プラムゾの架け橋

第五章

 47.





 見知らぬ小さな少女にべたべたと触られた後、仔猫は浜辺付近の茂みの中で、激しい動悸が治まるのを待った。年下の、それも殆ど赤子のような女児に「可愛い可愛い」と撫でられるとは思わず、悪意を向けられることよりも大きな困惑を覚えてしまった。これだから小心者と周りから揶揄われるのだと溜息をつき、そっと茂みの外を窺う。先程の橋の上には、まだあの少女が座り込んでいる。とても悲しそうな顔で、仔猫が逃げた方向を見詰めていた。

 ……何となく悪いことをしてしまった気分で、仔猫は少女の親を探す。今にも泣きそうなのだ、早く宥めてやってくれと心の中で願っていると、ようやくのんびりとした足取りで誰かが近付いてきた。少女よりも大きな身体の、恐らく成人しているであろう男だ。彼は少女の横に屈むと、いくつか言葉をかける。初めはしょんぼりとしていた少女が、やがて彼の言葉を整理し終えたのか、途端に明るい笑顔を浮かべた。

「……うん! じゃあ明日も会いに行く!」
「ええ……明日じゃないと駄目かい?」
「明日がいい!」

 そんな温度差のある会話をしながら、二人は町の方へと戻っていった。もしや、明日また少女はこの橋の上に来るつもりなのだろうか。何故か一目で気に入られてしまったことに動揺しつつ、予想していたような悪い反応をされなかっただけマシかと、仔猫はそっと息をついた。

 “大地の塔”から無様にも海へ落下し、しぶとく生き永らえたことには未だ理解が追い付いていない。確実に死んだと思っていたのに、目を覚ましたら沢山の猫がこちらを覗き込んでいたのだ。同種族かと思ったが、何を喋りかけても反応は無し。しまいには尻尾で顔を擽られ、これはおかしいぞと彼は飛び起きた。言葉の通じない猫、見覚えのない浜辺、その向こうにある賑やかな町……そして、同じように見えて違う“巨大な壁”。プラムゾの橋脚であることに違いはないのだろうが、凄まじい違和感を覚えた。

 ──まさか。

 彼は慌ただしく浜辺を駆け、海の沖を見ては絶句する。そこには真っ白な濃霧が居座り、ぼんやりとした影が佇んでいた。次いで太陽の位置を確認しては、ここが二つある孤島のうち「西側の島」であることを知る。つまり、ここは彼の故郷とは異なる大地ということだ。その事実に気付いた彼は、慌てて町の方へと向かった次第である。

 そうして発見した少女にいきなり撫で回されたわけだが、気を取り直して仔猫の姿で情報収集を再開することに。幸いなことに、ここは獣を忌み嫌う者が少なかった。時折、頑丈そうな装備を纏った者からはしっしと手を払われたが、その他からは「可愛いねぇ」と好意的な態度を示される。中にはあの少女のように撫でてくる者もいたし、小魚まであげようとしてくる者までいた。

 ──聞いていた話と違う。

 ここにいる種族は皆、獣の姿を持つ種を忌み嫌うと聞いていた。理由はよく知らないが、穢れを感じるらしい。大昔の因縁がどうたらこうたら話していたが、生憎その話を御伽噺程度にしか捉えていなかった彼は、話を最後まで真面目に聞けた試しがなかった。今まさにその勉強不足を後悔している最中であるわけで、彼は自分の足で恐る恐る事実を拾っていくことになっている。今のところ、獣に対する強い差別意識などは見受けられず、のどかで平和な町という印象しかない。

 何だ、異種族が実在していたことは非常に驚いたが、大した問題はないではないか。これなら故郷に帰ることも、それほど難しいことではなさそうだ──と、彼が希望を持ちかけたときだ。


「──……!?」


 すれ違った大男を、彼は思わず二度見した。

 ここに暮らす人間にしては大柄だった、という理由だけではない。個体差ぐらいあって当然だ。それとは別に、あの大男から強い違和感を覚えたのだ。焦りと期待を秘めつつ、彼は急いで大男の後を追いかけた。

「みゃー!」
「!」

 人気の少ない路地で呼び止めると、大男はすぐに振り返る。周囲を見回しては、足元にいる小さな仔猫に気付き、不思議そうに背を屈めた。

「……えっと……何だ……? 餌は持ってないんだけどな……」

 違う、そうじゃないと彼は前脚を地面に叩き付ける。何度か鳴き声で訴えてみたが、通じていない様子だ。何故だ。この大男なら通じるはず。その身に纏う“匂い”が本物ならば──そう信じてみても、大男は困惑するばかりで、挙句の果てに立ち去ろうとした。

