プラムゾの架け橋

第五章

 46.





 目を開けると、柔らかな日差しが洞窟に射し込んでいた。座った状態で寝息を立てるエクトルを見詰め、マオはゆっくりと視線を左へとずらしていく。洞窟の入り口は眩しく輝いており、昨晩のように吹雪いている様子は見受けられなかった。無事に夜を明かすことは出来たが、雪は止んだのだろうか。

「さむ……」

 腕を摩りつつ起き上がり、そこでようやく彼女は不思議なことに気が付いた。

 ──焚火がある。

 昨夜、マオは何度か眠れなくて目を覚ましていたのだが、焚火はその都度小さくなっていたはず。しかし今朝になって木は新しく焼べられており、ひんやりとした洞窟に安定した暖かさを供給していた。

「……あれ」

 ぼんやりと火を眺め、次第に意識が覚醒してきたマオは、傍にあったはずの温もりがないことに気付く。外套の前を開いても、鞄の蓋を開けてみても見当たらない。洞窟の隅々まで視線を巡らせても、あの真っ黒な毛並みを見付けることが叶わなかった。マオは慌てて立ち上がり、荷物はそのままに洞窟の外へと向かう。

「う、わっ!?」

 外へ出た瞬間、マオは足を取られて勢いよく倒れ込んだ。まるでふかふかの毛布に飛び込んだ時のような感触に、思わずまばたきを繰り返す。次いで肌に触れた冷気に飛び起き、顔や髪についた真っ白な雪を払い落とし──唖然となる。

 視界に広がったのは一面の銀世界。淡い水色の空、ちらちらと舞い降りる雪。分厚い雪化粧を纏った針葉樹の森を見渡し、マオは柔らかすぎる積雪に手を突いた。何とか立ち上がり、外套のフードを被り直す。昨日、エクトルから少しだけ第四層について教えてもらった。この層はどこもかしこも雪だらけで、晴れたとしても気温はそれほど変わらないし、雪は微弱ながらも常に降り続ける。加えて昨日のような吹雪は割と頻繁に起こるため、雪原を通る際は空模様を必ず確認しなければならない。どの層よりも危険な環境であることを肝に銘じろと、エクトルは厳しく彼女に言いつけた。

「……まっしろ」

 ……のだが、マオはこの美しい景色に早速魅入ってしまっていた。吹雪いていたことが嘘のように、今朝の雪原は静寂に包まれている。美しいものには棘やら牙があるとはよく言うが、第四層はまさにソレを体現したかのような場所だ。吐き出す息さえも白く染まるのを見て、マオは顔の下半分をマフラーでぐるぐると覆う。そして先程自分が転倒し、見事に人型の穴を作った場所から、小さな足跡が伸びていることに気が付いた。

 足をしっかりと上げながら、雪を踏み固めるように進む。時折、木の上から小さな動物がこちらを窺う。マオが試しに顔を上げてみると、彼らは驚いて逃げていく。そのまま木の巣穴に飛び込んでいく様を見て、彼らはあそこで吹雪をやり過ごすのかと納得した。

「うう、それにしても、歩くだけで結構疲れる……」

 あの小さな動物たちのように軽ければ、雪の上も颯爽と走れるだろうか。そんなことを考えながらマオがもう一歩踏み出したとき、進行方向で何やら物音がした。積もった雪がもぞもぞと動いており、時折そこから黒い脚が覗く。どうやら雪に埋もれてしまい、必死にもがいているようだ。

「……え、ノット!?」

 その様を呑気に観察してしまったマオは、悲鳴を上げてそちらへ駆けていく。と言っても下手をすれば自分も雪に沈むので、なかなか速く進むことができない。急がないと、と彼女が再び仔猫に呼びかけようとした瞬間、もがいていた脚がピタッと止まる。まさかと青ざめたのも束の間、マオの予想とは裏腹に、真紅の光が仔猫を包み込んだ。

