プラムゾの架け橋

第六章

 55.






 出立の日、天候は最悪だった。

 置手紙ひとつで家族との縁を切ろうなどと、浅はかなことを考えた罰だろうか。ただ、幼すぎる婚約者を解放できたと思えば、幾分か心も軽くなるというものだ。嘲笑と共に屋敷を飛び出し、雷雨の中を馬で駆ける。見慣れた庭、森、湖を走り抜け、辿り着いたのは毒々しい沼に頭から突っ込んだかのような樹海。よもやこのような場所を通ることになるとは、人生は何が起こるか分からない。馬を乗り捨て、立ち入りを禁ずる看板を素通りした。樹海の中は案の定ぐちゃぐちゃで、微かな腐臭すら漂っていたように思う。

 ふと足を止め、見通しの悪い獣道に目を凝らす。これは、足跡だろうか。自分以外にも樹海に足を踏み入れる者がいたのかと、思わず呆れてしまう。しかしこの足跡、どうやら素足のようだが……まあ、自分には関係ない。気を取り直し、懐から小さな箱を引き抜く。中に入っていたのは、これだけはと屋敷から持ち出した銀の鍵。これさえあれば──僕は再び足を止め、眼前に立ち塞がる鉄製の柵を見上げた。まるで檻のような重苦しさを纏う柵の中央、錠前が掛けられた扉を発見する。銀の鍵を差し込めば、かちりと音を立てて錠前が外れた。

「!?」

 そのとき、僕は何気なく扉の左側を見て、背筋を凍らせる。恐る恐る近付き、大きな葉を手で押し退けてみると、そこには柵を捻じ曲げて作られた抜け穴があったのだ。無理やり通過したのか、柵には少量の血が付着している。よくよく見てみると血は乾いておらず、この穴がつい先ほど開けられたものであると言外に告げていた。

「……幸先、悪いな」

 出たのは溜息と、自暴自棄な笑い声だった。不思議と恐怖は湧いてこない。怯えを抱いたのは、この家出を思いついた時ぐらいだ。血が何だ、穴が何だ、僕はもう戻れない。地位も名誉も期待も捨てて、僕はここから消える。何が起きても自己責任、ああ、これが自由か。最高だと嗤い、扉を乱暴に開け放つ。けたたましい音を聞きながら柵をくぐり、一寸先も見通せぬ闇を見据えた。激しく喚く雷を背に、僕は“死んだ階段”へ飛び込んだ。

 既に息を止めたと言われている“階段”は、白い霧すら見えなかった。ただひたすらに、闇の中を突き進むだけ。感触は無いものの、豪雨と雷鳴はすぐそばに聞こえる。もしやここはまだ外なのだろうか。いや、それならば足元に植物やら木の根やらが引っ掛かる。ここを真っ直ぐに進めば、きっと……どうしたというのか、思考がいつになく弱気だ。心細くなどない、と言えば嘘になる。機能しているかどうかも定かではない“階段”を使うのだから、不安で当然だろう。加えて先程の壊された柵。凶暴な獣でも潜り込んでいたらどうしたら良いのだろう。食い殺されるしかないだろうか。……できれば苦しまずにやって欲しいところだ。

「!」

 くだらないことを考えていた時だ。僕の視界に閃光が走った。雷かと思ったが、違う。仄かに明るくなった方を振り向けば、そこには暖かな──赤い光が佇んでいた。それほど大きくはない、僕の手のひらほどしかない暁光。“階段”でこのような光を見たのは初めてだ。不審に思い、ゆっくりと近付いてみる。するとどういうことか、光は僕の歩みに併せて離れていった。

「……何だ、これは」

 顔を顰め、早々に無視して先へ進もうとすると、奇妙なことが起きた。この空間には誰もいないはずなのに、僕以外の声が聞こえるのだ。獣、いや、叫び声……違う、泣き声だ。赤子の泣き声が聞こえる。正直なところ獣の方がまだマシだったかもしれない。何故このような場所で赤子が泣いているのだ。僕は恐怖しつつ、再び赤い光を見遣る。

「……。……まさかとは思うけど、僕を呼んでいるつもりかい?」

 すぐそこに佇む赤い光。暫しの睨み合いを経て、僕は大きく息を吸い込む。そして勢いよく、ふよふよと漂う暁光を片手で掴んだ。

「──!?」

 刹那、視界が急激に明るくなる。握った指の隙間から漏れ出す赤い光は、四方八方に飛び散っては火の粉のように暴れ回った。それでも僕は光を放すことができず、硬直した状態で上を仰ぐ。見えたのは鮮やかな藍色の空。そこに舞うは──太陽に似た色を宿す花弁。赤色は次第に抜け、ひらひらと舞うばかりだった花弁は、頬に叩き付ける真っ白な雪となった。

