プラムゾの架け橋

第四章

 42.





 
「──マオ、マオ」

 眩しい光を感じて、少女は瞼を押し上げる。ゆっくりと体を起こし、乱れた髪を緩慢な指先が引く。開けた視界には黒く陰った廃墟と、快晴の空。雲一つない澄み切った青空には、歪むことのない白き塔が聳え立つ。ふらふらと歩み寄っては、行く手を阻む大きな谷を見下ろした。

「マオ」

 声を捉え、顔を上げる。見えたのは、向こう岸に佇む人影。彼女が嫋やかな腕を広げれば、誘われて足が動く。けれど、底の見えない真っ暗な闇を知っては、恐怖に身体が竦んだ。

「大丈夫だ、おいで」

 人影はそれでも促した。二度と戻ることができない谷底へ、少女は次第に身体を傾けていく。刹那、視界に鮮烈な光が走る。真紅の煌めきが闇に散りばめられ、やがてそれは焔の如く少女を包み込んだ。心地よい微睡みの中へ引き摺られ、珊瑚珠色の瞳が閉じられようとして──。



「マオ……っ?」



 掴まれた手に気付き、覚醒した。



 ◇◇◇



 目を覚ましたとき、マオのこめかみに一筋の汗が流れ落ちた。混濁した意識のまま、流れていく景色を追う。頬に当たるのは、何度も負ってくれた大きな背中。

「……みぃー」

 ハッとして自身の肩を見遣ると、今しがた目覚めた様子の仔猫がいた。

「! マオ、起きたか」
「え……あ、ギル?」

 バランスを崩しかけ、慌てて彼の──オングの背中にしがみつく。オングとギルは森の中を走っており、状況を理解できていないマオは動揺しつつ尋ねた。

「何かあったの……?」
「公爵家の奴らが近くまで来てる。一応、起こしたんだけどな」

 夜が明ける前、周囲の哨戒へ向かったギルは、遺跡群から西に下った場所に松明の灯りを捉えたそうだ。公爵家の私兵がそこまで来ていることを悟り、彼は急いでオングたちに知らせたのだが、何故かマオはいくら声を掛けても起きなかった。平素ならば一度で飛び起きるくらいには寝起きが良いはずなのだが。やむを得ずオングが彼女を背負い、彼らは山を東に進んだとのことだった。

「ご、ごめんなさい、こんなときに寝坊なんて」
「いや。体調が悪いわけじゃないのか?」
「うん」

 マオは頷きつつ、ちらりとオングを見遣る。彼は黙々と歩を進めており、彼女の方を見る気配がない。少しの気まずさを覚え、マオはすっかり腫れてしまった瞼を擦った。

「オング、このまま東に山を下るのか?」
「えっ、ああ。もう少しで丘に出ると思うから、そこを下っていくよ」
「そうか。……じゃあ、スキールの町に行ってくれないか? 親父と合流するときによく使うんだ。あそこなら貴族もいないし」

 彼の言うスキールの町とは、第三層の南東部に位置する中規模の都市だ。第二層のロンダムよりも一回り小さなその町は、多くの傭兵が集う場所として知られている。プラムゾを旅する者が休息のために立ち寄るため、依頼や情報を収集しやすいのだとか。そこを治める貴族というのが少々変わり者で、平民からの叩き上げで爵位を賜った経歴を持つおかげか、町の行政について貴族の過干渉を禁じているという。公爵家と言えど区別はせず、あそこはあくまでも「旅人のための羽根休め」を存在意義として掲げているほどだ。

「そんな町があるんだ……?」
「……他の貴族からは嫌われてるらしいけどな。俺たちを追って公爵家が大勢でスキールに押し寄せたとしても、そこの領主が立ち入りを食い止めると思う」

 それに、とギルは更に付け加える。

「領主は親父の知り合いだからな。力を貸してくれるかもしれない」
「……フェルグスさん、人脈すごいね」
「ああ。俺もそう思う」

 驚く反面、それは納得できる話だった。フェルグス傭兵団は数ある団体の中でも評判が良く、かつ団長への信頼は群を抜いていると聞く。マオもつい最近まで、傭兵というと粗暴な印象が自然と植え付けられていたのだが、フェルグスやその他の団員にはそのような雰囲気は一切感じられなかった。そんな彼の知人ならばと、ある程度の信用が前提として固められていることは非常に有り難い。既に団長の知人であるサイラムに助けられたマオとしては、尚更のことだ。