「!」

 そうだ、獅子の姿になれば体が大きくなる。マオは賢い仔猫の判断に、安堵の表情を浮かべかけ──硬直する。



「──けほッ」



 雪から顔を飛び出させたのは獅子ではなく、漆黒の髪を持つ人間だった。癖のある少しばかり長めの髪を振り、その人物はマオに気付かぬまま雪を掻き分け、力づくで立ち上がる。雪を払い落すにつれて現れたのは、広がった袖や長い裾が特徴的の、見慣れない形の藍色の衣。その下に着ている白い長袖のブラウスは襟が短く、首に沿うようにして形が整えられていた。その他にも帯や布製の脛当て、踝辺りまでしかない靴など、マオにとっては馴染みのないものばかりだ。

 そもそも。

「……誰……?」
「!?」

 口を突いて出た疑問に、黒髪が大袈裟に振り返る。肩幅や立ち姿などで予想はついていたが、それはマオよりも少しだけ背の高い細身の男性だった。どこか幼げな顔立ち、それでいて目元や鼻筋はすっきりとしている。今はその“薄氷色”の瞳を、極限まで見開いていた。

「……!!」

 彼は口を開閉させ、慌てふためいた様子で後ずさる。そして再び、今度は背中から積雪に倒れ込んでしまった。マオは我に返ると、躊躇いつつも彼の元へと向かう。その間、マオはすっかり忘れていた記憶を呼び起こした。それは先日、宰相ヴェルモンドとミカエルが交わしていた会話だ。

 ──“大地の塔”の獣は、我々と同じ姿を有しているのですよ。

 何で今まで失念していたのか不思議なくらいだが、“大地の塔”から来たというオングは人間と全く変わらぬ姿だった。ならば同じ場所から来たノットも、仔猫や獅子以外にも変身できる姿があるのではないだろうか、と。つまりは、人間の姿を取ることが可能なのではないかということだが……。

「……だ、大丈夫……?」

 雪に埋もれた彼は、顔を両手で覆ったまま動かない。マオは暫しそのまま反応を待ってみたが、彼の耳や鼻が赤くなってしまっていることに気付いては、慌てて手を引っ張った。

「起きて、冷たいでしょ?」
「! 待っ」

 そこで彼が初めて言葉を発した。当たり前と言えばそうなのだが、いつもの可愛らしい鳴き声ではなかったので、マオは思わずびっくりする。推測するに十六、七の、男性の低い声だった。彼は深呼吸をしてから、自らゆっくりと手を離し、自力でその場に起き上がる。

「……」
「……」

 再び訪れる沈黙。その場に屈んだマオはじっと彼の顔を見詰め、おもむろに手を伸ばした。頻りに視線を泳がせている彼の頬を挟み、その薄氷色の双眸を覗き込む。ちょっと嫌がられてもお構いなしに見詰めていれば、やがて根負けしたように彼が視線を寄越した。

「……ノットだ。そうだよねっ? 瞳は綺麗な色だし、黒髪だし、ちょっと吊り目だし……っ」

 よく見れば見るほど、仔猫の特徴と共通した部分が多いことを知る。段々と興奮してきたマオは、曇りがちだった珊瑚珠色の瞳に光を宿していく。湧き起こったのは第一に感動。仔猫から獅子へ、獅子から人間へ、一瞬で姿を変えてしまう不思議な現象……“術”と言った方が正しいのだろうか。それから、幼い頃から今まで一度たりとも正体を現さなかった仔猫の徹底ぶりやら器用さやらに、マオは驚きを隠しきれなかった。

「あっ、ご、ごめんなさい。べたべた触って」

 無遠慮に頬や髪を触られながらも、彼は別に怒ったりはしなかった。仔猫のことを散々触ったり抱き締めたりしていたのだから、別に不思議ではないかと納得しかけたとき、「いやいやちょっと待った」と彼女は顔を真っ赤にした。いくら仔猫の姿だったからとは言え、ノットは見た目からして男性だ。幼い頃はまだ良いとして、十六歳辺りになってもマオは仔猫と一緒に寝たことが多々ある。無論、嫌がる仔猫に我儘を言って。その他にもいろいろと、年頃の少女が軽率にやるべきでない行為を思い出し、同時に彼が気まずそうにしている理由も察してしまった。

