65.
細身の剣を携え、ハイデリヒは厚手の外套を羽織りながら屋外へと出た。隠れ里の出入口付近には人が集まっており、恐らく逃げてきた行商人に群がっているのだろう。
「ハイデリヒ」
「! やあ、おはよう」
そちらへ足を踏み出そうとしたとき、背後から声をかけられる。振り返れば、屋敷付近でマオを待っていたノットがそこにいた。
「……セレスティナが慌ててた。何かあったのか」
「あったにはあったけど、今回は君もお留守番ね。王女殿下とティナのこと頼んだよ」
「うぁっ撫でるなッ」
わしゃわしゃと黒髪を撫で回し、ハイデリヒは彼を完全に猫扱いしてから踵を返した。本調子でないとはいえ、ノットは人型でも十分に戦える。あとはフェルグス傭兵団を残しておけば、マオとセレスティナの守りは事足りるだろう。詰まるところ、グレンデル救出に連れて行ける最適な人物は、おのずと絞られてくるわけだが……。
「あらぁ、ハイデリヒ! どちらへお散歩?」
現れた巨漢を見上げ、ハイデリヒは危うく引き攣りそうになった笑顔で爽やかに応じてみせた。
「これは……マリー殿。外へ向かう途中でしてね、よろしければご一緒していただけますか?」
「んまっ、さすがね。アタシを見て顔色を悪くしなかったのはマオちゃんとアナタぐらいよぉ? いいわ、付き合ってあげるっ」
くねくねと体を曲げながらも、マクガルドは快諾した。どうやら既にハイデリヒが外へ行こうとしていることは知っていたらしく、その腰には年季の入った剣がある。見た目はともかく、元王宮騎士団長の彼が同行してくれるならば不安は殆ど無いだろう。
「ところで雪原に何の用事かしら?」
「妹の護衛騎士が雪原に来ているようでして。危険な状況かもしれないから助けてこい、とティナに言われました」
「うふふ、それでアナタが自ら行くことにしたのねぇ。意外とイイとこあるじゃない」
「他の者に頼むわけにもいかないし、何よりグレンデルは……元々、私の騎士として育てられた男ですしね」
「あら、そうだったの?」
十年以上前、父ヒズベルトが連れてきた少年。それがグレンデルだった。少々引っ込み思案だが体格が良く、物覚えも良かったことから従者として育てられることになったのだ。勿論、その決断には心優しい父による恩情も多分に含まれていたが、それ以上にグレンデルには騎士の素質があったと言えよう。
「将来、ランクセン公爵家を担うことになるお前を、忠実かつ寡黙な彼が必ず支えてくれる、と。……父の言葉は本当でしたよ」
「……今までエリシャを支えていたんだものねぇ。もう、いい話じゃない。早く助けてあげなくちゃね」
「ええ……あまり良い予感はしませんが」
小さく呟きつつ、ハイデリヒは前方に現れた真っ黒な穴を見上げる。行商人の話では、隠れ里へ来る途中で賊の襲撃を受け、そこをグレンデルが助けに入ったということだ。彼ならばそこらの賊など蹴散らせるだろうが、如何せん雪原では行動を制限されてしまい、本来の力を発揮できないことも十分に考えられる。万が一の事態も有り得るだろう。
「さて、ここから少々急ぎますがよろしいですか」
「うふ、舐めないでちょうだい。現役時代は実地訓練も兼ねて、よく雪原で熊と戦ってたのよ」
「…………それ、実話だったのですね」
まさに命懸けの訓練の実態を聞き、ハイデリヒは戦慄した。マクガルドの武勇伝はいくつも聞き及んでいたが、よりにもよって熊と殺り合った話が実話とは思わなかったのだ。通りで賞金稼ぎ共の歯が立たないわけだと、ハイデリヒは苦笑をこぼす。
「頼もしい限りです。私の方が足を引っ張りそうだ」
「そんなことないわ。あのランクセン公の御子息だもの、期待してるわよぉ? さ、行きましょ!!」
二人は同時に抜刀し、“歪み”の中へと駆け込んだ。真っ暗な闇が視界を塗りつぶし、進行方向から白い霧が漂ってくる。霧が足元を走り抜ける頃には、いつの間にか氷の宮殿が姿を現していた。樹氷の景色を左に据え、ハイデリヒは長い廊下の突き当りまで向かう。
「……昨日も思ったけれど」
硝子の外された窓枠を飛び越えたところで、不意にマクガルドが口を開いた。
「“歪み”にしては上等よねぇ、ここ。城としての構造はぐちゃぐちゃだけど……」
「ええ。ずっと昔に、隠れ里の“術師”が少しばかり手を加えたそうです。“歪み”にはない、正しい道順を作るために」
