プラムゾの架け橋

第五章

 52.






「──ううーん」

 毛布から顔を覗かせ、熱に浮かされた瞳で部屋を眺める。火照った額には濡れた手拭が当てられているが、既にぬるくなってしまっていた。大人しくしているようにと言われたものの、普段から走り回っている少女には些か退屈が過ぎる。

「マオ、げんきなのに」

 不満げに呟いた直後、明らかに痰の絡まった咳をする。昨晩からずっと咳が続いているおかげで、喉はもちろん腹や背中まで痛い。

 つい先ほど苦い粉薬を何度か吐き出してしまったので、ホーネルは町医者のところに薬を買いに行った。オングは配達の仕事で遠出をしている。つまり今、屋敷にいるのは少女一人だ。ベッドで横になっても睡魔は訪れず、代わりに紛らわせようとした寂しさが顔を覗かせる。少女は唇を尖らせ、むくりと体を起こした。

「みゃー」
「!」

 そこで聞こえてきたのは、少女の大好きな友人の声。毛布を投げ飛ばし、一目散に窓へと駆け寄る。椅子を壁際に寄せては、ふらつく足でよじ登った。そうしてちょっとばかし立て付けの悪い窓を押し上げれば、ちょこんと座る黒い影。

「ノットだぁ!」

 少女は椅子の上で飛び跳ねたが、すぐに胸の苦しさを覚えて咳き込む。しばらく咳が続いた後、少女の様子を見ていた仔猫がするりと床に降りた。少女が付いてきたことを確認しては、そのまま身軽な動きでベッドの上へ。枕元で丸くなった仔猫を見詰め、少女はパッと笑顔を浮かべる。

「いっしょにお昼寝してくれるの?」
「みー」
「わーい!」

 床に落ちていた毛布を拾い、少女はベッドに戻った。仔猫にも毛布をかけてから枕に頭を沈めると、不思議なことに睡魔がやって来る。うとうとと黒い毛並みを撫でた後、少女は深い眠りに落ちたのだった。



 ◇◇◇



「うぁ!?」

 裏返った悲鳴と大きな振動に、マオは目を覚ます。何度かまばたきを繰り返し、欠伸と共に頭を上げた。目の前には白いシーツと毛布、それから彼女の握っている強張った手。床に腰を下ろした状態で眠っていたマオは、痛む背中や肩を伸ばしつつ視界の右側を見遣る。そこには手を振りほどくことはせず、頭と体を反対側に向けた不自然極まりない姿勢の彼がいた。

「あ! ノット起きた?」
「起きた……」

 ゆっくりとこちらを振り返った薄氷色の瞳に、マオは安堵の笑みを向ける。ノットは隠れ里に到着するや否や、人型に変身して倒れてしまった。ドッシュの手を借りて近くの空き家へと運ばれ、気を失うように眠った彼の傍で、マオも気付けば眠りに落ちていたようだ。

「大丈夫? まだ気分が悪かったら寝てて良いよ」
「……」
「あと、風邪のお薬も置いてあるって言ってたから、必要なら取って来るよ」

 その言葉に、ノットは首を横に振る。未だ全快とは言い難い彼の顔色を見て、マオはサイドテーブルに置いてある水差しに手を伸ばした。グラスに水を注ぎながら、確かこれは第一層でも見る形状だなと、ぼんやりと考える。隠れ里とは言え生活に支障が出ては困るため、密かに外界との交流も持っているのだろうか。何にせよ、この里のことも後で尋ねてみよう。何故プラムゾの橋脚外にこのような里を造ったのか、そしてその存在意義は如何なるものか。

 ──その前に。

「ねぇノット、ちょっとお話してもいい?」
「え……うん」

 水の入ったグラスを手渡し、マオは傍らの椅子に腰を下ろす。窓の外に広がる青空を一瞥しては、彼が倒れてから気になっていたことを口にした。

「あのね、もしかして……その姿が、ええと……本来の姿なのかな?」
「……」
「猫と、あの大きな獅子の姿になるためにミグスを使うんだよね。だから、いつも猫の姿でいるのも、体力を使うのかなって……」

