プラムゾの架け橋

第六章

 59.

「──土産話でもしようか、手短にね」

 後ろ手に窓を閉めた青年は、十年前に命を落としたはずの人物だった。左頬に大きな傷痕を残す彼は、昔のように柔らかな笑みでセレスティナを見据える。

「まあ、そんなに話すこともないんだけど……ティナ、聞こえてるかい?」

 ひらひらと手を動かし、彼は呑気に尋ねてきた。はっと我に返ったものの、言いたいことが多すぎて声が出てこない。わなわなと唇を震わせて彼を指さし、セレスティナはようやく一歩踏み出した。

「は、ハイデリヒ、ですの?」
「うん、そうだよ」
「どうして、何故ここに? 貴方は十年前に……っ!」

 死んだはずだ。十年前、ランクセン公爵家は賊に襲撃され、嫡男である彼は命を落とした。唯一無二の友人エリシャが、虚ろな瞳でそう語っていたのだ。だから彼女が兄の代わりに、男として、公爵として生きているわけで。一体何がどうなっているのかと、セレスティナは薄いヴェールの内側で視線を彷徨わせる。

 そんな大変な混乱を見抜いているのか、ハイデリヒは苦笑混じりにこちらへ近付いてきた。彼はまるで花婿のように、彼女のヴェールをそっと持ち上げる。青い瞳は昔よりも、少しばかり鋭くなっている気がした。身体も声も、昔とは違う。思わず後ずさろうとすれば、しっかりとした腕に背中を引き戻される。あっという間に捕まったセレスティナは、頬を撫でるついでに唇へ触れた指先に、かっと体が熱くなるのを感じた。

「大丈夫、亡霊なんかじゃない。俺は生きている。……エリシャが俺の代わりになっていることも、知っている」
「!」
「それで、落ち着いて聞いてくれるかい? 俺は今から君を誘拐するつもりなんだ」
「はあ!?」

 落ち着いてなどいられるか。誘拐? 今から結婚披露宴が始まると言うのに? 正気なのかと彼を見返せば、ハイデリヒはくすくすと愉快げに笑っていた。

「な、何を笑っていますのっ? 誘拐なんて驚くに決まって」
「嫌と言われなかったから嬉しくてね」
「!! なっ」

 一瞬の間を置いて、セレスティナは顔まで真っ赤にしてしまう。慌てて顔を逸らしたものの、頬の赤みを取る暇もなく顎を掬われる。彼は空いた手でヴェールを外し、セレスティナの肘まである手袋を脱がしていきながら語り掛けた。

「こんな日にごめんね。ティナと接触を図れる機会が今日ぐらいしかなかったんだ」
「え、ちょ、待っ」
「それで更にお願いなんだけど、さっさとこのドレス脱いで捨ててくれる?」
「きゃああ!? 何をしていますの!?」

 ぐいと背中を引き寄せられたかと思えば、急に胸元や腹部の締め付けが緩くなる。咄嗟にドレスを両手で引き止めれば、その隙に首飾りとイヤリングを外された。何とも手際良く剥かれていくので、セレスティナは羞恥と困惑で頭がいっぱいになる。

「は、は、ハイデリヒっ、や、やめてくださいましっ……」
「後で服は貸してあげるから、少しだけ我慢してね。ここ第二層だし、風邪の心配は」
「そういう話じゃありませんわよッ」
「いたっ」

 的外れな返答を寄越した彼の頬に、セレスティナは渾身の一撃を放つ。見事に決まった平手打ちに、彼は頬を擦りつつ口を開いた。

「……じゃあ、極力見ないようにするよ」
「じゃあ……?」
「ところで誘拐に対する抵抗はしなくて大丈夫? このままだと駆け落ちになっちゃうけど」
「昔より底意地が悪くなっていませんことっ? わたくしがあれこれ言う前に服を脱がしてるのは貴方じゃありませんの!」
「それもそうだね。はい、これ」
「へ? ──ひゃあ!?」

 大きめの外套を頭から被せられたかと思えば、ドレスを引きずり下ろされた。そうなると当然、外套の中は下着しか身に付けていない。セレスティナはいろいろと限界に達しつつ、ハイデリヒを涙目で睨み付けた。

「……さ、最悪ですわ……まさか貴方からこんな酷い仕打ちをされる日が来るなんて……」
「あー……もう少し感動的な再会が良かった?」

 十年前の彼はキラキラしていて、それこそ今のエリシャが演じているような優しい紳士だったはず。記憶の美化、いわゆる思い出補正というやつかもしれないが、セレスティナは結構な衝撃を受けて項垂れた。

「……ティナ」

 すると彼は、ほんの少しだけ申し訳なさそうな声で呼び掛ける。恨みがましく見上げた瞬間、彼女の頬に柔らかな感触がそっと押し付けられた。目尻に溜まっていた涙が瞬時に乾き、セレスティナは身体どころか思考までも停止させる。宥めるように頭を撫でられながら、額や鼻先に唇を落とし、最後にそこへ触れるといった寸前。間近で交わった視線はそのままに、彼はゆっくりと顔を離した。