「まあ! そんなことも出来るのね」
とは言っても、今の“術師”にそのような芸当が出来る者は殆どいない。隠れ里の住人から聞いた話では、あそこに暮らすのは先祖や両親が“術師”だった者で、本人はそれほど強い力を持っていないのだという。つまり、術を扱えないセレスティナと似たような位置づけなのだ。
「ふぅん? やっぱり“術師”の力って、血の濃さでも関係あるのかしら」
「さあ、そこは私も詳しくは分かりませんが……もしかしたら、王女殿下は“歪み”を変容させる力をお持ちかもしれませんね」
「!」
マクガルドの表情が途端に険しくなる。鬼の形相というに相応しい変貌ぶりに、ハイデリヒは苦笑をこぼしながら扉を開け放つ。
「兆しは見えませんでしたか? 殿下が幼き頃、不思議な現象はひとつも?」
「……。アタシはそういうことに疎いのよ。それに商業区は橋脚の外、確認のしようが……」
苦々しく答えたマクガルドだったが、やがてその眉が片方だけ持ち上がった。
「……昨日のホーネルの話、覚えてるかしら? 伯爵家から飛び出した日のこと」
「ええ、使用されていない“階段”を通って……」
「アイツ、その時に赤い光を見たって言うのよ。赤ん坊の泣き声がしたから、その光を掴んで……気付けばダーリンの元に立っていた」
「……もしや、ホーネル殿を呼び寄せるために、王女殿下が“階段”を繋げたと……?」
いいや、それだけではないとハイデリヒは気付く。生まれて間もない赤子だったマオは、自身を抱えて“階段”へ入ったオングのことも出口へ導いたのではなかろうか。何せ使用されていない“階段”は、その出口が複数に分かれてしまったがゆえに使用を禁じられたのだ。下手をすれば中を延々と彷徨い続けるところだったオングを、マオは短時間で第四層へと送り届けた。
となれば彼女には──確実に、“階段”や“歪み”を操る力が備わっている。恐らくその自覚もなければ、制御方法も分かってはいないのだろうが。
「……いや、それはさすがに早計か」
ハイデリヒは今しがた立てた仮説に首を振る。いくらマオが“術師”といえど、自我もない赤子が助けを求めて力を行使するなど、通常なら考えづらい。ホーネルが見た赤い光は、確かにマオを象ったものかもしれないが──もしも、その場にホーネル以外の“第三者”がいたのなら話は変わる。
──オングとホーネル以外に、何者かが王女を逃がす手助けをした。
そしてそれは“術師”である可能性が非常に高い。先王コンラートが秘密裏に動かしていた人間か、はたまた気まぐれな善意で赤子を助けた変わり者か。出来ることなら、かの人物がこちら側に悪影響を及ぼさないことを祈るばかりだ。
「! マリー殿、そろそろ出口です」
「了解よぉ」
気合を入れるためか、マクガルドは走りながら片腕をぐるりと回す。その眼光はまさに、狩りを行う獣のものだ。彼を一瞥したハイデリヒも、細身の剣をしっかりと握り直す。
──どうかされましたか?
ふと、いつかの記憶が脳裏を駆け抜けた。あれは確か、エクトルの側近としての仕事が板に付いてきた頃のこと。ハイデリヒは貴族との取引のため、初めて単身で侯爵家の屋敷へ向かった。そこで偶然、本当に予期していなかったことが起きた。
扉をノックしようとした瞬間、ちょうど中から出てきた細身の青年。駱駝色の髪と瞳、自分よりも少しばかり柔らかな顔立ちの──紛れもない、妹だった。幸いにも外套を目深に被っていたハイデリヒは、その驚愕した表情を悟られることもなかった。
──侯爵のお客人ですか、どうぞ。
にこりと笑った彼女は、目の前にいる者が兄と気付かぬまま扉を譲る。
その場で素顔を晒し、再会を喜べぬ己をどれだけ恨んだか。ハイデリヒは妹を巻き込まないために、妹を苦しませなければならなかった。妹もどうせなら、潰れたも同然の公爵家など捨て置けば良かったものを。
何故、何故──エリシャは自ら茨の道を歩んだのだ。
「……矜恃など、持つだけ無駄だ。エリシャ」
小さく呟き、ハイデリヒは目前に迫った扉を蹴破る。勢いよく吹き込んだ真っ白な雪と風に包まれ、景色が森へと移り変わる。剥き出しの土を踏みしめ、木々の合間から覗く雪原を目指した。
やがて彼の視界に映ったのは──純白に落ちる、黒ずんだ赤だった。