プラムゾの架け橋

第五章

 44.





 一定に保たれた雨音の中、風と共に紅葉が舞う。中央階段へ近付くにつれて、周りの景色は赤一色へと変わっていた。朱色の洞窟を駆け抜けるは、薄氷の瞳を持つ獅子。マオは顔にぶつかる雨粒に目を細めつつ、掴まっている漆黒の背を見下ろした。

「……あの」

 控えめに呼び掛けると、獅子の耳がぴくっと動く。マオは口を開いたものの、やがて首を振った。

「ううん、何でもない……」

 ちらりと薄氷色の瞳が彼女を振り向く。もう一度だけはっきりと首を振ると、マオは進行方向に見えてきた大きな門を見据えた。獅子の凄まじい脚力のおかげで、どうにか参道の入り口まで戻ってこれたようだ。そこには未だに生々しい血の跡が残っており、彼女は瞑目して黒い毛並みに顔を埋める。

「!」

 そのとき、微かだが複数の足音を捉えた。馬の蹄のようにも聞こえたため、マオは慌てて周囲を見渡す。まだ視認できる距離にはいないようだが、こちらを追ってきた公爵家の私兵である可能性が高いだろう。ふと脳裏を過るのは、あの丘に置いてきたオングとギル。二人は無事なのだろうかと、マオは苦しくなるばかりの胸を押さえた。

 参道の門を抜けると、そこからは幅の広い石畳が続く。左手には高い岩壁、右手には不思議な景色が広がっていた。白い石で統一された遺跡が宙に浮いている──のではなく、遺跡を支える地盤の下部が大きく凹んでいるようだ。空洞には透き通った水が溜まり、雨が降っているにも関わらず波一つ立っていない。

「遺跡……」

 ぽつりと呟き、マオは視線を前に戻した。見たところ参道は一本道なのだが、その頭上には足場が何層にも設けられており、非常に入り組んだ構造をしていることが分かる。ただ、あの足場に上れそうな階段や梯子などは何処にも見当たらない。もしかしたら、この道の両脇に散らばっている瓦礫が、かつてそうだったのかもしれない。

「! 道が……!」

 一本道を進んでいくと、ギルの言った通り、そこで通路が落とされてしまっていた。マオは慌てて、走り続ける獅子の背中を掴み、止まるようお願いする。迂闊に跳べば下の池に落下することは間違いない。……あれが普通の池なら、落ちても大丈夫なのではと軽く考えられたのだが、マオは出来るだけ慎重に行動しようと首を振る。理由は“階段”の付近は空間が歪むという話だ。一つも変化を見出せない静止した水面は、少なからず“階段”の影響を受けているように思えた。つまり、あそこに飛び込めばどうなるか分からないということだった。

「でも急がなきゃ……どこか渡れそうな場所……」

 左側の岩壁や、頭上を走る何本もの石橋を見上げていると、不意に黒い背中が上下する。そして大きく後ろへ跳躍したので、マオが咄嗟に背中にしがみつけば、再び獅子が走り出した。それが大きく跳躍するための助走だと彼女が理解したのは、身体に強い風と浮遊感を覚えた後だった。

「わぁあ!?」

 強靭な脚は左の岩壁をしっかりと捉え、あろうことか再びそこから地を蹴るように跳躍する。迷うことなく跳んだ先は、先程まで頭上にあった石橋。難なく足場に着地したのも束の間、そこは相当な老朽化が進んでいたらしく、まるでガラスのように崩壊してしまう。すぐさま獅子は中央階段の方へと駆け、石橋が全て崩落する寸前に向こう岸へと飛び降りたのだった。

「う……!」

 あまりの目まぐるしさに、マオは文字通り目を回してしまった。よく手を放さなかったものだと自分を褒めつつ、彼女は目の前に聳える暗い森を見上げる。……奇妙なことに、確かにここからだと中央階段の姿を捉えることができない。フェルグスは今しがたマオたちが飛び越えた溝を見て、やむなく引き返したとのことだったが……。

「! どうしたのっ?」

 ぼんやりと森を見上げていたら、がくんと視界が低くなる。見れば、獅子の前脚が微かに震えていた。マオはもたつきながらも背中から降りると、獅子の頭を撫でて告げる。

「ご、ごめんなさい、疲れたよね。えっと、あの……猫の姿になってくれたら、私でも運べるよ?」
「……」
「その……多分、あの人たちが来ても、ここまで跳んで来れないだろうし。フードで休んでて、ね?」