「……の、ノット。知らなかったとはいえ、その、抱き締めたり……いろいろとごめ」
「!!」

 すると彼はマオの口を両手で塞ぎ、勢いよく首を左右に振る。

「ま……」
「……!」
「マオが謝ることじゃない。ずっと隠してた。マオから見れば、ただの猫だったから」

 初めて紡がれた名前に、マオは落ち着かない気分になった。昔から一方的に話を聞くばかりだった彼が、マオの名前を呼んだのだ。何故だかそのことが堪らなく嬉しくて、焦りながら言い訳をしている彼の言葉がなかなか頭に入ってこない。

「それに僕だって図々しく居座ってたし……マオ?」
「ぼく……あ、うん。それで?」

 ノットは仔猫や獅子のときは頼りがいのある雰囲気を纏っていたが、人間の姿だと性格が逆転してしまうようだ。少しばかり内気な態度と口調に、マオは新鮮さや意外さを感じつつ話を促す。

「え……。それで……言っておきたいのは、ええと……僕は断じて、断じてマオの見ちゃいけないところは見てない、ので」
「へ?」

 何の話だろう、とマオは首を傾げる。当人は死ぬほど恥ずかしいのか、再び顔を覆ってしまう。

「見ちゃいけないって?」
「…………き」
「き?」
「………………着替え、とか」

 暫しの沈黙の後、マオはじわりと頬が熱くなるのを感じながら、焦るあまり口をぱくぱくとさせる。ひとつも意識していなかったせいで覚えていないが、そういえば仔猫は朝や夜になると姿を消す傾向があった。主に就寝時や起床時である。中でも幻夢の庭でノインから服を貸してもらった時は、衣裳部屋の扉を閉められてしまい、外に出ることが叶わず終始マオから背を向けていたような。

「あ、え……っと」
「いや、本当にっ見てない! 猫の姿を利用して覗き見なんて卑劣な真似しないし、マオはずっと一緒にいた子だけど失礼なことはしたくなかったし……!! 女の子は知らない男に体を見られると屈辱的な気分になるって聞いてたし……!!」

 彼はもはやこの世の終わりのような顔で捲し立てる。初めて人間の姿で言葉を交わしたのに、言うに事欠いて最初の話題がそれかという気持ちはあった。しかし彼なりのけじめと言うか、これだけははっきり伝えておきたかった事実なのだろう。マオが年頃の少女であるということを理解した上での弁明と分かりつつも、あまりの必死さに段々と可笑しさが込み上げてきた。

「ふふっ、変なの。そんなに焦らないでいいのに」
「変……」
「怒ってないし、怪しいとかも思ってないよ。私も配慮なんてしてなかったんだから、ほら、この話は終わり!」

 珍妙な雰囲気を振り払うように告げれば、薄氷色の瞳がちらりとマオを窺う。にこりと笑顔を返すと、彼は安堵の溜息をついて項垂れたのだった。

「……ね、もう猫に戻っちゃうの?」
「! え」
「寒かったらマフラー貸すよっ、外套も一緒に羽織れるし、だからあの」

 彼が薄着であることを心配して、マオは首に巻いていたマフラーを引っこ抜く。戸惑い気味な彼にマフラーを被せては、おもむろに周囲を確認した。そして近くにある木の下、積雪の少なそうな地面を指差す。

「……エクトルさんまだ起きてないし、もうちょっとお話しよ? 私、ノットとお喋りするの夢だったんだ」

 心から嬉しそうに告げれば、ノットが目を丸くして固まった。微かに頬が赤く染まった気がしたが、すぐに俯いては表情を隠してしまう。けれど確かに頷いてくれたので、マオは硬直している彼の手を引いて立ち上がった。

 マオは大きな針葉樹の根本に腰を下ろすと、外套を両手で開いてノットに笑いかける。彼は何故だか人型になると照れ屋になるようで、なかなか隣に座ろうとしない。「ほらっ」とマオは声を掛け、外套で包み込むようにして彼に抱き着く。

「はい、捕まえたーっ」
「うわっ」

 そのまま二人して後ろに転がったところで、マオはくすくすと笑い声を漏らした。よくこうして、雨に濡れた仔猫を捕まえていたことを思い出したのだ。それはノットも同じだったのか、複雑そうな顔で彼女を見遣る。

