60.
マオがセレスティナに連行されて暫く経った後、暗くなった隠れ里に一つの影が走る。薄氷色の瞳を動かし、目的の人物を見付けては動きを止めた。雲海を見下ろせる桟橋に、一人腰掛ける見慣れた男。ぼりぼりと後頭部を掻く癖は治っていないようだ。
「みゃー」
「!」
鳴き声で呼び掛ければ、すぐにこちらを振り返る。仔猫の姿を認めた途端、何ともやり切れない様子で口を曲げた男は、溜息混じりに顔の向きを戻した。
「何だい。お前が僕のところに来るなんて珍しい」
「……」
「愚痴でも聞いてくれるのかい? ああ、それはマオ限定か」
「あんたの愚痴はえげつないから聞きたくない」
真紅の光を纏い、ノットは人間の姿へと変化する。こうして言葉を交わすのは、何も初めてのことではない。十年以上前、マオに懐かれた頃に一度だけ話したことがあった。既にオングの正体や“大地の塔”に暮らす種族を知っていたホーネルは、そこまで驚くこともなく仔猫の存在を受け入れたのだ。
行く宛がないなら、マオの遊び相手にでもなってやってくれ、と。
“大地の塔”へ帰る方法が分からない状況下、ノットは取り敢えず少女の側にいることにした。家族でも何でもない、奇妙な関係を保つ三人の側に。否、ずっと少女の成長を見てきたノットにしてみれば、今や血縁など些細な問題だ。この三人は紛れもなく「家族」なのだろう。
小さく息を吐き、ノットはホーネルの隣までやって来ると、桟橋の下に広がる雲海を見下ろした。
「……マオと話さなくていいの」
「友達との時間も必要だろう? おっさんは後回しで良いのさ」
「……」
「……別にお前、そんなこと話すために来たわけじゃないんでしょ」
ノットは眉を顰めつつ、その場にあぐらをかく。昔からそうだが、やはりこの男は掴みどころがない。自分に不都合な話題はのらりくらりと躱し、幼いマオには優しい世界だけを見せるようにしていた。勿論ノットにも適当な態度で接し、何の差別も区別も──詳しい事情も説明することなく側に置いておいた。……筈なのだが、今はどうやらこちらの話題に応じてくれるらしい。マオの素性が明らかになった今、それは当然の反応とも言えるが。
「……何でホーネルは、マオを手放さなかったんだ?」
「無邪気で面白かったから」
「…………」
「冗談だよ」
半目で睨めば、ホーネルは鼻で笑った。しかし恐らく今の回答も本心なのだろうな、とノットは頭を振る。
「コンラート陛下が王として即位する数年前から、実はよく顔を合わせていてねぇ」
「え?」
「交流会をサボって城の書庫に入り浸っていたら、探しに来た陛下に見付かったんだよ。あれは焦ったなぁ」
何ともまぁ、ホーネルらしい話の切り出し方である。ノットは少しの呆れを表しつつも、彼の語りを促した。
「何でも、僕がそういった面倒臭い行事を尽くサボってることを気にしていたそうでね。お人好しだと思わないかい? そのときは僕と話したこともなかったのに」
その日も伯爵家の次男が姿を消していることに気付き、コンラートはこっそり城の中を探してみたのだという。ようやく書庫でホーネルを発見しては、嬉々として駆け寄ってきたのだとか。
当時ホーネルが十八歳、コンラートはそれより二つ歳下の少年だった。若いと言えどやはり王の器というものは存在するらしく、偏屈者として有名だったホーネルにも寛大な心で接してくれたという。寧ろ、身分の驕りや獣嫌いも無いホーネルには、とても好感を持つようになったのだ。
「僕が言うのもあれだけど、変わった人だと思ったよ。……いや、誰よりも真っ直ぐで純粋な人だった」
「……マオと似てたんだ」
「ああ、外見は奥方似なんだろうけどねぇ。中身は陛下にそっくりだよ」
