「おにいさま! またそんなところに登って!」
いつの間に登ったのか、ハイデリヒは木の上に座っていた。彼はエリシャを見下ろしては、自慢げに鼻を鳴らしてみせる。
「エリシャも登ったらいいじゃないか。あ、でもこの前落ちたから無理か」
「う……っの、登れます! わたしだって登れます!!」
「こらこらこら、やめなさい。ハイデリヒも意地悪を言わない」
木の幹にしがみつこうとしたエリシャを引き止め、ヒズベルトは呆れ気味に兄を咎めた。しかしエリシャは悔しそうに兄を見上げると、何か閃いた様子でこちらへ駆け寄ってくる。
「いいですっ、おにいさまが木登りしてる間、わたしはグレンデルともっと仲良くなります!」
「!!」
「ほら行きましょう、グレンデル! おにいさまなんて無視です!」
「待てエリシャぁ!!」
お育ちの良さそうな顔をしておきながら、如何せんこの双子はやんちゃである。グレンデルと仲がいいのはどっちだ、剣術の素質があるのはどっちだ、勉強ができるのはどっちだ──とにかく張り合わないと気が済まない。貴族社会において、そういった性格はとても有利なのではあろうが、実のところ「同い歳の相手に負けたくない」という単純な理由の方が大きいのだろう。
いや、それ以上に──。
「……本当に、仲がよろしいのですね」
ぽつりと呟くと、それを聞いていたヒズベルトが苦笑する。
「代わりに友達は少なくてね。だから君が来てくれて喜んでるんだ」
「……私は、お二人とは歳が少し離れていますし……友達、とは言い難いです」
「そうかい? 向こうはその気でいるよ」
はしゃいでいる双子を指差し、彼は笑う。
「友人として、従者として……彼らを支えてくれると嬉しいな。私はその役目を、君にこそ頼みたい」
ヒズベルトの優しい眼差しを受け、グレンデルは少しの間を置いて俯いた。不出来な子として両親から叱咤され、騎士にはなれないとまで言われていた自分が、あのランクセン公爵家に仕えることになるなど考えもしなかった。初めは公爵を失望させてはならないと焦ってばかりいたが、それは無駄な心配だったらしい。公爵はグレンデルに、一般的に言う理想の騎士像を押し付けようとしなかった。
“優しい騎士”を、“双子の友人”を、グレンデルに求めたのだ。
「……はい」
小さく、されど毅然と返事をすれば、ヒズベルトは嬉しそうに微笑んだのだった。
◇◇◇
「──く……ッ」
肩を掠めた刃に意識を引き戻され、グレンデルは大きく息を吐いた。立て続けに襲い掛かる剣を寸でのところで受け止めると、雪に埋まった右脚を素早く振り抜く。膝当てを相手の腹部に食い込ませ、間髪入れず跳ね返った頭部に拳を放った。
「ぐあっ」
残るは三人。既に十人ほどを相手にしたせいで、複数の傷が徐々に体力を奪っていく。早めに片付けなければと、剣を握り直した瞬間のこと。
「……!」
右手が上手く握れない。寒さで感覚がおかしくなってしまったのだろうか。いや、それだけではない。脚も十分に力が入らず、気を抜けばすぐに崩れ落ちてしまいそうだ。
「疲れてきたようだな、騎士さんよ」
「放っときゃ凍死でもすんじゃねえか?」
「馬鹿か、こんだけ仲間がやられたんだ。タダで死なせてやるかよ……!!」
行商人を襲った賊は、もはや積荷などそっちのけでグレンデルの首を狙っていた。この雪原の気候や地形には慣れているのか、余裕の表情でじりじりと距離を詰めてくる。
「……これまでか……」
グレンデルは低く呟きながらも、構えを解くことはしなかった。どれだけ絶望的な状況であっても、己には全うしなければならない使命がある。
──グレンデル、命令だ。
彼女が言ったのだ。守らなければならない筈の主君が、こちらを振り向きもせず、ただ一言。
──逃げろ。
「……っ!!」
グレンデルは悔しげに歯を食いしばり、大きく左足を前に踏み出す。そのとき、額に勢いよく剣が打ち込まれ、彼の視界が赤く染まった。それでも彼は太刀筋を歪めることなく、正面にいた男の腹を切り裂く。
「このッ……終わりだ!!」
左右から刃が迫る。完全に首を捉えられたと悟り、グレンデルの動きが一瞬だけ止まってしまった。内に湧いたのは恐怖だったか、諦めだったか。否、主君の元を離れ、二度と会えないことを嘆く──後悔だったか。
「……エリシャ様──」
「──主人の前で死ぬつもりか、グレンデルッ!!」
剣戟の音が甲高く響き、グレンデルは片目を見開く。すぐ目の前に、彼女とは違う、それでいてよく似た背中があった。金髪の青年は剣を構え、怯んだ二人の男に斬り掛かる。迷いも恐れもない剣筋は、目にも止まらぬ速さで獲物の首を貫いた。
「ふんッ!!」
もう一人の男が背後から襲いかかろうとすれば、どこからか現れた巨漢の凄まじい拳が顔面に埋まる。遠くまで吹っ飛ばされた男は雪に埋まり、そのまま動くことはなかった。
風の音しか聞こえなくなった銀世界で、金髪の青年は剣を納める。そして溜め息混じりに振り返っては、懐かしい笑みを浮かべた。
「お前は“俺たち”を守るための騎士だ。こんな雪原で一人寂しく死ぬなんて許さないよ」
夢か現か、そんなことはどうでもよかった。グレンデルは込み上げた震えを飲み込み、その場に崩れ落ちたのだった。