「ノット、あったかい?」
「……うん」
「猫のときは寒くないの?」
「この姿よりは」
「そっか……じゃあ四層にいる間は猫になってて? 私が抱っこしとく」
「……」

 そこはやはり素直に頷けないらしく、彼は困った様子で視線を逸らしていた。かと思いきや、寝転がっていたマオの背中を引き寄せ、軽々と抱き起こす。反射的に縮こまったマオは、細く見えてがっしりとした彼の身体に、不覚にもどぎまぎしてしまった。今までは自分が小さな仔猫を抱き締める役割だったのにと、ちょっとした寂しさや困惑を抱えつつ。

「なんか……ノットなんだけど、違うみたい」
「!」
「あ、ううん、悪い意味じゃなくて……!」

 彼が途端にショックを受けたような目で振り返ったので、マオは慌てて発言の意図を伝えた。

「私、ノットの性別とか考えたことなかったし……ああ、男の子だったんだって。意外ってわけじゃないけど、そうだったのかぁって……何言ってるか分かんないね」

 苦笑を零し、マオは雪のちらつく空を仰いだ。冷え切った青と木々の尖った白を眺めつつ、隣の温もりに身を寄せる。その体温は仔猫のときと同じで、幼い頃から身近に感じていたものだった。

「……でも、こうしてると落ち着くから、やっぱりノットなんだね」
「……マオは」
「うん?」

 肩を寄せ合ったまま、マオは隣を振り向く。至近距離だったおかげで、一度は交わった視線はすぐに逸らされてしまった。

「マオは……昔も今も優しい。僕が姿を変えても、同じように接してくれる。……“ここ”の人間はみんな獣が嫌いだと聞いてたから、すごく驚いた」
「!」

 静かに語られたのは、彼の種にまつわる因縁だった。“天空の塔”と“大地の塔”、隔絶されている筈の二つの世界は、マオの知らないところで繋がっていた。ノット曰く、彼自身も“天空の塔”への行き方などは全く知らなかったという。

「ノットはどうやって第一層に……?」
「……落ちた」
「えっ」
「プラムゾの間にある、海に」

 予想外の返答に、マオは絶句する。濃霧と大渦が腰を据える、あの危険な海にノットは落ちたというのだ。下手をすれば命を落としていたかもしれない程の話なのだが、ノットはそれほど怯えた様子もなくぽつぽつと過去を遡る。

「向こうで少し、騒ぎがあって。それに巻き込まれて、海に投げ落とされたんだ。……運良く打ち上げられた浜辺には、何でか言葉の通じない猫ばっかりで。それで恐る恐る町に行ってみたら……」

 彼はそこで一旦話を区切ると、ちらりとマオの方を見遣った。


「──……そこにマオがいた」


 商業区から少し離れた、水路上にある橋。そこで幼いマオと出会った彼は、初めて見る“天空の塔”の人間に驚いてしまったという。生まれながらにして二つの種族は相容れないものとされ、ノットの故郷でも「関わらぬ方がいい」と言われていたからだ。一体どんな仕打ちをされるのかと身構えた彼に与えられたのは、罵詈雑言でも暴力でもなく、少女からの歓迎だった。

「……だからお家に来てって言ったら逃げちゃったの?」
「いや、それは……」
「ふふ、冗談だよ。でもあのとき、一人で大変だったんだね」
「……まあ」

 彼は少女から逃げた後、いろいろと町の中を歩いてみたらしい。その結果、浜辺にも沢山いた猫の姿ならば、何の問題も無く歩き回ることができると確信。人間の姿でも良かったが、それだと他の人間と言葉を交わさなければならない機会が必ず訪れる。あまり口達者でもないノットは、素性を隠しつつ“天空の塔”の常識に合わせて喋ることなど、到底できやしないと分かっていたのだ。ゆえに仔猫の姿を取り、しばらく町の様子を観察することに決めたそうだ。

「……でも、どうしてまた私のとこに来てくれたの?」
「……」
「私じゃ“天空の塔”のことなんか分からないし……あ」

 マオはふと言葉を途切れさせ、次第に眉を曇らせる。


「…………オングさんが、いたから?」


 彼女の問いに、ノットは逡巡したのちに頷いたのだった。

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