プラムゾの架け橋

第六章

 61.

 

「──ノット!?」

 目覚めるや否や、勢いよく上体を起こしたマオは、ここ最近はずっと傍にあった温もりがないことに青ざめる。あわあわと枕や毛布を捲っては、寝台の下まで覗き込む。そこでようやくマオは我に返り、乱れた髪はそのままに窓の外を見遣った。

 真っ白に輝く雲海、その上を気持ちよさそうに横切る鳥の群れ。長閑な景色に心が鎮められたところで、ノットが別の宿にいることを思い出したのだった。

「んん……どうしましたの、マオ」

「あ……ご、ごめんね、何でもない……」

 昨晩、ついつい一緒に夜更かしをしてしまったセレスティナが目を覚ます。随分と早い起床だったのか、外はまだ誰も活動を開始していない。寝惚け気味なセレスティナをそうっと寝台に押し戻せば、すぐに気持ち良さそうな寝息を立て始める。ついでに毛布も掛けてやってから、マオは静かに寝台を降りた。

 鞄からリボンを取り出し、頭の両側でざっくりと編み込んだ二本の毛束をしっかりと結ぶ。第一層の商業区にいたときは、こうして髪を整えてから一日を始めていたものだ。最近は慌ただしかったり、宿で眠ることが出来なかったりと、髪の手入れをする暇もなかった。備え付けの鏡に映った自分の顔を見詰め、マオは軽く頬を叩く。

 ちらりと寝台を見遣り、ぐっすりと眠っているセレスティナを確認したマオは、一人で宿の外へと向かった。

「……わ……」

 ひんやりとした空気が頬を撫で、穏やかな風が栗毛を揺らす。促されるように見上げた先には、雲海の隙間から覗く澄み渡った青空と──果てしない海。ひたすらに青い水平線を眺め、マオは視界の右側、東を見遣る。

 “天空の塔”と“大地の塔”の間に居座る濃霧と大渦。それはどの層においても変わらないようで、隠れ里からでも存在を確認することが出来た。あの向こうにノットとオングの生まれ故郷があるのだと考えると、以前にも増して好奇心を擽られるが……今はそれどころではない。

 昨日、セレスティナによって猶予を与えてもらったマオは、今日こそ反乱軍の結成について決断を下さねばならなかった。正直な話、自分が王女という実感は湧いてこないままだが、一晩ゆっくり寝て起きると、いくらか心が落ち着いたのも確かだ。

 ハイデリヒの話としては、宰相ヴェルモンドをその地位から引きずり下ろし、王宮を正しき姿に戻したいという主旨でまず間違いない。そうすることで“大地の塔”侵略作戦も阻止することが出来るだろう。ただ、ノットやオングと親しいことはもちろん、貴族社会と無縁な生活を送ってきたマオにとっては、実のところ王宮云々よりも“大地の塔”の方に危機感を覚えている。

 つまり、マオは反乱軍の結成に賛同する理由を有してはいるのだが、ハイデリヒたちといまいち足並みを揃えることが出来そうにない、というのが素直な気持ちだ。

「……王女、なぁ……」

 小さく呟き、マオは困り果てた表情で歩き出す。

 幼い頃に読んでもらった絵本には、お姫様と王子様の話がよくあった。いくつもの困難を乗り越えた王子様が、囚われのお姫様を助けて、幸せに暮らす物語。……生憎とマオはそういった話より、元気な少年少女が不思議な世界を冒険する物語が好きだった。格好良い王子様や美しいお姫様を想像することはあっても、その存在に憧れを抱いたことはあまりない。

「攫われたり毒を盛られたり、お姫様って大変そうなんだもの」

 橋を渡りながら、マオは独り言を漏らしては笑う。よくよく考えたら、王女である自分も危険な目にたくさん遭ってきた。やはりロクなことにならない、と彼女は肩を竦める。

 しかし、決して嫌なことばかりではなかった。この旅でエリシャやセレスティナ、サイラムとノイン、エクトルにギル……他にもたくさんの人達と出会えたのだ。狭い商業区では得られなかった多くの出会いは、確かにマオの心を豊かにさせた。 