 僕はいつの間にか“階段”を抜けていた。眼前に広がる銀世界に戸惑いはしたものの、前方にはうっすらと中央階段のシルエットが見えた。恐らくここは第四層の北部にある雪原で、僕は南を向いて立っている。……どうにか、無事に層を下ることが出来たようだ。さっさと雪原を南下し、東にあるティレスの町に向かおう。そうすればこの極寒ともおさらば──。

「……え」

 耳を劈く、赤子の泣き声。まるで助けを乞うかのように、引き留めるように。僕は吹雪の中、誘われるようにして林へと足を踏み入れる。やがて辿り着いた先にいたのは、恐ろしいものだった。全身に怪我を負った大男が、生まれて数か月ほどしか経っていないであろう赤子を抱いている。大男は虚ろな目で蹲っており、剥き出しの手足は既に紫色に変わってしまっていた。

「おい……おい! お前、そんな恰好で何をしているんだい?」

 赤子がまた、大きく泣き声を上げる。それに反応したのか、大男の瞳にふっと光が戻ってきた。ゆっくりと僕の姿を確認しては、そこに強い恐怖を宿しつつ何かを訴えかける。

「下に、この子を、下に……頼む」

 大男の願いは、赤子を生かすことだった。けれど赤子は赤子で、大男が僕に引き渡そうとすると激しく泣き喚く。おろおろと赤子を見詰める姿に、僕は盛大な溜息をついた。

「……お前も助けないと永遠に泣き続けそうだな……」



 ──そうして僕は、大男に予備の衣服を無理やり巻き付け、何度も立ち止まりそうになる彼を引っ張った。何とか辿り着いた無人の山小屋で、僕はすぐに暖炉に薪をくべてから大男の凍傷の具合を確認する。皮膚は変色しているものの、幸い壊死などはしていないようだ。普通の人間なら、素足で吹雪の中を歩くなど自殺行為に相当するが……。

「ぁー、う」

 数刻前とは一転、赤子はベッドの上で大人しく寝転がっている。ついでに僕の顔を見てきゃっきゃと笑う。この赤子を守るために、大男は体力を維持していたのだろう。凄まじい生命力だと驚く一方、そこまでして守るべき命だったのかとも疑問に思う。いや、いずれにせよ僕が通りかからねば、二人とも雪原の中で息絶えていたことだろう。ここは喜ぶべきか、嘆くべきか。

「ぅー」
「お前はさっきから元気だな」

 大男に毛布を被せ、暖炉の火に当たらせている間、赤子が短い手足をばたつかせる。丸い腹を撫でてやったところで、僕はふと危機感を抱く。このくらいの赤子はまだ、母乳で育つ期間にあるはず。助けたは良いが、これから赤子に栄養を与えてやることは出来ないのではないか、と。

「……吹雪が止まないとどうにも出来ないか」

 明朝、この激しい吹雪が止んでいれば、ティレスの町に向かうことが出来る。赤子に関しては殆ど知識がないため、そこで力を貸してもらうほかないだろう。とにかく今やるべきことは──この大男に、事情を尋ねることだ。

「この子は何だい?」

 いつの間にかすやすやと眠っていた赤子をそうっと抱き上げる。何枚も重ねられた布を少しだけ剥がし、赤子が直に身に着けている衣服を確認した。……ああ、何となく察してはいたが、やはり上等なものを着せられている。それに赤子の瞳の色……確か鮮やかな朱色だったように思う。

「聞いているかい? この子、お前の赤ん坊ってわけでもないんだろう?」

 布を戻してやりながら、僕は再度、大男に問いかける。だんまりな態度に少々の苛立ちを感じつつも、根気よく何度か語り掛けた後、ようやく大男が言葉を発した。彼曰く、この赤子を駐屯兵に引き渡すことは許されない、ここから遠く離れた場所──下層に連れて行って欲しいとのことだ。

 ──なるほど。これは厄介なものを拾ってしまった。

 退屈な日々から逃れるため、僕は伯爵家を飛び出した。何年も焦がれていた外の世界に。貴族というしがらみの無い、可能性を秘めた未知なる世界へ踏み出そうとしていた。その直後、二人の“逃亡者”を見付けてしまうなんて。