 正直なところ、マオはこの獅子がノットであると分かりつつも、何処かぎこちない態度を取ってしまう。ヴェルモンドの話から察するに、オングと同様にノットも“大地の塔”に住む種族であることは確かだ。それがどうして“天空の塔”の、第一層に暮らしていたマオの元に現れたのかは分からない。


 ──ノットは、海の向こうを見詰めるマオの横顔に、何を思っていたのだろう。


「……あっ」

 すると視界に赤い光が走り、目の前に見慣れた仔猫が現れた。軽快な動きでマオの肩によじ登ると、そのまま定位置のフードの中へと身を納める。素直に聞き入れてくれたことに安堵し、マオは改めて森に向き直った。そして、一寸先も見通せない闇に唾を飲み込み、恐る恐る──“中央階段”の中へと足を踏み入れる。

 初めて“階段”の中に入ったとき、自分は何を考えていたのだろうか。遠い昔のことのように思えるが、あの時のマオは期待に満ち溢れていた。憧れだったプラムゾの橋脚に入ることを許され、未知の世界に胸を膨らませていた。

 しかし初めての遠出は、マオの視界を広げるどころか、見慣れた景色すら変貌させてしまった。

 “術師”に王女誘拐事件、“大地の塔”から連れて来られた奴隷、親友の本当の姿──十六年間、退屈な幸せを享受していたはずが、それらは全て絵空事で……事実を信じるには些か無理のあるものばかりだった。

「……ううん。確かめないと」

 それでも目を背けてはいられない。大切な過去だからこそ、それをもたらしてくれた人物に会わなければならない。会って尋ねるのだ。十六年前、一体何があったのか。無知な少女ではなくなった自分に、誤魔化しはもう効かないのだ。否──もう、元の関係に戻ることさえ出来ないかもしれないのだから。

 段々と明るくなってきた暗闇の中で、マオはゆっくりと顔を上げる。


 ──そうして現れたのは、いつしか見た朽ちた遺跡だった。


 多彩な色が折り重なる星空、廃墟を撫ぜる冷たい風。以前ならば恐怖して走り抜けた場所を、マオは大股に進んでいく。自身が“術師”であることを知ったおかげか、彼女はこの場所が何なのか、落ち着いて考えることが出来ていた。

 この朽ちた遺跡は“術師”にしか見えない幻であると同時に、全ての“階段”と繋がっている空間なのだろう。つまり中央階段の内部がこの遺跡であり、“術師”は“階段”を通過する度にここへ導かれる可能性が非常に高い。学者のハルヴァンが言っていたように、マオたちは“術師”以外の人間が通る一般的な道から外れることが出来るようだ。そしてその寄り道──マオにとっては近道というものが、遺跡を通過することと等しいのかもしれない。

 黙々と遺跡を進んでいくと、やがて開けた場所に出る。星の光に照らされて浮かび上がったのは、黒い苔がびっしりとこびり付いた大きな台座だった。この空間にある建物は全て巨大で、やはりこの台座もマオの倍ほどの大きさがある。石像でも飾られていたのだろうかと、マオがそっと台座を避けて進もうとしたとき。

「……みゃっ」
「え?」

 仔猫が肩から身を乗り出し、マオの腰辺りを見ていた。何だろう、とその視線を追ってみると、彼女の鞄が微かに光っている。ぎょっとして鞄の蓋を開ければ、その光は更に強さを増した。荷物の中を漁り、指先が目的のものへ辿り着く。そこでマオはようやく目を見開き、慌ただしくソレを引っ張り出した。

「あ、あれ……? 消えた……?」

 取り出してみると、ソレ──錆び付いた腕輪は光を失ってしまう。何故、こんな光沢感ゼロの代物が光っていたのだろうか。中央階段が見せる幻の一種か何かと、マオは首を傾げる。


 ──君の持ち物だよ。


 不意に再生された優しい声に、息を呑む。腕輪をじっと見詰めては、恐る恐る内側を覗く。……特に何も彫られていない。所有者の名でも刻まれていないかと、少しだけ期待したのだが。本当にこれが自分の持ち物なのかと、マオは溜息雑じりに腕輪を鞄の中へ突っ込んだ。

「みぃー……」
「何だったんだろうね」

 彼女は苦笑しつつ、仔猫の顎を擽る。取り敢えず、この腕輪のことも忘れずに尋ねよう。そのためには、遺跡を早めに抜けてしまわねばならなかった。マオはちらりと台座を一瞥してから、広場の奥へと駆けていく。凹凸のある石畳に爪先が引っかかり、何度か転びそうになっては体勢を立て直した。マオの足音だけが響く静かな空間は、夜空の異変を合図にいきなり軋み始めたのだった。

