プラムゾの架け橋

第六章

 63.

 

 ──サイラムとノインを宿まで送り届けたマオは、随分と明るくなった隠れ里を見遣る。住人が賑わいを見せつつ活動を開始しており、ふと第一層の商業区を思い出した。もう何ヶ月も帰っていないため、あの屋敷が恋しい気持ちも湧いてくるが……今は我慢の時だ。

「……よし、ハイデリヒさんに会いに……」

 彼に反乱軍のことを話しに行かなければ、とマオが踵を返したときだ。彼女が渡ろうとした橋とは別方向から、聞き慣れた声が聞こえてきた。つと視線をずらしていけば、左の橋の向こうにホーネルの姿が見える。

「ホーネルさ」

 ほぼ反射的に駆け寄ろうとしたマオだったが、彼の話し相手を見ては慌てて立ち止まった。ついで橋の傍らにある大きな荷物の陰に入り、そっと二人の会話を窺う。

「──ああ……やっぱりそうだったんだ。いや、避けていたわけじゃないんだけどねぇ」

 乾いた笑いをこぼしながら、ホーネルは心底参った様子で後頭部を掻く。口調はいつもと変わらないが、珍しく彼の足は後ろへ下がり気味だ。今すぐその場から逃げ出したいと言わんばかりの態度に、彼の話し相手は少しばかり顔を歪めてしまう。

「……私のことは、覚えていらしたのですか」

「んー、まあ、そりゃあ……最後に見た時は、もっと小さかった気がするけど」

「あ、当たり前でしょう!! 十六年も経てば変わります……!」

 ──十六年?

 マオは荷物の陰に隠れたまま、混乱を露わに口元を覆う。盗み聞きは良くないと分かっているのだが、如何せん自分のことを話さないホーネルのこととなると、無性に気になってしまう。後々のお叱りを覚悟で、マオはその場に留まった。

「じゅ……それで、君はその間に騎士になってたと……」

「……ええ。“婚約を破棄されてしまった”ので、これからは武に生きようと」

「ああー」

 彼の頬が引き攣った。何と冷や汗までかいているではないか。ホーネルがあそこまで焦る様など、マオはもちろん見たことがない。いやそれよりも、やはり──。

「──……悪かったね、アドリエンヌ。君には惨めな思いをさせてしまった……かな?」

 桃色の髪の女騎士──アドリエンヌは眉を寄せ、複雑そうな面持ちで視線を逸らした。やがて彼女は瞑目すると、どこか諦めたように首を振る。

「いえ……元より望まぬ婚約だったのでしょう。これで良かったのです。……失礼」

「!」

 そのままホーネルの横を通り抜け、アドリエンヌは立ち去ってしまった。彼女の背を見送ったホーネルは、溜息と共に肩を竦める。引き止めることもなく踵を返そうとした彼を見て、マオはがばりと立ち上がった。

「ホーネルさんッ」

「!! げっ、マオ」

 マオは大股に橋を渡り、気まずそうな彼の腕を掴む。そしてアドリエンヌが去った方向を指差せば、ホーネルは「いやいや」と手を振った。

「マオ、ちょっと待とう。今の話は聞かなかったことにしよう」

「駄目、ちゃんと聞きましたっ」

「でも盗み聞きは良くないよ」

「今のは大事なことだからいいの! アドリエンヌさんの婚約者だったんでしょっ?」

 彼がなにかと話をはぐらかそうとするので、マオも屁理屈で対抗しつつ本題に迫る。婚約者という単語にホーネルは固まり、マオの真っ直ぐな瞳から逃れるように視線を泳がせた。

「……十六年も前の話だよ。それに僕もうおじさんだし、ほら」

「おうちを出るとき、アドリエンヌさんに何も言わなかったの?」

「ううーん」

 どうしても逃がしてくれないと悟ったのか、ホーネルは苦笑混じりに唸る。やがてマオの背を宥めるように叩いては、すぐ傍の手摺に凭れかかった。

「……僕が伯爵家にいたことは話したっけ?」

「うん、昨日……あ、フェルグスさんからも、ちょっとだけ」

「そう。だったら知ってると思うけど、僕はとんでもない甲斐性なしでねぇ。あの子……って言ったら失礼か。彼女との婚約もまぁ、周りから哀れまれたよ」

 主に彼女が、とホーネルは付け加える。偏屈者で他の貴族と馴染めないホーネルと、何と当時まだ十二歳になったばかりのアドリエンヌの婚約。幼くも美しい令嬢の相手がアレと知るや否や、周囲の者は「勿体ない」「可哀想に」と陰口を叩いたそうだ。