「……そっか、みんなのためと思えば良いのかな。王宮とかはよく分からないけど……結局は」

「“民のため”。理想的な王族はそう在るべきだわな」

「わっ!?」

 橋を渡りきったところで、突然そんな言葉が掛けられた。一人でぶつぶつと思考に耽っていたマオは飛び上がり、柱に凭れ掛る人物を見遣る。

「エクトルさん! おはようございます」

「……。一人で散歩か? 王女様」

「はい……って、その呼び方」

 頬を膨らませても、エクトルには鼻で笑われてしまう。しかしマオが王女であることは殆ど証明されてしまったので、その呼び方を強く訂正することも出来なかった。

「……エクトルさんもお散歩ですか」

「そんなとこだな。……ところでお前、俺との約束は覚えてるな?」

「…………? あっ」

「忘れてたな」

「わ、わふれてないでふ」

 片手で頬をむぎゅっと挟まれ、マオは慌てて首を横に振った。約束というのはマオが王女だった場合、エクトルの後ろ盾になるという話だ。雪原を抜けた時点でほぼ忘れかけていたなど言えず、マオは苦笑いを浮かべる。

「それなら結構。しっかり俺の野望を叶えてくれよ、王女様」

「!」

 それだけ言い残して立ち去ってしまうエクトルを見詰め、マオは自分がした約束の内容を思い出す。彼の後ろ盾となる代わりに、自分の手伝いをして欲しい、という旨を。きっとエクトルもこのような状況は想定していなかっただろうに、マオとの約束を放棄せず継続してくれるようだ。反乱軍なんて、普通の人間なら関わりたくないところだが。

「……エクトルさんっ」

「あ?」

「あの……私が反乱軍に参加することになっても、協力してくれますか?」

 その問いに紅蓮の瞳が振り返り、流し目にマオを射抜いた。

「──それが契約ってもんだ、小娘。武器でも何でも提供してやるさ。……まあ金は取るけどな」

 最後は笑い混じりに告げ、彼は今度こそ立ち去る。マオは、“商人”としての彼を初めて目の当たりにした気分だった。彼には彼の目標があり、そのためにはどんな危険な仕事だって請け負う──挫けぬ野心を垣間見た。

「……エクトルさんは何が欲しいのかな」

 後ろ盾が欲しいとは言うものの、彼は既にそれなりの富や地位を持っている。わざわざ危険を冒してまでマオに協力する意味は……何なのだろうか。そこが明らかになるとき、きっと初めてエクトルの考えが読み取れるのだろう。そう信じつつ、マオは彼の背中からそっと視線を外したのだった。

 

 

 ──隠れ里を下へ下へと降りていくと、段々と雲が多くなってきた。厚みのある柔らかな綿を思わせる景色に、マオは足を止めて恐る恐る下を覗き込む。幾重の層を形成する雲の、遥か向こう。白く霞んだ藍色が見えた。今更ながら第四層がどれだけ高い位置にあるのかを実感し、マオは足が竦む前に橋をくだり切る。

 そこは他の場所とは異なり、家屋や階段が見当たらなかった。行き止まりかと思いつつ視線を巡らせていくと、いくつかの桟橋が目に留まる。

「……あれ、何だろう?」

 そしてマオが見付けたのは、一つの大きな──籠のようなもの。二人ほど入れそうな長方形をしており、出入りが可能な扉まである。試しに中を覗いてみたが、備え付けの椅子があるだけで、特に変わったものは入っていない。

「……?」

「マオ?」

 そっと扉を閉めたとき、後方から落ち着いた声が掛けられた。振り向けば、ちょうど階段を下り終えたギルが首を傾げる。

「ギル、おはよう。どうしたの?」

「外に出たら、ちょうどマオを見掛けた。……何やってんだ?」

「お散歩。これ、何かなぁって」

 マオの傍までやって来た彼は、不思議そうに籠を見上げる。暫しの沈黙の後、ギルは籠の上部を指差した。

「……引っ掛けるところがあるな」

「へ?」

「ゴンドラじゃないか?」

 見れば確かに、鉤爪のような形をした大きな金具がある。もしかしたら、隠れ里で使用されていた古いゴンドラなのかもしれない。どこかにレールも敷かれているのだろうかと、マオが籠から視線を外すと。