 ノットから彼自身がどのような種族であるかはざっくりと聞き及んでいるが、マオは彼にとっての自然体──いわゆる「ラクな姿」がどれなのか分かっていなかった。十年以上も仔猫の姿だったおかげで、てっきりそれが彼の居心地のいい姿かつ本来の姿なのかと思っていたのだ。しかし。

「さっき、何て言うか……勝手に人型になっちゃったような感じがしたから」

 あのとき彼は意図的に人型になったのではなく、「ひとりでに変身が解けてしまった」ような雰囲気を感じたのだ。“大地の塔”の種族は、マオたちとは異なる質のミグスを体内に所有しているという。ミグスを操作することで自身の姿を変容させているのならば、その姿の維持にはどれほどのミグスを要するのか。そして本人の身体にどれだけの負荷があるのか。マオは今更になって、そういった事柄に目を向けることとなった。

「……えっと」

 ノットは気まずそうに視線を逸らし、落ち着きなく首を触る。まだ水を飲んでいなかったので、マオは無理やりグラスを口に持って行った。

「出来たら話してほしいな。ノットのこと、ちゃんと知っておきたいの。……自分のこともよく知らないのに、何言ってるんだって感じだけど」
「! そんなことない」

 自嘲気味に笑って告げれば、彼は慌てて否定する。やがて水を一口だけ飲んでは、おもむろに自身の左手を開いて見せた。

「……僕はこの姿で生まれたから、これが基本的な形だよ。獅子ほどじゃないけど、猫になるときも多少のミグスが要る。……さっきは体調が悪かったから、ミグスを上手く維持できなかった」
「!」
「あッ、だ、大丈夫、休めば安定するから」

 途端に心配そうな顔をしたマオを、彼はすぐさま制止する。曰く、人型ならばミグスを一切使用することなく過ごすことが出来るそうだ。それを聞いて安心したものの、やはりミグスの操作には少なからず体力を消費するそうで、十年ほど猫の姿で居続けたノットは通常よりも疲労が溜まりやすいという。

「それに……僕は元々、獅子の姿を長いこと維持できないし……」
「えっ、じゃああのとき……」

 ヴェルモンドに追い詰められたとき、ノットは獅子の姿となって兵士を薙ぎ払った。その後もマオを乗せて中央階段へと走ったり、参道の崩れた橋を飛び越えたりした。そして──確かにそのとき、ノットの前脚は震えていた。あれは単なる疲労ではなく、十年かけて徐々に削られてしまった、彼の僅かな体力を表していたのだ。

「ご、ごめんなさい。私そのとき、猫になっていいよって言った」

 仔猫になっても然して疲労度は変わらなかったのだと知り、マオは申し訳ない気持ちになる。けれどノットは首を振ると、顔を隠すように頬を掻いた。

「……ううん、マオが運んでくれて助かった。人の姿は、出来れば見られたくなかったから」

 マオは戸惑いを露わに、視線を彷徨わせる。ほんのわずかな間を置いてから、恐る恐る尋ねてみた。

「……今も?」

 何となく、理由を聞くことは出来なかった。初めて顔を合わせたとき、それから雪原でロザリーやドッシュと再会したとき。ノットはどうにも人間を──“天空の塔”の民を恐れているようだったから。彼個人の問題にそこまで踏み込むことは憚られ、らしくない遠回しな質問と相成った。すると伏せられていた薄氷色の瞳が持ち上がり、マオを見詰めては控えめに細められる。仔猫の眼差しとそっくりだと魅入ったものの、それは当たり前かと我に返った。

「マオは大丈夫。初めは怖かったけど……今はもう」
「そっか。良かった……オングさんは?」
「……あれは別口で苦手だ」
「へ?」

 ハッと口許を手で覆うと、ノットは「何でもない」と頭を振る。予想外の返答に呆けてしまったのも束の間、そういえば仔猫とオングの仲は昔から良くなかったと気付く。以前は言葉が通じなかったため、理由を尋ねることは叶わなかったが、今ならば聞けるかもしれない。