「……俺は君と、エリシャを助けるために戻ってきた。理由は必ず話す。だから今は、どうか一緒に来てほしい」


 
 
 
 ◇◇◇
 
 
 


「──酷いと思いませんこと?」

 ムスッとした表情で、セレスティナは頬杖をつく。リンバール城で起きた出来事を初めて聞いたマオは、何と答えれば良いのかと頬を引き攣らせた。

「その後あっさりとわたくしの髪を切るわ、慣れない旅でも容赦無く引き摺るわ、へらへらしながら終始鬼畜でしたわ」
「き、鬼畜……」
「誘拐した理由も詳しく聞けたのはついさっきですのよ」

 憤慨しながらも、ティーカップを口に付ける姿はやはり優雅で慎ましい。セレスティナの銀髪はその色だけで目立ってしまうため、身を潜めるには非常に厄介だったのだろう。同じく王宮の追手から逃げていたマオは、ノインの計らいによって髪を纏めるだけに留めたものの、ハイデリヒはその辺りに容赦が無かったようだ。

「……まあ、おかげで屋敷にいた時よりも身体は強くなりましたけれど」
「ふふ、四層まで来ると、遠くに来たなぁって思いますよね」
「えぇ、わたくしも遠出はなかなか許されなかったものですから。……その点では楽しかったのかしら」
「……でも私、セレスティナさんの今の髪型、好きですよ? 短いのも似合ってます」

 マオが素直な感想を伝えると、セレスティナは途端に照れては「そう?」と眉を寄せる。ばっさり切られてしまったとはいえ、緩やかなウエーブや瑞々しい艶は失われていない。寧ろ以前よりも活動的な印象が強くなり、爽やかな解放感すら覚えるほどだ。

「マオに言ってもらえると素直に嬉しくなりますわ。ハイデリヒは何となく嘘臭いんですの。誘拐のことも髪を切ったことも悪びれる様子がないし」
「……? でもさっき……」

 髪を切ったことを許していない、とセレスティナが怒った時、ハイデリヒはとても気まずそうに視線を逸らしていたはず。あれには気付かなかったのだろうかと、マオは恐る恐る言葉を掛けてみようと思ったのだが。

「はあ……こんな馬鹿なことを言ってる暇ではないと分かっているのですけれど……わたくしを誘拐しに来た理由が、“術師”の血筋だからと聞いて、ちょっと落胆しましたの」
「え? どうして……ですか?」

 いじけた様子で焼き菓子を口に含み、セレスティナは改めて肩を落とす。ヴェルモンドの手が伸びるより先に、ハイデリヒは彼女の身の安全を確保すべく動いたはずだ。やり方が些か横暴だったことは分かるが、落胆するほど嫌だったのだろうか、とマオが首を傾げると。

「……だって、結婚披露宴の日でしたのよ。そんな日にわたくしを誘拐するなんて、まるで恋物語のようじゃない」
「ん……と」
「しかもそれが十年前に死んだと思っていた初恋の人っ! 期待するなと言う方が無理じゃなくてっ?」

 身を乗り出し力説する彼女に、恋物語を未履修のまま生きてきたマオは返事に窮した。つまりセレスティナが言いたいことは、“術師”云々は別にして、少しでも良いから彼女自身のことを気にかけて欲しかった、という感じだろうか。

「……え……セレスティナさん、大事にされてませんか?」
「何処がですの!?」
「えっ、だ、だってその、隠れ里に着いた時とか、あの」

 スキンシップが凄かったような気が、とマオは詳しく言えずに口ごもる。あれは彼がセレスティナを気にかけている内に入らないのだろうか。いやそんなはずはない。マオは首を横に振ると、両の拳を握り締めて前のめりになる。

「私、大切な物には両手で触れるようにって、ホーネルさんに教えられたんですっ」
「え?」
「お客さんに渡す商品を扱うから、っていうのもあるんですけど……それ以外にも言えることだと思って。ノットのことも毎日抱き締めてるし」
「あ、貴女そんなことしてますの?」
「だからハイデリヒさんだって、大切に思ってるから誘拐したし、えっと……ほっぺに、したりするんですよっ。気にかけてなかったら、姿も現さなかったと思いますっ」

 一息に捲し立てたマオは、紅茶を一口だけ飲んでから「多分……」と小さく付け加えた。けれどハイデリヒが彼女のことを一切気に掛けていなければ、わざわざ誘拐して隠れ里まで連れて来ることなどしなかったのは確かだろう。彼が何を考えているか見透しづらいばかりに、セレスティナはこれほどまでに不満でいっぱいになっているのだ。

「あ……でもエクトルさんの元にいたなら、ちょっと性格が移ったのかも……」
「んなッ……やっぱりそう思いますわよね!? あの女誑しと一緒にいたと聞いて鳥肌が立ちましたのよっ。マオは大丈夫でしたの? 何もされなかったんですの?」
「ええと……だ、大丈夫でしたよ」