つまり──ホーネルは先王とそれなりに親交があり、その性格も熟知していたということだろう。コンラートの娘であるマオを助け、彼女の保護者として成長を見守ることを決めたのは、王に対して芽生えた忠誠心か……友情か。
「しっかし、悪いね。別にお前を巻き込むつもりはなかったんだよ」
「!」
「マオを商業区から出してしまったのは僕の過失だし、少なからず今の状況は僕の」
「責任?」
言葉を引き継いでやれば、ホーネルは苦笑混じりに頷く。しかし生憎ノットはそんな風に捉えていなかった。何しろホーネルは“責任”なんて言葉が激しく似合わないし、ノットからしてみれば……。
「マオが、ホーネルと同じだったからじゃないの? マオは自分に何が出来るのかを知りたくて、ずっと橋脚に入りたがってた」
「……!」
「かつて自分もそうだったから、マオを橋脚に送り出した。……それを悪いことだなんて僕は思わない」
寧ろ、親として当然の行動だったのではないだろうか。王宮の目を欺き、その手から守るためとは言え、ホーネルやマクガルドは幼い王女を商業区の中に閉じ込めてきた。王女を託されたオングよりも長い時間を共に過ごしていたホーネルは、彼女の好奇心や漠然とした不満を感じ取っていたに違いない。
──見て、ノット! 今日は霧がちょっとだけ薄いよ!
珊瑚珠色の瞳を輝かせ、屋敷の窓から身を乗り出すマオの姿は、ノットもよく覚えている。少女の興味は物心ついた時から、このプラムゾに注がれていたのだ。
「…………ここに来るまで、ずっと考えていたんだよ。このまま二度とマオに会うことが出来なかったら、僕は陛下に合わせる顔がないって」
「……」
「結局、あの子を王族のしがらみから解放してやることは出来なかった。それどころか僕のお節介で、マオを危険に晒したんだからね。……きっと、これからも」
そのとき、ノットはホーネルの脇腹に肘を打ち込む。もちろん加減はしたが、それなりの痛みに悶えているようだ。特に謝るつもりもなかったノットは、鼻を鳴らしてその場に立ち上がった。
「──これからは、僕も手を貸せる。……謝罪とか後悔とか、柄じゃないことはしないで欲しい」
踵を返し、桟橋から離れたところで、ホーネルの微かな笑い声が聞こえてくる。……これで少しは前向きな思考に戻ってくれれば良いのだが。
ノットは前方に聳え立つ橋脚を仰ぐついでに、先程からずっと感じていた気配の方へと向かった。
「……あ」
「!?」
家屋の裏側を覗き込むと、そこには意外な人物が隠れていた。桃色の髪、鋼の鎧、いつもは冷静なはずの赤ら顔。ノットはまばたきを繰り返しながらも、静かにそこへ屈んだ。
「……何してるの? アドリエンヌ」
「あ……ええと、ご、ごめんなさいね。盗み聞きしようと思っていたわけじゃなくて」
「ホーネルに用事? むぐっ」
口を手で塞がれたかと思えば、眼前でアドリエンヌが首を左右に振る。呼ぶな、といったところか。ノットは不思議そうにしつつも頷き、彼女の手が離れたところで小さく尋ねる。
「……知り合い?」
以前、第三層にあるフェルグス傭兵団の砦だったか。マオの育て親がホーネルだと知った時、アドリエンヌはひどく取り乱していた。あのときはそそくさと退室してしまったがゆえに、事情を聞くことは出来なかったが……この表情はどうにも嫌な予感しかしない。
「……し、知り合い……そうね、ええ……まあ……」
「……そっか。……頑張って」
「が……!?」
絶句してしまったアドリエンヌを一瞥し、ノットは気まずそうに頬を掻く。あまり詮索をしない方が、精神衛生上よい気がしたのだ。軽く片手を挙げ、ノットは静かにその場を去ったのだった。