57.
「──そこから四年ぐらい後だったかな。ランクセン公爵家の邸を賊が襲ったという知らせが来た」
「!」
橋脚第四層、隠れ里にある長の屋敷にて。十人ほどなら余裕で収容できるであろう広間で、マオはじっと十六年前の話を聞いていた。彼女の知り得なかった過去を淡々と語った後、ホーネルがちらりと視線を左へとずらす。そこでは長机の端に着席した青年──ハイデリヒがいる。彼はにこやかに頷くと、椅子に凭れかかったまま脚を組んだ。
「ええ、表向きは賊による襲撃ですが……あれは宰相ヴェルモンドが差し向けた刺客でした。我が父ヒズベルトは、コンラート陛下を慕う“数少ない”穏健派の一人でしたから」
「……それは薄々予想していたよ。僕が聞きたいのはそこじゃない」
詰まるところランクセン公爵家は、新しい王であるロドリゲスや宰相ヴェルモンドにとって都合の悪い存在であったということだろう。加えてマクガルドと同様に、先王コンラートの死を不審に思う一人だったということもあり、その命を狙われてしまったのだ。
だがホーネルにとってその情報は既知のものであり、彼が知りたい箇所は別にある。
「屋敷の襲撃でもたらされた被害として、僕らが聞いたのは長女エリシャの死亡だ」
「……」
「だが君が言うには、今もランクセン公として領地を治めている人物こそがエリシャである、と。その辺りの情報が混乱しているんだよ」
ハイデリヒは笑みを崩すことなく、不意にその青い瞳を他所へ飛ばした。そっとマオがその先を追ってみると、そこには混乱しっぱなしであろう伯爵家の嫡男アルノーがいる。何故かハイデリヒに無理やり同席させられた彼は、まるで亡霊でも見るかのような眼差しで、悠々と構える傷跡の青年を見詰めていた。
左頬から瞼にまで及ぶ傷跡をなぞり、ハイデリヒは静かに瞑目する。
「ヴェルモンドは確かに公爵家を襲撃させましたが……奴が狙ったのは父上ではなく、跡継ぎである私でした」
「!」
「父上は民からの評判が良かったものですから、殺してしまうと彼らの支配が難しくなると考えたのでしょう。だから殺すのではなく、言うことを聞かせることにしたのです」
──意向に従わねば、肉親が死ぬと脅して。
そうして狙われたのがハイデリヒ=ランクセンだった。賊は当時八歳だった彼を襲撃に乗じて連れ去り、森の奥深くで殺害しようとしたという。しかし幸か不幸か、彼は自力でその場から逃げ出すことに成功する。
「左目を斬られ、朦朧とした意識の中、私は大瀑布に身を投じました」
「……は!?」
マオやホーネル、それからマクガルドやアルノーまでもが驚愕の声を上げる。くすくすと笑うハイデリヒの傍ら、既にその話を聞いていたであろうセレスティナが溜息をついていた。
「逃げ道としては最適だと思いまして」
「顔を切られて頭もおかしくなったのかい」
「そうかもしれませんね。しかしまあ、こうして生き延びていますので」
ぽろっとホーネルが暴言を零したが、ハイデリヒは然して気にすることなく肩を揺らす。僅か八歳で大瀑布に飛び込む勇気を持っていた彼は、奇跡的に生きて第四層へ逃れ、ある人物に拾われたのだと言う。
「それが首領殿……エクトル殿です。彼に命を救われた私は、恩返しも込めて大商人の側近として生きていたわけです」
「……恩返し……?」
「お前そんなことしてたか?」と言わんばかりのエクトルの呟きに、ハイデリヒは大袈裟に咳払いをする。
十年前、エクトルもまだ十代後半と若かったが、衰弱した幼い少年を放っていくことはできなかった。彼は左目の傷に応急手当を施し、近くの町へ運び、医師まで探してくれた。そんな見た目にそぐわず面倒見の良かったエクトルに、ハイデリヒは強引に同行を申し出たのだ。同行するに当たってエクトルの野望──すなわち大商人への道を支えることも約束したという。
無論、それはエクトルへの恩返しであり、ハイデリヒの“身を隠す場所”を獲得するためでもあった。
「……ああ、つまりそこの赤毛は君の素性を知らずに十年も過ごしていたと。大商人にしては間の抜けた話だね」