 雪原の洞窟ではギリギリだったような気もするが、仔猫が殴り飛ばしてくれたおかげで事なきを得た。それにエクトルは王女という存在に用があるのであって、マオ自身にはそれほど興味が無いことも分かっているので、彼を執拗に批難するようなことはしないでおこうと考えたのだ。適当に話を受け流せば、セレスティナは訝しげにしていたものの、何もされていないことを確認して安堵する。

「まあ良いですわ……ハイデリヒが生きて戻ってきてくれたんですもの。今はそれだけで充分ですわね」
「そうですよ。……そういえば、エリシャさんとはずっとお友達だったんですか?」
「ええ。十年前……屋敷が襲撃された後、彼女が兄の代わりになると言い出した時は驚きましたわ」

 懐かしむように笑い、セレスティナは部屋の窓を見遣る。ゆったりと流れる紺碧の雲海を眺めては、静かに溜息をついた。

「……エリシャはわたくしと違って、勉学も武術も優秀でしたの。だから必ず隠し通してみせる、これからは男として生きると」
「……公爵家のために、ですか」
「そうよ。エリシャは死んだと思って欲しい、ですって。さすがはランクセンの双子、無茶なことを言いますわ」

 大袈裟に呆れを示したセレスティナだったが、急におかしげに肩を揺らし始める。どうしたのかと尋ねれば、彼女はエリシャについてこんなことを語った。

「男装してるエリシャに言ったことがあるのよ。“現実にこんな優しい殿方いないわ”って」

 セレスティナ曰く、貴族の男性というのは高慢ちきな輩が多いのだとか。意中の女性を落とすのにも、口説き文句よりも自身の富を示すことがまず先だという。そのような下らない男の中で、エリシャはまさに女性が思い描く“理想の男性像”を演じていたのだ。

「……そういえばエリシャさん、女の子からの人気が凄かったです」
「でしょう? 中性的な顔立ちだったのもありますけれど、まあ現実味のない貴公子様でしたの」

 過度な獣嫌いも怪しい噂も無い、清廉潔白な公爵。加えて誰にでも平等に優しく接する態度は、女性から熱い視線を送られる要因となったことだろう。セレスティナが戯れにそのことを伝えると、エリシャはとても困った様子で唸ったと言う。

「“何か悪ふざけでもした方がいい?”ですって。貴女に出来るわけないでしょうと言っておきましたわ」
「ふふ、真面目な方なんですね」
「変なところで天然ですのよ。女性から声を掛けられるのも、初めはグレンデル目当てだと思っていたぐらい」

 エリシャ自身に人気が集まっているのだとセレスティナが強く伝えれば、彼女は慌てふためいたそうだ。そんな二人のやり取りを想像しては可笑しさが込み上げ、マオは知らずのうちに笑ってしまっていた。

 きっとセレスティナは、エリシャにとって自然体でいられる唯一の友人なのだろう。美麗な貴公子としてのエリシャしか知らないマオは、二人の関係に微笑ましさと少しの羨ましさを感じた。

「……私も、エリシャさんとお友達になれたら良いな」
「あら、わたくしとエリシャと貴女はもう友人ではなくて?」
「へ」

 心底不思議そうな瞳で告げられ、マオは呆ける。セレスティナは首を傾げてから、何かを思い出したように「そうよ」と怒ったように頬を膨らませた。

「もう身分なんて気にする必要ないでしょう? その他人行儀な喋り方もやめてちょうだい。わたくしのことはティナとお呼びなさいっ」
「えっ! で、でもティナって、ハイデリヒさんしか呼んじゃ駄目かなって」
「なッ何を言っていますの!? からかっていますのね!? わたくしばかり話したのは気に食わないですわっ、今度は貴女が話す番ですわよ!」
「からかってなんか…………えっと、何を話すの?」

 頬を掻いたマオを見て、セレスティナは「こいつもか」と言わんばかりに溜息をつく。おもむろに椅子を引き摺り、隣までやって来てはマオの鼻先に人差し指を立てた。

「無論、猫の彼とギルバートのことですわ」
「ノットと……ギル?」
「ええ、そうよ! 貴女どうやらエリシャと同類……よりもっと酷いようですわ。あの二人との馴れ初め、きっちり聞かせていただきますわよ」
「い、良いけど……」

その後マオは件の二人について、つらつらと過去の体験も交えて語った。初めはノットとギルについて聞きたがっていたセレスティナだったが、幻夢の庭や“階段”で起きた出来事などを聞いているうちに、段々と興味があちらこちらへ飛んでしまう。

「え……えっ、それからどうしましたの?」

「そのときに初めて、ノットが獅子の姿になって……」

「獅子っ!?」

いちいち反応が大袈裟で可愛らしく、マオはつらかったはずの経験も話すことが出来ていた。こうして自身のことを話すのは、ノットかホーネル以外あまりなかったのだが、同性の……──友人に気兼ねなく話せるというのは、これほどまでに楽しいのかとマオは驚く。

宿の一室から聞こえてくる楽しげな話し声は、夜が更けても暫く続いたのだった。

 

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