62.
眩しい日差しに瞳を細め、雲海を泳ぐように両足を揺らす。薄い雲が光をほんの僅かに和らげたかと思えば、真っ白に輝いていた海がほのかに青く染められていく。気付かぬ内に昼前になっていたようだと、マオは両足を振り下ろす反動で身を起こした。
ふんわりと胸に空気が流れ込み、どこからともなく花の香りが漂う。隠れ里に足を踏み入れる前にも、この穏やかな風を感じた記憶がある。一体これはどこから来るものなのだろう。
「……そもそも隠れ里って、何なんだろう?」
ぽつり、マオはすっかり失念していた素朴な疑問を口にした。ハイデリヒに会いに行くというエクトルに連れられ、オングやセレスティナとも再会し、何となしに滞在させてもらってはいるが……ここの住人とはろくに話もできていなかった。
思い立ったがすぐ行動。マオは立ち上がると、小走りに桟橋を引き返しては、階段を軽やかに駆け上る。ひょこっと上の階に頭を覗かせたところで、彼女は目の前にいた複数の人影に驚いた。
「わ!」
「わあっ」
そこにいたのは三人組の小さな少年だ。どうやら階段の上から、下の階──マオを見ていたようだ。バレてしまったと慌てる彼らに首を傾げ、マオはその場に両膝をつく。ちょうど彼女も隠れ里の人間と話したいと思っていたところだ。少しだけ言葉を交わしてみても良いだろう。
「なあに?」
「うぁ……」
「ね、ねえっ、お姉ちゃん、中から来た人っ?」
少しばかり怯んでいたが、そのうちの一人が意気込んだ様子で尋ねてきた。マオは笑顔で頷き、橋脚第四層の雪原を抜けてきたことを話す。すると途端に少年らは「すげー!!」と瞳を輝かせ、マオの傍らに寄ってきた。
「なあなあっ、他の層は行ったことあるのか?」
「えっ、えと、うん。一層から来たから……」
「やっぱり雪ばっかりなの?」
「ううん、雪が降ってるのは四層だけだったよ」
いつの間にか彼らは階段に腰掛け、我先にとマオに質問を投げかけてくる。この様子を見るに、少年らは隠れ里と雪原の一部しかプラムゾの景色を知らないようだ。それならばと、マオは第一層からここに至るまでの道のりで、印象深い景色や場所を丁寧に伝えていく。
「一層と二層は草原が多かったなぁ。晴れてる日も多くて、歩くだけで気持ちいいよ」
「そこも寒いの?」
「ううん、とても暖かい。特に二層は肌がじりじりするくらい暑い!」
「ええ!!」
四層までの旅路を一通り話し終えると、興奮しきった少年らは顔を見合わる。その表情はどことなく見覚えが──否、幼い頃のマオ自身にそっくりだった。期待と、憧れと……じっとしていられないほどの好奇心に心を踊らせる姿だ。マオにたくさんの土産話をしてくれていたホーネルやオングも、このような穏やかな気持ちを味わったのだろうか。
「……ねえ聞いてるっ?」
「あ。ごめんね、何?」
「四層の“神殿”は通ったことあるっ?」
「へ……神殿?」
初めて聞く単語に、マオは申し訳なさそうに首を振った。
「ううん、多分行ったことないかな……どんなところなの?」
「そっかあ……四層の西の方にね、でーっかいお城みたいなのがあるんだって」
「違うよ、洞窟だろ」
「塔じゃなかった?」
次々と首を傾げてしまう少年らを見て、マオはおかしげに笑う。彼らが言うには、その神殿とやらは数百年ほど閉ざされたままらしい。加えて激しい吹雪の中、そもそも見つけること自体難しいとも。御伽噺くらいにしか認識されていない場所で、だからこそ少年らの好奇心を刺激する存在でもあるのだ。
「そっか、もし西側に行くことになったら探してみようかな」
「ほんと!?」
「あんまり寄り道はできないけどね。私もその神殿、気になるもの」
マオの言葉に、彼らは頬を紅潮させて「見付けたら教えてね!」とせがむ。彼女が快諾すれば手を挙げて喜び、おもむろにマオの背後へと回った。
「えっとー、どうやるんだっけ?」
「お姉ちゃん動かないでねっ」
「へ? わ、わかった」
あれやこれやと相談をしつつ、やがて三人は歓声と共にマオの肩を叩く。振り返れば、すぐ目の前に透き通った丸い石が差し出された。少年の親指ほどしかない小さな球体は、宝石のようにきらきらと輝きを変える。