「ノット、昔からオングさんと仲悪かったけど、どうして?」
「う……いや、それは、僕が一方的にちょっと嫌いだっただけで、オングは別に……」
「うん」
「……その……あいつの、性格が……違和感の、塊で」
「……?」

 じっと見詰めていると、やがて観念したようにノットは溜息をつく。彼は屋外に続く扉をちらりと一瞥し、マオと向かい合うようにベッドに座り直した。あぐらをかく形で姿勢を留め、口を開くと同時に自身を指差す。

「まず僕とオングは同種族だけど、変身できる獣の種類は違うんだ」
「あ……そうなの?」
「うん。僕は獅子……とついでに猫になれる一族。オングは多分……えっと、熊だと思う」
「熊!」

 絵本で見るような可愛らしい熊しか知らないマオだが、実際は非常に獰猛な獣であることは承知している。中央階段周辺の山脈に棲息しているらしく、旅人や商人が襲われる事件も耳にしたことがあった。そのような凶暴な動物と、優しいオングは結び付きにくいなと、マオが驚いていると。

「本来あの一族は、簡単に捕まったり殺されたりしない。冷静で、誰よりも強かな戦士だと言われてる」
「戦士……」
「でもオングは、そんな血を一切感じさせないくらい弱気で、臆病だ。僕はそれが変だと思ったし、煮え切らない態度に苛立ったりもした」

 「けど」と、彼は言葉を区切る。視線を落とし、眉間にしわを寄せた表情はどこか苦しげだ。今まさに溢れ出してしまいそうな激情を、寸でのところで抑え込んだような。マオがそっと彼の震えた手を覆い、癖気味の黒髪を宥めるように梳くと、薄氷色の瞳に幾分か落ち着いた光が宿る。

「……けど、この前……違うんだと知った。あいつは奴隷にされて、一族の矜持どころか命の尊厳まで奪われていたんだ」
「……!!」
「何も知らずにオングを変だと決めつけていたんだと思うと、自分が情けなくなった」

 垣間見えた怒りの感情は、オングを痛めつけた貴族だけではなく──無知だった自分自身にも向けられていた。己の態度を恥じるように瞑目したノットを見詰め、マオはそっと彼の手を引き寄せる。そのまま背中を抱き締めては、優しく頬をすり寄せた。

「ま、マオ?」
「じゃあ、これからはオングさんと仲良くしよ?」
「……これから」
「うん。私、二人が仲良くしてくれたら嬉しいな」

 ノットは今までの態度を悔いたからこそ、あのとき──初めて獅子の姿を現そうとしたとき、オングの元へ向かったのだろう。じっと彼を見詰める仔猫の背中を、マオはしっかりと覚えている。

「……うん」

 ぎゅっと抱き締めていると、やがて彼が小さく頷いた。かと思えば、恐る恐る彼もマオの背中に腕を回して引き寄せる。それまでマオが彼を抱き締めていたはずが、気付くとこちらが力強く抱き締められていた。見かけによらず力があるなと呑気に考えていたマオは、彼の背中を摩りながらぽつりと呟く。

「変な感じ……」
「え?」
「あ、う、ううん。何でもない!」

 慌ててマオは首を振り、頬を引き攣らせつつ話題を変えた。

「それより、体調が回復するまでは人の姿でいて? 防寒着とかは用意できると思うし、貴族の人たちから狙われにくくなるかもしれないし」
「……わかった」
「えっと……でも人と話したくなかったら、いつでも私のフードに入っていいよ」
「!」
「ノットの特等席だからね」

 目を丸くする彼に対し、マオは大袈裟に胸を張って見せた。途中でおかしくなって吹き出せば、薄氷色の双眸も釣られて和らぐ。しばらく額を突き合わせて笑っていると、ふとノットが顔を横に向けた。

「……? マオ、外で何か鳴ってる」
「へ?」

 マオは首を傾げ、自身も耳を澄ませてみる。するとすぐに、彼の言う音が聞こえてきた。隠れ里に鳴り響く、警鐘にも似たけたたましい音に、二人は顔を見合わせたのだった。

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