プラムゾの架け橋

第五章

 51.





 光の中はまるで迷宮のようだった。“歪み”と言えば第二層の幻夢の庭が思い浮かぶが、あそこよりも格段に空間が整っている。一言で表すならば、氷付けになった宮殿だ。セレスティナの先導に従って、いくつも枝分かれした廊下を進み、時にはガラスの無い窓をくぐり抜け、床から天井を貫いた大きすぎる螺旋階段を上る。宮殿としてはぐちゃぐちゃな構造だが、それでも人工的な建造物を模した“歪み”は非常に珍しく貴重なことだろう。

「……凄い、ここ……広すぎる……」
「私も初めて来たときはびっくりしましたわ。でも安心なさいな、道は完璧に覚えましてよ。ほら」

 セレスティナは自慢げに胸を張りつつ、長い廊下の先を指差す。そこにぽつんと佇む木製の扉は、氷付けの景色から随分と浮いていた。どうやらあの扉が出口らしい、とマオが相槌を打とうとすると、後方から不穏な声が聞こえてきた。

「? ……セレスティナ、こっちの扉じゃないか?」
「へ?」

 振り返れば、ギルが自身の左側にある扉を指差している。ロザリーとドッシュもそちらの扉が正しいと感じているらしく、うんうんと頷いた。ちなみにその後ろではエクトルが密かに顔を逸らして笑っている。一連のやり取りを受け、セレスティナは頬を膨らませた。

「いいえっ、きっとこちらが正解ですわ!」

 セレスティナは意地になったのか、そのまま目の前の扉を押し開く。マオはすぐ傍で成り行きを見守っていたのだが、扉の向こうに広がる景色を垣間見てはぎょっとした。そこにあったのは部屋でも廊下でも森でも草原でもなく、真っ白な──雲だったのだ。

「きゃあああ?!」
「ひゃあああセレスティナさん!!」

 勢い余って扉の外に出てしまったセレスティナを、マオが慌てて追いかける。扉の縁に左手を掛け、今にも下へ落ちそうなセレスティナに右手を伸ばす。寸でのところでマオの手は虚しく空を切り、銀髪がひゅうっと視界から消えてしまう。一瞬にして真っ青になったマオが、崩れ落ちるようにして下を覗き込むと。


「──……早く退いてくれるかな、ティナ」


 そこには木製の足場があったほか、セレスティナの下敷きになった金髪の男性がいた。数秒の沈黙の後、マオは深い溜息と共に項垂れる。その安堵の吐息を聞き捉え、男がふと顔を上げた。

「あ、来たんだね」
「え? ……あ、あなたは!?」

 澄み切った青い瞳、柔和な笑み、そして──左頬の大きな傷跡。マオは彼を指差し、いろいろと考えた結果。

「ね、ネズミの人……!」
「ひどい覚え方だ」

 彼は笑いながらセレスティナを引き寄せると、軽々と体を起こす。彼女の帽子を深く被り直させたかと思えば、彼はごく自然に頬にキスをした。マオの目が点になると同時に、セレスティナが悲鳴を上げる。

「なッ何をするんですの!! マオが見ているのに!!」
「んー、だってティナ、“歪み”の出口また新しく作ったでしょ。俺のこと考えてたからじゃないの」
「んな……っ調子に乗らないで!! 」

 べしべしと肩を叩いたり頬を押したりと暴れる彼女を抱きすくめ、傷跡の青年は「はいはい」と適当に宥める。傍から見ればいちゃついているようにしか見えない二人に、マオは思わずそっと扉を閉めてしまった。その後ろからオングが歩み寄り、不思議そうにマオの肩を摩る。

「マオ、あの子は?」
「えっと……幸せそうだった」
「ん……?」


 ──結局、正しい出口はギルたちが指した扉だった。セレスティナが開けた扉とは異なり、外にはちゃんとした道が伸びて──いるのだが、マオはやはりその不思議な景色に目を瞠った。

「う、わあ……っオングさん、ここどうなってるの……!?」

 無数の大きな板を組み合わせた足場、交差する丈夫なワイヤーや縄で吊るされた家屋、そして目下に広がる雲海。言うなれば“空に浮いた町”だ。“歪み”の出口付近にある足場から、マオは身を乗り出して景色を覗き込む。下にも上にも家屋や広場のような足場が階段で繋がれており、複雑かつ絶妙なバランスを保っていた。

「ここは橋脚の外に造られた里なんだって」
「そ、外っ?」
「ああ、ほら」

 オングに後ろを見るよう促されれば、大きな橋脚の壁が聳え立つ。プラムゾの橋脚を外側から見るのは、とても久し振りのことだった。と言ってもここは第四層で、周りを白い雲と青い空に囲まれている。逆光によって黒く陰った壁を見上げ、やがて聞こえてきた声にマオは振り返った。

「おっ、首領殿もいる」

 階段を下りてきたのは、傷跡の青年とセレスティナだった。セレスティナは帽子で顔を隠してしまっているが、何があったのかは尋ねる勇気はマオにはない。二人はマオたちの元までやって来ると、下に繋がる階段を見遣った。