「はい、これあげるね」
「えっ! い、いいの? こんなに綺麗なもの」
「お話聞かせてくれたお礼だよ」
「雲のミグスは色が出ないんだって。森でやれば良かったかなぁ」
「……ミグス?」
きょとんとして聞き返すと、少年らは平然と頷く。ついつい受け取ってしまった透明な石を見詰め、マオは混乱を露わに尋ねた。
「これミグスの石なの? 赤くないけど……」
少年らは顔を見合わせ、一斉に自慢げな表情を浮かべた。すぐさまマオの側に腰掛けては、おもむろに雲海を指さす。
「ミグスは人の中だけにあるものじゃないんだぜ!」
「雲にも森にも川にも、至る所にあるんだって」
「密度がいちばん高いのは“階段”らしいけど、どこでもミグス石は抽出できるって、じいちゃん言ってた!」
何とも興味深い話を聞き、マオは驚きの声を上げた。そういえば、“天空の塔”は橋脚内部をミグスが歪めることで、各層に広大な空間を形成しているのではないか、とノットが推測していた。そのことを踏まえれば、プラムゾの内外にミグスが漂っていることは何ら不思議ではないのだろう。ましてや隠れ里は橋脚の壁を──強力な“歪み”を抜けた先にある。今こうしてマオが呼吸をしている間にも、ミグスはすぐそばをふわふわと流れているのだ。
「そうなんだ……でもどうやってミグスの石を? 何か道具でも……」
「要らないよ、お姉ちゃんも出来るよ」
少年が片手を雲海に翳し、ふっと目を閉ざす。他の二人も同じような姿勢を取ったので、恐る恐るマオも真似をしてみた。
「見えた?」
「えっ、何が」
「雲の方、きらきらしてない?」
「きらきら……」
瞼を閉じたまま、雲海の方向に顔を向ける。特に変わった点は見受けられず、暫くじっとしていたマオが諦めて目を開けようとした時だ。
「──雲は見づらいかもしれません。今度、森などで試してみると良いでしょう」
マオと少年らはパチッと目を開き、いつの間にか背後に立っていた人物を振り返った。少年らが不審な顔をして後ろに隠れる傍ら、マオは大きく口を開けて立ち上がる。
「え、あっ……──の、ノインさん!?」
何とそこに居たのは、第二層の幻夢の庭で別れた“術師”ノインだったのだ。彼女は相変わらず暗色の衣服を身に纏い、マオに対して静かに頭を下げる。
「お久し振りにございます、マオ様」
「ど、どうしてここに? まさかハイデリヒさんに呼ばれて……?」
「はい。彼の呼びかけに旦那様が応じられましたので、急遽こちらへ参りました」
呼びかけというのは、恐らく反乱軍に参加するか否かの意思を問うものだろう。それに応じてこの場に──つまり、ノインの主人であるサイラムも隠れ里に来ているということだ。
「そうだったんですね……サイラムさんは、その……反乱に賛成して……?」
「……いいえ、私どもは反乱によって生じる危険を彼から知らされ、ここへ避難をしたという方が正しいでしょう。……旦那様は争いを好みませぬゆえ」
「!」
ノインは不意に片手を挙げ、雲海の方へと伸ばす。さっと手のひらを握り、少年らの前にその拳を翳した。落とされたのは、三つの透明なミグス石。少年らは一様に目を丸くして、容易く石を抽出したノインを二度見していた。
「すげえー!」
「あんたも“術師”なんだ!」
「……。あちらで、女性があなたがたを捜していましたよ。姿を見せた方がよろしいかと」
「げ、母ちゃんだっ」
少年らは慌てて立ち上がると、マオとノインに手を振りつつ走り去っていく。彼らを見送ったマオは、まばたきを繰り返しながら視線を元に戻し、小さく尋ねた。
「……もしかして、隠れ里、って……」
「……はい。“術師”が身を隠す場所でございます。ここの存在は、ごく限られた者しか知りません」
ノイン曰く先程の少年たちも、その母親も他の住人も、みな“術師”の血を引いているという。物資を輸送するために他層を行き来する商人や、用心棒の傭兵などに関しては当てはまらないものの、ここに住まう者はその身を守るために息を潜めているのだ。