「──待て!」

 咄嗟に人間の姿を取り、大男の腕を掴む。ビクッと体を震わせた大男は、ぎょっとして振り返った。仔猫の姿が何処にも見えないことを知り、混乱を極めた様子の大男がこちらを指差す。

「え……っお、お前、何で」
「僕が分からないのか? お前は“向こう”の民だろう?」
「!?」

 その言葉で、大男はようやく彼の正体に気付いたようだった。



 ◇◇◇



「……オングは、獣の姿になれなくなったって言ってた。多分、奴隷だった頃に受けた傷のせいで」
「!!」
「それに、あいつが連れて来られたのはまだ子どもの時で、獣の言葉をろくに覚えてないらしい。だから僕が猫のまま話しかけても理解が出来なかった」

 マオは無意識のうちに唇を噛み、悔しげに俯く。約二百年前、マオの祖先かもしれない人間の手によって、幼かったオングは何も分からぬまま“天空の塔”に連行されたのだろう。そしてヴェルモンドのような獣嫌いの貴族たちから、無慈悲で残酷な暴力をひたすらに受けていた。どれだけ恐ろしかったか、逃げ出したかったか、のんびりと暮らしてきたマオには想像もつかない。

「……」

 黙り込んでいると、不意に右手を掴まれる。少しばかり骨ばった手を握り返せば、ノットは雪原を見詰めたまま話を続けた。

「……僕らは“ミグス”で身体を変化させるんだ。ここにあるものとは少し性質が違うみたいだけど……」
「そう……なの?」
「うん。オングは精神も肉体も弱っていたから、ミグスが上手く作用しなくなったんだと思う」

 ノット曰く、“天空の塔”と“大地の塔”とでは、ミグスの在り方そのものが異なるという。前者に暮らす人間は、そもそも体内にミグスを所有していない。その代わり、体外──とりわけ橋脚内部を浮遊するミグスを利用することが可能だそうだ。各層の移動手段である“階段”が非常に濃い密度のミグスで構成されているのは勿論、各層に規格外の空間が広がっているのも、ミグスによる干渉が考えられると彼は言う。

「え……え? 待って、ミグスって……“術師”の身体から採れる石のことじゃないの?」
「本来は、目に見えない“力”を指して言うものだよ。……まだ何とも言えないけど、ここの“術師”は普通の人間と違って、体内にもミグスを所有してる。マオが“階段”を早く通れるのは、きっとそれが原因だ」
「……!」

 つまりは“階段”の中に充満した高密度のミグスと、マオの中にあるミグスが馴染むことで、空間を早く通過したり中央階段に繋げたりすることが可能だったのだ。今更ながら“天空の塔”の仕組みを知ったマオは、驚くと同時に首を傾げる。

「ノット、どうしてそんなこと分かるの?」
「……ミグスに関しては身近なものだからかな。それに向こうは“階段”なんて無いから」
「えっ」
「向こうの橋脚は見た目通りの面積と広さしかないんだ。だから、初めて橋脚内部に入って“階段”を見た時、恐ろしかった」

 彼らからすれば、体内にミグスを所有し、獣に変身することは当たり前。そして“天空の塔”の人間からすれば、ミグスで歪められた空間を、“階段”で行き来することは当たり前。双方の常識をよく知らないからこそ、互いに驚き不審に思う。向こうの民にも「奇妙な世界で暮らす種族」として、“天空の塔”を恐れる者が少なからずいるという。

「……どっちも、互いをよく知らずに怯えてるんだね」
「……うん。僕もここが怖かった。貴族が獣嫌いなのは本当だったけど……でもマオみたいに、正体を知っても驚かない人がいた。……口伝がどれだけ信頼できないか分かったよ」

 苦笑混じりに告げた彼の横顔を見詰め、マオはふと表情を曇らせた。貴族は獣をさも恐ろしく野蛮であるかのように宣うが、ここに迷い込んだノットやオングからすれば、無差別に獣を嫌う彼らの方が卑しく映ったことだろう。それどころか、まともに抵抗できないオングを痛めつけることで、“大地の塔”の種族よりも優れていると思い込んでいたのだから手に負えない。

 ──何て幼稚なのだろう。

 上層では獣をいたぶることが日常茶飯事だったら、オングの他にも奴隷とされている者がいたらどうしよう。そんな思いがマオの中で渦を巻く。そしてもし、万が一、その矛先がノットに向けられてしまったら。