「そういうことですねぇ。首領殿は優しいので、根掘り葉掘り聞かないでくれたんですよ」
「お前ら」
ホーネルとハイデリヒのやり取りに、エクトルが苛立ちを露わに舌を打つ。彼は彼で、やはりハイデリヒのことを可愛がっていたのだろう。何せ大商人を志してから十年、ずっと共にいた弟分なのだから。もしかしたら本当の弟のように思っていたのかもしれない、とマオが思わず頬を緩めた瞬間、エクトルから咎めるような視線が飛んできた。
「……ったく、それで? お前の妹のエリシャが、何だってハイデリヒの振りをしてんだ?」
「ああ、それは多分……公爵家の跡継ぎがいない、ということを周りに知られたくなかったんでしょう。エリシャがそのまま当主になったとしても、女というだけで侮られますから。それに恐らく妹は、私が死亡したと思い込んでいるだろうし……」
そこでふと、マオは過去の記憶を掘り起こす。ハイデリヒ──もとい彼の振りをしていたエリシャは、第一層で誰かを捜していた。何年も捜しているが見付からない、と寂しげに語っていたことを思い出したのだ。あれは、十年前にいなくなった双子の兄のことだったのだろう。
「あ、あのっ、ハイデリヒ……さま?」
「敬称は不要ですよ、王女殿下」
「う……ええと、エリシャさんは貴方のこと、ずっと捜してると思うんです」
「!」
「きっと貴方が生きていると、信じ続けてます」
それまで笑顔を絶やさなかった彼が、少しばかり驚いたような表情を浮かべる。その顔はエリシャとそっくりで、マオにとって初めて二人が双子であることを確認できた瞬間だった。
彼女の言葉に面食らった後、小さく苦笑したハイデリヒは、マオに静かな礼を述べる。
「……ありがとうございます。妹には憎まれているものと思っていましたので」
「え……」
「それでも戻るわけには行かなかったのです。力も無いまま公爵家に戻っても、きっとまた同じことが繰り返される。今度は」
──本当にエリシャが死ぬかもしれない。
重く告げられた言葉に、マオは何も返すことができない。理由を尋ねても良かったが、「彼が戻らなかった理由」はきっと、今の状況に繋がる重要なものだと悟ったのだ。身分を捨て、素性をひた隠し、エクトルの元で商人として貴族と関わってきたハイデリヒは、ようやく自身が狙われた本当の理由に辿り着いたのだと。
「……ま、待て!!」
ハイデリヒが口を開こうとしたとき、机を叩く音と少しばかり震えた声が広間に響く。マオが振り返った先では、情報を処理しきれない様子のアルノーが身を乗り出していた。
「お、お前がハイデリヒであることは分かった。そちらの女性が王女殿下であることも、先王が暗殺されたことも……だが、何故なのだ」
「何が?」
「お前は素性を明かすわけには行かなかったのだろう。ならば何故、追われる危険を冒してまでセレスティナを連れ去った? そのせいでエリシャ殿もあらぬ疑いを掛けられているぞ」
「言ったろう、そうしなければならない理由があった」
毅然とした態度で言い放ち、ハイデリヒは隣に座っているセレスティナを指さす。
「先王の暗殺を発端とした、十六年にも及ぶ宰相の計画……彼女も無関係ではないんでね」
「え!? な、何の話ですの!? 聞いていませんわよ!」
「ごめんごめん、今から話す」
ぎょっとして騒ぐセレスティナを宥めつつ、ハイデリヒはアルノーに対しても「座れ」と手のひらを動かす。そして、彼はマオの隣──同席させたノットとオングを見遣った。いきなり視線を寄越され、薄氷色の瞳が怪訝な色を宿せば、ハイデリヒはようやく口を開いたのだった。
「──宰相ヴェルモンドは、“プラムゾの架け橋”を起動させるつもりだ。他でもない“大地の塔”侵略作戦のためにね」
がたん、と椅子が移動する。暫しの間を置いて、マオは隣を振り向いた。そこには動揺と怒りを露わにしたノットが、目を見開いたまま立ち尽くしている。
「……確かなのか」
ノットが抑え込んだ声で尋ねれば、ハイデリヒは無言で頷いて見せる。
「王宮は侵略を決行する気だ。そのために……何百年も動かしてないプラムゾを使う」
「……つ、使う……? プラムゾって、う、動くんですか……?」