「そんな中、僕が勝手に家を飛び出した。こんな嫌われ者に置いて行かれた彼女の評判は下がっただろうね。現に、彼女は新しい婚約者も探さずに騎士になってたし」

「……婚約を破棄されたら、評判が下がるの?」

「女性は特にね。変な空気なんだよ、あそこは」

 つまり事実上の婚約破棄を突き付けられたアドリエンヌは、何故だか彼女自身にも落ち度があると噂されてしまった。そのせいで新しい結婚相手も見付からず、令嬢ではなく騎士として生きる道を選んだ──というのがホーネルの見解である。二人は何とも後味の悪い関係に落ち着いてしまい、十六年経った今、奇妙な再会を果たしたのだった。

「……でもそれ、ホーネルさんの考えだよね?」

「ん? そうだね」

「アドリエンヌさん、とっても綺麗で格好良いんだよ。婚約者が見付からないなんておかしいと思うな」

「……まぁ大抵の坊ちゃんは大人しくて無害そうな娘が好きだからね」

「ホーネルさん」

 ぺしっと彼の腕を叩いてから、マオは両手を腰に当てて仁王立ちした。

「ちゃんとアドリエンヌさんとお話して。あの人は、そんな……文句だけ言いに来るような人じゃないよ」

「……そうだとして、彼女には特に話すこともないんじゃないかい?」

「ホーネルさんはあるの? 話しておきたいこと」

 きょとんとして尋ねれば、ホーネルの頬がまた一つ引き攣った。アドリエンヌと話したことで少なからず動揺しているのか、彼自ら墓穴を掘ったようだ。好機とばかりにマオが口を割らせようとしたとき、寸でのところでホーネルが彼女の口を手で塞ぐ。

「ふぉっ」

「マオが気にすることじゃないよ。今は反乱軍のことを考えた方がいいと思うけどねぇ」

 じとっとした瞳でホーネルを睨み上げるも、既に彼はいつもの曖昧な笑顔に戻ってしまっていた。やがて追及を諦めたマオは、大袈裟に肩を竦める。

「反乱軍のことなら、もう殆ど決めてるよ」

「……そうかい」

「…………聞かないの?」

 マオの問いに、不意を突かれた様子でホーネルの眉が上がった。いつもなら──否、今までなら、マオは物事を決断するときに彼の許しを得るようにしていた。幼い頃なら外で遊んでもいいか、仔猫を屋敷に入れてもいいか、些細なことも聞くようにしていた。そして橋脚の中へ赴くときも、彼の許しを得て──。

 しかし今、恐らく人生で最も大事な決断をしようというときに、ホーネルは何も言葉を掛けようとしなかった。マオの心をじわりと不安が侵蝕する。彼はもう、マオのことを家族ではなく王女として見なしてしまったのだろうか。その決断に口を挟む権利を、自ら捨ててしまったのだろうか。

 次第にマオの顔が曇っていけば、その頭をそっと撫でられる。

「──まあ、分かってるからねぇ」

「……へ?」

 ホーネルは彼女の背中を擦り、背後を見るように促した。振り向くと、そこには真っ白な雲海と巨大な影がある。彼女が屋敷からずっと眺めていた影を指し、ホーネルはどこかおどけた口調で告げたのだ。

「あの猫のためなら、マオは何だってやるだろう? 屋敷に来いと口説いたり、餌をあげたり耳飾りを作ったり、“初めて出来た友達だから”って」

「!」

「その大切な友達の故郷が危ないと聞けば、迷うことなんてなさそうだと思っただけさ」

「……ホーネルさん」

 背中を摩っていた手が移動し、マオの頭に乗せられる。ホーネルと共に雲海を見詰めたまま、彼女はその優しい言葉をひとつひとつ胸に染み込ませていった。

「王家の云々は置いといて、今はマオがやりたいことに専念するといい。ハイデリヒにとっちゃ、反乱軍の正当性を高めるために王女の名前が欲しいって話だからねぇ」

「……うん」

「それに」

 微かな足音を聞き取り、マオはふと後ろを振り返った。そこには橋を渡ろうとする黒い仔猫の姿。彼女の視線に気付いてか、動きを止めては恐る恐る顔をこちらに向ける。

「あ……ノット」

「そいつもマオのためなら力を貸すってさ。昨日言ってた」

「!! みゃッ」

「ほんとっ?」

 ぱっと表情が華やいだマオに対し、昨夜の発言をさらりと暴露された仔猫は慌てたように飛び上がった。何やらその場でぐるぐると回り出した仔猫に駆け寄り、マオはそっと黒い毛並みを撫でる。