「……僕の質問に答えろ。答えれば下層に連れて行ってやる」

 大男はちらりと僕の方を見遣り、微かに頷いてみせる。


「お前は……コンラート陛下の元にいた奴隷だな。そして、この子は陛下の…………答えろ、王城で何があった?」


 “大地の塔”から連れて来られたという奴隷。話に聞くと二百年も前から城に囚われているという。獣を甚振る趣味など僕にはない。お偉い方の“遊び”にも首を突っ込みたくなかった。けれどその奴隷が今、王城の外で僕の目の前に現れ、あろうことか陛下の子どもを連れて雪原を彷徨っていた。貴族であることを捨てた自分に、もはや陛下の身を案じる権利などあるのかとも考えたが……僕は嫌な胸騒ぎを覚えていた。

「……へい、か」
「……」


「──陛下が……殺された」


 ああ、僕は出立する日を間違えたのだと、そう思った。



 ▽▽▽



 それから一週間ほど経過した後、コンラート陛下の“崩御”が各層に知れ渡ることとなる。崩御の理由は病死。僕が大男──オングから聞いた内容とは異なるものだった。だが唯一合致していることと言えば、陛下の子どもが行方不明になっていることだ。一歳にも満たない幼い王女の失踪に、“天空の塔”の住人は悲しみを露わにした。

「ぁー」

 ……そんな中でも相変わらず、この赤子は元気なままだ。陛下の訃報が広まる前にティレスの町に辿り着き、医者や育児経験のある女性に赤子の様子を見てもらったのだが、特に問題なく健康体とのことだった。ところでこの子は何なのかと問われれば、「姉の子どもを押し付けられた」と苦し紛れの嘘をつく。するといたく同情されてしまい、世話をする際の注意点や必要なものを教えられた他、既に母親となった女性が授乳までも引き受けてくれた。ちょっとした罪悪感はあれど、これで赤子がまだ生き永らえることが出来ると思えば、必要な嘘となり得るだろうか。

 様々な町や村で助けてもらいつつ、僕はオングと赤子を連れて第二層まで下りてきた。じりじりと照り付ける日差しの下、あまりの暑さに耐えかねて木陰に入る。初めての長旅で、それも放っておけばすぐに死ぬような赤子の世話もするなんて、少し前の僕は予想だにしていなかった。最近はよく寝るようになったため、当初よりは気を張らずにいられるが。

「……で、お前はいつまで経っても余所余所しいねぇ。オング」
「!」

 クソ暑いというのに木陰に入ろうとしないオングに、僕は呆れてしまう。彼が元奴隷で苦しい思いをしてきたということは分かるが、そこまで怯えられるとそろそろ面倒臭い。

「僕はお前に何もしない。殴らないし罵声も浴びせない」
「……」
「……あー、違う話をしよう。オング、この子の名前は知っているかい?」

 外套の上に寝転がっている赤子は、近頃になって寝返りを打つようになっていた。今もごろごろと外套の上を右へ左へ転がっており、そのうちひとりでに這いずり回るようになるのだろう。どれだけ活発な娘に育つのかと、少しばかり気が遠くなる。

「なまえ……」
「そもそも、僕はこの子が生まれていたことも知らなかったよ。……隠していたのかい?」

 僕の問いに、オングは曖昧な表情で頷いた。

「……多分。……よく、知らない」
「ふうん……それで、名前も?」
「……」

 オングは恐る恐る赤子を見遣り、何度か唇を動かす。まるで記憶を手繰り寄せるように、静かに紡がれたのは短い名前だった。

「……マオ」
「…………マオ? 本当にそれが名前かい?」
「わから、ない。そう、呼ばれていた」

 そんな馬鹿な、と僕は赤子を見詰める。存在を公表されていなかったとは言え、仮にも王の娘。王族に相応しい……僕はそんなに好きではないが、無駄に格式ばった名を与えられるべきで、歴代の王女から名前をあやかる場合もある。それが「マオ」などという、平民に付けられるような名前……。

「……その子、が……まだ、腹にいた頃」
「!」
「二人が呼んでいた。……マオと」

 ──愛称、といったところか?

 それにしても聞き慣れない響きだが……両親が呼んでいたならば、その名で呼んでやった方が良いのだろう。取り敢えず赤子の呼び名が決まったところで、休憩もそこそこに移動を再開しようとしたときだ。


「……は……?」


 マオを抱き上げた途端、ふと視界が暗くなる。見上げた先にいたのは、鎧を身に着けた強面の巨漢だった。

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