「マオ……?」

 強く彼の手を握り締め、マオは震えを抑え込む。これは恐怖か、それとも怒りだろうか。溢れそうになった涙を堪え、彼女は意を決して口を開いた。

「ノットは、私が本当に王女だったら……どうする?」
「……」
「私はお父さんのこと全く知らないけど……もしかしたらオングさんを、あなたと同じ種族を虐げていた王様かもしれない。私はその血を引いているのかもしれない。そしたら……──もう、友達じゃいられないかな」

 情けないほどに震えた声で問えば、一筋の涙が零れ落ちる。ずっと、ずっと憧れていた。近隣に暮らす子どもたちと同様に、自分にもきっと優しい両親がいるのだろうと。何か理由があって、今は一緒にいられないだけだと。もしも再び巡り会えたなら、ホーネルやオングのように手を繋いでくれるだろうと。

 そんな少女の儚い夢は、もう輝きを失っていた。

 両親が今も生きていたとして、マオは喜んで駆け寄ることなど出来やしない。「王女であることを認めていない」と言いながら、半分ほど諦めているのも事実なのだ。自身を産み落とした両親は、大切な人を虐げた張本人なのだろう、と。

 ふと、濡れた頬を手で包まれる。促されるままに顔を横へ向ければ、涙を流した方の瞼に柔らかな感触が触れた。驚いて硬直したのも束の間、そのまま涙の跡をなぞった唇はゆっくりと離れていく。併せて優しく抱き締められた瞬間、ハッと息を呑む気配。

「あッ……ご、ごめん。マオが泣いてると、癖で」
「え、う、ううん」

 思わず耳を赤くしつつも、そういえば仔猫がよくやる行為だったことをマオは思い出した。……人型でやられると随分、緊張する行為である。羞恥で涙が引っ込んだマオは、抱き締めてくれる彼の首やら胸元を見て、困ったと言わんばかりに視線を彷徨わせた。一方、ノットはノットで大変な気まずさを感じている様子だったが、仕切り直すように咳払いをしてはマオの背中を摩る。

「……僕は、マオが王女でも友達だと思えるよ」
「!」
「あのヴェルモンドとかいう奴が、本当のことを喋ってるとは限らないし、それに……」

 少しだけ腕を緩めた彼は、こつりと額を押し当てる。薄氷色と珊瑚珠色の瞳が間近で交われば、控えめな笑顔がそこに咲いた。


「──友達だからずっと一緒にいたんだ。誰の子どもとか種族とか関係ない、僕はマオっていう素直で優しい女の子が大好きだよ」


 囁かれた真っ直ぐな言葉に、マオは瞳を揺らす。やがてノットが自分の発言に赤面したところで、すかさず両手を彼の首に回した。逃げないようにぎゅっと抱き締めては、あわてふためく彼に笑う。羽織っていた外套は落ちてしまったが、火照った頬のせいか、マオはそれほど寒さを感じることもなかった。

「……っ嬉しい、ありがとう」
「ッ……う、ん」
「私も、ノットがどんな姿でも大好き。一番の友達だもん」
「……!」

 顔を真っ赤にしたまま、ノットは口ごもる。人型だろうとお構いなしに抱き締めるわ頬擦りするわ、マオはすっかり通常運転に戻っていた。されるがままの彼が、羞恥で殆ど気を失いかけていることなど露知らず。


「──友達ねぇ。そういうの生殺しって言うんだぜ、お嬢さん」


「!」

 後方から声を掛けられ、マオはきょとんとして手を離す。と同時にノットが勢いよく雪に倒れてしまい、慌てて起こそうとしたのだが、それは二人の間に置かれた鞄によって遮られた。

「朝っぱらから逢瀬たぁ、抜け目がないな」
「あっ、エクトルさん、おはようございます」

 すぐ後ろを振り返れば、哀れむような目をしたエクトルが立っていた。勿論、その視線はノットに向けられている。

「おうせ……って何ですか?」
「あ? 聞きてえか?」
「言わなくていいっ」

 倒れたままのノットから制止が入り、エクトルは「残念」とわざとらしく肩を竦める。そして木に凭れ掛かっては、物珍しげな瞳で彼を見下ろした。

「で、お前があの憎たらしい猫で、噂の獣人ってやつだな。初めまして、昨日は殴ってくれてどうも」
「……次は顔飛ばすぞ、節操無し」

 まだ頬の赤みは取れていないが、ノットは敵意むき出しの瞳で言い返す。先程までの恥ずかしがり屋は何処へやら、仔猫のときのようなふてぶてしさにマオは目を丸くしたのだった。

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