──つまり、ここは貴族に……ヴェルモンドに絶対に知られてはならない場所。
大量のミグスで起動させることが出来るという、プラムゾの架け橋。もしも隠れ里の存在を知られてしまえば、彼らを使って容易く橋を起動し、“大地の塔”へ侵略を開始するだろう。マオは未だ、プラムゾがどのような力を眠らせているのかは知らないが、侵略に使用できるほど危険な代物であることは間違いない。
「……マオ様」
じっと隠れ里を見詰めていると、ノインの静かな声が意識を引き戻す。灰の髪が風に揺れ、同色の瞳が微かに細められた。
「ハイデリヒ様から、貴女の素性を伺いました」
「!」
「……旦那様は、既にご存知だったようです。貴女がコンラート陛下の御息女である、と」
その言葉にマオは目を丸くする。幻夢の庭へ迷い込んだ時、サイラムがすぐにマオを助けたのはそれが理由だというのだ。行方不明だった王女が突如として現れたものの、当の本人は全く自覚がないどころか、橋脚内部についての知識も殆ど無い。言葉が不自由なサイラムには、マオに十六年前の事柄を説明することも出来ず、また“お付き”から彼女を守ることも難しく困り果てていたのだ。そして、やむを得ず別の安全な場所──フェルグスの元へマオを逃げ込ませた。
「サイラムさん……もしかして、サイラムさんも十六年前にお城から離れた貴族の一人……なんですか?」
「……いえ、そこまでは私も存じ上げておりませんが……旦那様がコンラート陛下をお慕いしておられたことは確かです」
そこでノインは会話を区切ると、不意に後ろを振り返る。釣られてそちらを見遣れば、吊り橋を渡ってくる大きな影があった。外套を目深に被った彼は、少しばかり怯えた様子で周りを見回している。
「あ……サイラムさん!」
「!」
マオが片手を挙げて呼び掛けると、彼──サイラムが反応した。マオとノインの姿を捉えては、どこか安堵した雰囲気を纏いつつ、控えめに手を挙げる。彼の元へ歩み寄ったところで、マオは笑顔を浮かべた。
「また会えて嬉しいですっ」
「……マオ、げんき……よかった」
「はい。サイラムさんも……」
元気そうで、と言いかけたマオは、そこでようやく彼の目のことを思い出す。視線の方向とは他所を向いている眼球が、彼にとって劣等感を抱かせたり周囲から気味悪がられたりすることを。ゆえにサイラムは幻夢の庭でひっそりと暮らしていたわけで、外へ出てくることには多少の抵抗があったに違いない。それでも遥々、隠れ里まで来た理由はやはり──。
「ごめんなさい、サイラムさん。……今回のことがなければ、わざわざこんな場所まで来る必要なかったのに……」
「……」
“大地の塔”侵略作戦を実行すべく、ヴェルモンドがその前準備として狙っているのは“術師”の力だ。先王の娘ということもあり、今は足跡を辿りやすいマオに標的を絞ってはいるものの、他の“術師”でもプラムゾを起動させることは可能だろう。つまり、サイラムの元にいるノインも危険に晒される可能性はゼロではない。彼らの言う避難とは、セレスティナと同様に、ノインが王宮に奪われることを危惧してのことだった。
──また、二人の暮らしを脅かしてしまった。
幻夢の庭に駆け込んだときと同じだ。静かに暮らしていたサイラムとノインを、再び騒ぎに巻き込んでしまった。恩人に二度も迷惑を掛けたことを知り、マオは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「……マオ、あやまる……いらない」
その言葉に顔を上げると、大きな手がマオの頭に乗せられた。サイラムはちらりとノインを見遣り、次いでプラムゾの橋脚を見上げる。
「ヴェルモンド、かわってない。……昔、ずっと」
「!」
「……ここ、来た。じぶんの、判断」
サイラムは誰に強制されたわけでもなく、これから起こりうる事態を想定し、ただノインの身を案じて行動したのだろう。そのことにマオが責任を感じる必要はない。優しく頭を撫でられながら、マオは小さく頷いたのだった。