「!?」

 ハッとして上空を仰ぎ見れば、きらきらと輝くばかりだった無数の星が、マオの行く先に向かって落ちていく光景があった。まるで大瀑布の流身のようだと圧倒されつつも、彼女は幾万もの光を追って階段を駆け上がる。そうして全ての星が落ちてしまう前に、辿り着いた先にいたものは。

「あ……!」

 崩れ落ちた階段に腰を下ろし、その先にある真っ暗闇を見詰める人影。こちらに背を向けてはいるが、長い栗毛と白いワンピースは見慣れたものだ。マオは仔猫と顔を見合わせつつ、そうっと人影の顔を覗き込む。

 “彼女”はこちらに気付くと、にこりと微笑んだ。

「こんにちは、マオ」
「……え。……は、はい」

 呑気な挨拶に思わず返事をすると、“彼女”は珊瑚珠色の瞳を暗闇に向ける。

「まだ僕が怖いかな? 君がいつも走り去ってしまうから、声は掛けない方が良いのかと思って」

 その言葉に、マオは目を丸くした。何故だろう。初めて“彼女”と遭遇したときは、怖くて堪らなかったはずなのに。自分のものよりも不気味な輝きを帯びた瞳が、とても恐ろしく映ったのに。何故か今、“彼女”に対する恐怖心は不思議と薄れていた。

「……ううん」
「そうか。──それは良かった」

 “彼女”が嬉しそうに笑った瞬間だった。

 夜空から星が消え、暗闇に暁光が射す。そして一斉に視界が明るくなり、眼前に果てしない海が広がった。“彼女”が腰掛けていた場所は、夜明けの海を眺めるためのバルコニーだったのだ。次第に青く染まる空に魅入り、マオはふと後ろを振り返る。朽ちた遺跡に暖かな光が降り注ぎ、石畳の隙間から瑞々しい草花が伸びている。それどころか、遺跡の中央部──先程の台座があった付近には、見上げるほど巨大な木が育っていた。

「な、何が起きてるの……っ?」
「ここは死と再生を司る場所さ。日が落ちれば命は朽ち果て、夜が明ければ新たな芽吹きが起こる」

 どこかで聞いたような話だ。マオが呆然と遺跡を見詰める傍らで、“彼女”はいつの間にか立ち上がっていた。何処からか取り出したつばの広い帽子を被り、大きな籠を腕に引っ掛ける。あっという間に旅支度を済ませていく“彼女”を、マオはまばたきを繰り返しながら見詰めた。

「さて、じゃあ行くね」
「え」
「僕たちは君のことを待ってるよ。マオ」
「ま、待って! 僕たちっ? 私を待つってどういうこと?」

 “彼女”は帽子を片手で押さえ、思案げに視線を逸らす。ふわりと栗毛が風に揺れ、珊瑚珠色の双眸が和らいだ。


「言ったじゃないか。プラムゾの地で待っているよ。──さあ、今は君の目的地へ急ぐと良い」


 白いワンピースの裾が激しく音を立てたかと思えば、海の方から強い風が吹き上げる。刹那、“彼女”は朱色の花びらとなって、風に運ばれて行ってしまう。藍の空へ消えゆく“彼女”を見送り、マオは同じように体を逸らせていた仔猫を見遣る。

「……行こっか」
「みゃ」
「どこに出るかは分からないけど……」

 輝く海を一瞥し、大きく息を吸い込んだ。仔猫を抱き締め、マオは思い切って一歩踏み出す。




「──ホーネルさんの元へ!」




 腹部に走った浮遊感に目を瞑り、マオは底無しの海へと沈む。彼女の体はどんどん下へと向かい、不安から足をばたつかせれば、不思議なことに靴裏にしっかりとした感触が現れた。マオは足場を逃さぬよう、目的地として設定したホーネルを強く思い描く。彼が第一層の屋敷にいるなら、そこへ送ってくれるのが一番だが……。

「……!? な、何か真っ白ぅわあ!?」
「うぐっ!?」

 水中にいた時の浮遊感が消え失せ、体が勢いよく前へ投げ出される。そして顔面を硬いものに強打したマオは、こんなことが前にもあった気がする、とその場に尻餅をついた。額を摩りつつ、今しがた激突した人物を見遣る。もしやと瞳を見開いたのも束の間、マオは瞬時に顔を青褪めさせた。


「──……いきなり頭突きたぁ、随分なご挨拶だな。お嬢さん?」


 真っ白な地面から体を起こしたのは、どういうわけか赤毛の美丈夫だったのだ。

「……ほ」
「あ?」
「ホーネルさんじゃない!!!!」

 マオは混乱のあまり、頭を抱えて叫んだのだった。

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