ノットの震える手を握り締め、何とか平静を保っているマオは疑問を口にした。“大地の塔”──ノットやオングの故郷を侵略するなど、そのようなことが許されて良いはずがない。けれどここで怒りをぶちまけたとして、状況は何も変わらないだろう。今はハイデリヒから、彼が得た情報を全て聞くことを優先しなければならなかった。
「プラムゾはいわゆる可動橋と呼ばれるものです。橋脚同士を繋ぐ部分を変形させることは勿論、他にも兵器じみた装置が眠っていると、学者の間ではそこそこ有名な話だそうですよ」
「へ……兵器……それを使って、“大地の塔”を……」
「ええ、ヴェルモンドはそれらを起動させるべく──貴女を捜していたのです、王女殿下」
話の焦点がマオに当てられると、ぎゅっと手を握り締められる。戸惑いながら隣を見上げると同時に、興奮気味のノットが椅子に腰を下ろす。握った手はマオを安心させるためなのか、彼自身を落ち着かせるためなのかは分からない。互いに縋るように指先に力を込めれば、ヴェルモンドがマオを捜していた本当の理由が明かされる。
「プラムゾの架け橋を起動するには……大量のミグスが必要と言われているのです。奴は貴女が“術師”であることを何処からか知り、その力を利用しようとしている」
「ミグス……」
「ええ、つまり──奴は貴女の血をプラムゾに捧げることで、侵略の準備を完了させるのです」
その言葉の意味するところは、マオの死だろうか。ヴェルモンドはマオを王女として公に扱ってはいるものの、実際はプラムゾの架け橋を動かす“術師”としての利用価値を高く見ているのだ。“階段”や“歪み”といった空間を、自在に変容させることが可能であるミグスの繰り手は、そう簡単に見付かるものではない。何故ならマオが今までに出会った“術師”──ノインや手紙屋は勿論、彼らは人前に姿を見せることが滅多にないからだ。
「ティナは予備の“術師”として城に呼ばれる予定だったようでして。アルノー殿には悪いが、先に安全を確保しておいたのです」
「! わ、私が見付からなかった時のために……ですか?」
「ええ」
しかし、ヴェルモンドは十六年前に始末し損ねた王女が“術師”であることを知り、“大地の塔”侵略作戦のために彼女を捜し続け──橋脚内部に足を踏み入れたマオを、ようやく見つけ出したということだ。
「……そんな……じゃあ、私のお父さんが殺されたのは……」
「……コンラート陛下は、“大地の塔”への侵略を望んでおられなかったのでしょう。奴隷だったオング殿にも、陛下は一度たりとも手を上げていないはずです」
「!!」
マオの父、先王コンラートは“大地の塔”もとい獣に対する嫌悪感が無かったとハイデリヒは告げる。元より温厚な性格だったこともあるが、“天空の塔”こそが至上であるなどと、過激な思想を持ち合わせていなかったのだ。
その話を聞いたマオは顔をぐしゃりと歪め、傍らのオングを見遣る。すぐに視線に気付いた彼は、控えめに笑って頷いた。
「……本当だよ。陛下は俺を虐げなかった。マオと同じで……優しい人だった」
大切な人は、傷付けられていなかった。それだけではない。マオは自分の父親を忌み嫌うこともしなくて良いのだと知り、安堵の溜息と共に唇を震わせた。
「愚かな文官どもにはその聡明な態度が、“天空の塔”を治める王として相応しくない姿に映った。……そして陛下もきっと、その不穏な空気に気付いておられた。だからこそ貴女をオング殿に預け、下層へ逃れさせたのです」
「……っ」
「王女殿下。……十六年、平民として生きてこられた貴女には酷な話かもしれませんが……陛下の無念を晴らすため、そして“大地の塔”を救うために、どうか力をお貸しいただきたいのです」
ハイデリヒはその青い瞳に、執念とも思える強い光を宿す。左目に受けた傷を見詰め、マオは一度だけ深呼吸をした。隣にはノットの思いつめた横顔がある。親友の手を握り締め、彼女はハイデリヒの望みを尋ねたのだった。
「──……ロドリゲス王、ならびに宰相ヴェルモンドの罪を暴き、反乱を起こします。王女殿下の名の下に」