「まあ話は沢山あるんだけど、取り敢えず町長の館に行こうか。フェルグス殿とアドリエンヌ殿が待ってる」



 ▽▽▽



 隠れ里の吊り橋を歩きながら、マオはちらりと周囲の様子を窺う。ここは第一層よりも数倍の高度があるせいでひんやりとしているが、橋脚内部のような極寒の地と言うわけではない。ちらちらと雪が散ることはあれど、吹雪などの荒れた天候にはならないそうだ。肌寒いけれど過ごしやすい──いや、まずはこの眼下に広がる雲海に慣れるまでは、安心して眠ることはできないだろうか。恐らくこの隠れ里で生まれ育ったであろう子どもたちは、そのような心配はおくびにも出さずにあちらこちらを走り回っている。今のところ、この里からは奇妙な立地以外に変わった点は見受けられなかった。

「……みー」
「あ! ノット、おはよう……って寝てたわけじゃないか」

 鞄の中から首を出した仔猫は、ちらと足元を見ては目を見開く。慌てたように前脚をばたつかせていたので、マオはそっと仔猫を抱き上げると、橋の下を一緒に覗き込んだ。

「大丈夫だよ。ここ、橋脚の外にある町なんだって。上も下も入り組んでて、ほら見て、とっても広いの」
「みぃ……」
「……?」

 マオは仔猫を手すりに乗せると、小さな顔を両手で包む。いつもより覇気のない耳を触っては、青い耳飾りは自分が持っていることを思い出した。……ちょっと返すタイミングを逃してしまい、今もマオが大事に保管しているのだが──という話は置いといて。むにむにと頬を撫でてみても、仔猫の目は閉じたままだった。

「ノット、どうしたの? あの……お腹すいた?」
「……」
「……?」
「マオ、どうしたんだ?」

 そこへ、数歩先に進んでいたギルが戻ってきた。彼は元気のない仔猫の様子を見るべく、マオと同じように腰を屈める。

「ギル。ノットが元気ないの……」
「……雪原にいたときは普通だったのか?」
「えっと」

 彼の問いに、マオは記憶を遡りかけ──すぐさま思い当たる事柄にぶち当たる。中央階段から第四層に出た翌朝、人型に変身したノットと一緒に会話をしたときだ。彼が極寒の地にそぐわない薄着だったにも関わらず、マオは我儘を言って話に付き合ってもらった。もしかしたら、そのときに──。

「か、風邪引いちゃったかもしれない!」
「みぅッ」
「ごめんね、やっぱり寒かったよね……わあ!?」

 マオは慌てて仔猫を抱き締めようとしたのだが、寸でのところで仔猫が真紅の光を放つ。マオとギルが目を開けると、そこには今にも雲海へ落ちそうな黒髪の少年の姿。

「ノット!」
「いいっ」

 ノットは彼女の手を押し留め、素早く手すりに脚を引っ掛ける。勢いよく上体が宙ぶらりんになり、鈍い音が鳴った直後に再び彼が起き上がってきた。痛そうに後頭部を押さえて。

「うわ、凄いな。今の腹筋」
「ノット、頭打った?」
「~……っ」

 涙目で頷いたノットは、ゆっくりと橋に足を下ろす。しかしそのまま崩れ落ちてしまい、二人は咄嗟にその肩を支えた。

「! おい、足震えてるぞ」
「い、息も荒いよ、大丈夫っ?」
「ちょっと待ってろ、ドッシュに運んでもらおう」

 ギルがすぐに駆けて行った一方で、マオは外套を脱いでノットに被せる。そっと額に手を当てれば、やはり確かな熱を感じた。マオ自身それほど風邪を引いた経験がないので、対処法はうろ覚えだ。まず体は冷やさないようにと、外套のついでにマフラーも巻き付けようとしたが。

「……いい、マオが寒い」
「ノットの方が寒いでしょっ、大人しくして!」

 わたわたと抵抗するノットの手を退け、がばりと頭を抱き締める。彼が硬直したのを良いことに、マオはぐるぐると首にマフラーを巻いていった。

「マオ、連れて」

 そこへギルが戻ってきたのだが、彼はマオたちの体勢を見て立ち止まる。それとは対照的に、ドッシュは心配そうに駆け寄ってきた。

「マオ、どうしたんだ!? そいつぁ病気か!?」
「ドッシュさん、どこか横になれる場所に運んであげて欲しいんです」
「おう、任せろ……ギル? お前も具合悪いのか!?」
「あ、いや、大丈夫だ。……あいつに事情は話しとくから、ちょっと休んだらいい。マオも疲れただろ」

 あいつ、というのは傷跡の青年のことだろう。マオは早く話を聞きたい気持ちも十分あったが、それよりも親友の容態が心配だった。彼女は気遣ってくれたギルにお礼を述べ、ドッシュと共に近くの家屋へと向かったのだった。




「……」

 ──三人を見送りながら、ギルは不可解そうに後頭部を掻く。二か月を経てマオと再会できたというのに、何故だか気分はすっきりとしない。彼女の無事を確認できたことで、焦りや不安は殆ど消えたはずだった。

 軽く頬を引っ張ってから踵を返すと、そこにでかでかと傷跡の青年の顔が映る。

「うわ」
「話は聞いてたよ。あの猫の少年、具合が悪いんだね」
「お、おう」
「にしても」

 青年は思案げに顎を摩り、とても真面目な表情でギルに告げる。

「あれは羨ましいよねぇ。俺もティナにやられたい」
「…………」
「あ、そういう話ではないのかな」

 ギルから引いた目で見られておきながら、おかしげに肩を揺らした青年は町長の館へと向かった。

「……何だあの人」

 溜息混じりに首を振り、ギルもその後を付いて行ったのだった。

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