「!」

「ギル?」

 ぱちっと目が合った瞬間、ギルが我に返った様子で顔を逸らした。彼にしては珍しい仕草に、マオはまばたきを繰り返す。

「……どうしたの?」

「いや……別に何も」

「そう……?」

 マオは彼の態度に首を傾げつつ、桟橋の方に向かった。視界いっぱいに雲海を望める場所で、マオはゆっくりと腰を下ろす。両脚を外に投げ出し、そのまま後ろへと倒れてみた。

「わ……広い……」

 まるで自分が空に浮かんでいるかのような気分で、眩しい空に目を細める。気持ちの良い風に身を委ねていると、すぐ隣にギルが腰を下ろした。

「……ねぇギル」

「何だ?」

「ありがとう」

「……?」

 窺うような瞳が寄越され、マオはくすくすと笑う。空に片手を翳しては、少しばかり掠れた声で、感謝の意味を口にした。

「この前……ギルにとっては二ヶ月も前なのかな? 三層で、私とノットを逃がしてくれた時のこと」

「……ああ」

「私、あの時……ホーネルさんのことも、お父さんのことも信じられなかった。ヴェルモンドさんの言葉を鵜呑みにして、おかしくなりそうだったの」

 十六年前の行方不明事件を画策したのはホーネルで、実の父親はオングを奴隷として虐げていて──そんな恐ろしい話を、マオは真実として受け入れそうになっていた。今まで信じていたものが偽りだったことに、絶望しかけていた。

 けれど、違った。自分を城の外へ出したのは実の父コンラートであり、ホーネルとオングは図らずも彼に協力した者達だった。それを知ることが出来たのは、知るために走ることが出来たのは──。

「転んでも立ち止まるなって、ギルが言ってくれた。……あの場にギルがいなかったら、私もオングさんもここにいなかったと思う」

 ありがとう、と再度お礼を述べたマオは、空に翳していた手をそっと握り締める。ついで視線をギルに移せば、紫色の瞳が逸らされることなく迎えてくれた。

「……けど、よく考えたら、初めて会った時からお世話になりっぱなしだね」

「そうか?」

「うん。ロンダムに一緒に行ってくれたし、私が知らないこといっぱい教えてくれたし……それに何度も守ってもらったよ」

 マオは身体を起こすと、おもむろにギルの髪に触れる。側頭部を優しく摩っては、微かに身動ぎをした彼に告げた。

「三層に着いたときの傷、もう治った……?」

「……ああ。そんなに大した傷でもなかったし……副長に殴られる方が痛い」

「ふふ、嘘だぁ」

 彼は真面目な表情で答えたものの、マオの笑い声に釣られては口許を弛める。ようやく柔らかい眼差しを見ることが出来たマオは、再び桟橋に寝転がった。倒れるついでに、今度はギルの腕も引っ張っておく。横に並んで空を仰いだ二人は、暫しの静寂に身を委ねた。

「……。……ギル、私ね」

 やがて、マオは流れゆく雲を見詰めたまま、静かに口を開く。

「反乱軍の件、引き受けようと思ってる」

「……」

「ただの平民だった私に、いきなり王女が努まるわけないって……大変なのは分かってるつもり。それでも……ノットの故郷が侵略されるのを、黙って見ていることなんて出来ない」

 ギルの呼吸が、ほんの少しだけ止まった気がした。一瞬の沈黙を経て、マオは彼の方に顔を向ける。

「あのね、ギル──」

「俺は、フェルグス傭兵団の一員だ。……マオの依頼がまだ続いてるなら、俺は迷うことなく反乱軍に参加する」

 その返答に目を丸くしたマオに苦笑し、彼はゆっくりと手を伸ばした。手の甲で前髪をさらりと退けては、鮮明になった珊瑚珠色に微笑みかける。

「──俺がこの剣で守ると決めたのは、王女じゃなくてマオだ」

「へ……」

「だから、大人しくここで待つ気はないぞ」

 マオが何かを言う前に、ギルは彼女の頭を撫で、一足先に身体を起こしてしまう。彼の耳がほんの僅かに赤く見えるのは、マオの気のせいだろうか。とにかく今、ギルから嬉しくなるような言葉を掛けられたのは確かなので、マオはすぐ喜色を露わにした。

「ギルっ、ありがとう。これからもよろしくね」

「……ああ」

「あ、それと昨日初めて聞いたんだけどねっ、ギルの名前ってギルバートが本名なの?」

「……らしいな。親父がたまにそうやって呼ぶ。……別にどっちでもいい」

 ギルは髪を掻きつつ立ち上がると、まだ寝転がったままのマオを見下ろした。

「まだここにいるのか?」

「うん、もう少しだけ……ちゃんと宿には戻るから心配しないで」

「……そうか。何かあったら大声出せよ、誰かしらに聞こえて……」

 言葉を途切れさせ、彼は首を振る。

「すぐに駆け付ける。……また後でな」

 はっきりと、彼は自分の意思を告げた。誰かではなく、彼自身が力になると明言してくれたようにも思えたマオは、やがて柔らかな笑顔で頷いたのだった。

 

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