「ノット、あのね、私……ノットの故郷を助けるために、反乱軍に参加しようと思うの。あ、これはさっき聞いてた?」

「……みー」

「“大地の塔”への侵略を未然に防ぎたい。私に出来ることなんて殆ど無いだろうけど……この体に流れる血が王家の証なら、それだけで少しは役に立てるかもって」

「……」

「!」

 視界に真紅の光が射し、マオはつい目を瞑る。次いで訪れたのは手を握る感触。そっと瞼を開ければ、そこに黒髪の少年が座っていた。彼はちらりと薄氷色の瞳を動かしてから、控えめに言葉を紡ぐ。

「……マオが、僕らの故郷のために戦ってくれるなら、僕はマオのために戦う」

「!」

 定まらなかった弱気な瞳が、ゆっくりと持ち上がる。マオがそっと顔を覗き込めば、それを合図に額が擦り付けられた。

 

「──ありがとう、マオ。……君が僕らのために下した決断や思いは、遠く離れた同胞にも必ず届く」

 

 告げられた感謝の言葉に目を丸くしながらも、マオは間近にあるノットの頬に指先を添えた。

「……ほんと? 余計なこととか、思われない?」

「思わないよ。それに……マオのお父さんも、ずっと戦ってくれていたんだと思う。僕らはその遺志にも応えなければならない」

「あ……」

 亡き父、コンラートの遺志。“大地の塔”の侵略を推し進めるヴェルモンドらに疎まれながらも、父は長らく彼らを押し止めてきたのだろう。“大地の塔”に暮らす民は虐げる対象などではなく、我々と対等であるべき存在なのだ、と。

 一度も言葉を交わしたことはないはずなのに、十六歳になったマオは奇しくも父と同じ思考を有していた。その身に宿る血ゆえ、とも考えられるが、マオがこの決断を下した大きな理由は──。

「……私ね、友達になりたいなって思ったの。“大地の塔”の人達と……ノットみたいに」 

 初めての友人が、ノットだったからだ。

 王女という身分を隠すため、狭い商業区で大人に囲まれて育ってきた。同年代の少女が次々と上層へ働きに行く一方、幼いマオは一歩も商業区の外へ出られなかった。そんな中、人の形をしていなければ言葉も通じない仔猫が、マオにとって最も親しい友人だったのだ。

 姿や力は異なれど、そのようなことは何ら関係無しに、二人は共に歩むことが出来ている。二つの種族は対等な友人として、互いに手を取り合うことが出来るのだ。マオはこれまでの人生を振り返ることで、自信を持って断言できる。

「時間は掛かるかもしれない、それでも私は向こうの人達と友達になれるって信じてる」

「……うん。僕も信じてる。そのために……」

「そのために、侵略を止めなきゃいけない」

 固く手を握り締め、二人は決意をも固めるべく頷き合った。互いの意思を確認できたところで、マオは少しばかり照れくさそうに首を傾げる。

「……でもあの……王女とか、軍の旗印とか初めてだから……不安なときは前みたいにぎゅーってしてもいい?」

「………………………………えっ」

「あ、嫌だったら猫の姿でも……」

 正面のノットが顔を真っ赤にして後退り、背後からはホーネルの噛み殺すような笑い声が聞こえてきた。

「やっぱり駄目かなぁ……落ち着くんだけど」

 呑気な独り言を漏らしつつ、マオは残念そうに肩を落とす。やがてその場に立ち上がっては、橋の付近で倒れ込んでいるノットの方へと駆け寄った。

「ノット! じゃあ私が勝手に抱きつくのはいいっ?」

「え、いや、それ変わってな……ちょっ、ちょっと待っ、て、手、手とかは駄目なの」

「ノットは抱き枕みたいな安心感があるから……」

「抱き枕……ッ!?」

 

 話しながらも抱擁を試みるマオに、ノットは必死にやんわりと腕を引き剥がす。その姿はまるで幼い頃の──それも出会ったばかりの少女と仔猫を彷彿とさせる。遠くから二人を眺めていたホーネルは、小さく笑いながら肩を竦めた。

「……大きくなったと思ったけど、変わらないとこもあるんだねぇ。オング」

「!」

 彼のすぐ側にある階段下、恐らく出るに出られなかったであろうオングがそこにいた。ちらりとホーネルを見上げては、苦笑混じりに頷く。

「……あんたも変わらないよ」

「そうかい? お前は十六年かけて顔色がちょっと良くなったよ」

「何で外見の話なんだ……」

 呆れた様子で後頭部を掻いたオングを見て、ホーネルはおかしげに肩を揺らしたのだった。

 

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