「……ってわけで、取り敢えずの目的地はスキールで良いか?」
「分かった。案内をお願いしてもいいかな、この一帯はよく知らなくて」

 オングの控えめな問いに、ギルが頷いたときだった。森がうっすらと明るくなり、進行方向から光が射し込む。どうやら無事に丘まで来れたようだ。ここから下山していくとの話だったので、マオは恐る恐るオングの背中を軽く叩いた。

「オングさん、降ろして良いよ。山を下るんだったら危ないから」

 そこでようやくオングが視線を寄越す。その場で降ろす素振りは見せたものの、ぬかるんだ足元を見ては、考え直した様子で丘の手前まで歩いていく。

「……どうしたの?」

 頭上を覆っていた枝と葉が途切れ、遮られていた雨がしとしとと降り注ぐ。灰と青が斑模様を象る空の下、マオはそっと地面に降ろされた。彼女が不思議そうに見上げていると、オングは苦笑交じりに告げたのだった。

「マオは昔からよく転ぶから」
「!」

 彼は外れていたフードを被せるついでに、マオの頭を優しく撫でる。久しぶりの大きな手の感触に、彼女は震える下唇を噛んだ。ここ最近、涙腺が随分と緩くなってしまったようだ。零れ落ちそうになった涙をぐっと堪えたマオは、小さく笑って頷いた。

「……ふふっ、そうだね。ありがとう、オングさん」

 マオの反応を見て、彼はふと泣きそうな顔を浮かべる。しかしそれも一瞬のことで、すぐにマオの大好きな優しい笑顔へと変わった。

「マオ、その……昨日は」

 悪かった──そう告げようとした彼は、途端に目を見開く。次いでマオとギルが聞き取ったのは、枯れ葉の山を踏み締める音と……刃の引き抜かれる音。同時に散った朱が紅葉を黒く染めたかと思えば、オングの身体がその場に崩れ落ちる。

「え……」

 蹲ったオングの背中には大きな傷が走り、じわりと血を滲ませていく。止めどなく溢れる血を目にしたマオは、途方もない恐怖と共に我に返った。

「オングさんッ!!」

 すぐそこに佇む影にも気付けずに、マオは混乱したままオングの肩を支える。それと同時に背後から剣戟が響き、ハッとして振り返った。そこにいたのはオングの背中を斬り付けたであろう黒衣の男で、咄嗟に反応したギルと剣を交えていたのだ。

「お前……!」
「……」
「くッ!?」

 鍔迫り合いの後、素早く剣を外した男は、ギルに反撃の暇も与えずに腕を斬り付ける。剣を握る手に力が入らなくなったところで、目にも止まらぬ速さでギルの右手を蹴飛ばした。まばたきすら許さぬ早業で武器を手放させると、そのままギルの首を狙って剣が振られる。間一髪でそれを回避したギルだったが、男は振り向きざまに肘を鳩尾に打ち込んだ。

「……ッ!?」

 あまりの速さに付いて行けず、ギルは驚愕と痛みを混ぜた表情で膝をつく。苦しげに噎せる彼に、再び剣が振り下ろされそうになったとき。ぐん、と身体が後ろに引っ張られ、男が足元を見遣る。そこには情けないほどに震えたマオが、男の両脚を強く掴んでいた。

「も、もうやめて、お願い……! 殺しちゃ駄目!!」
「……」

 男に無言で肩を押されても、マオは絶対に放すかと言わんばかりに力を込める。オングとギルにこれ以上の傷を負わせるわけにはいかない。何が何でも放すわけにはいかなかった。そんな彼女の固い意志が伝わったのか、男は少々困惑気味に剣を下ろす。

「……ミカエル様の命です。この者たちを始末せよと」
「駄目、そんなこと許さない!」
「……!」

 そのとき、男が大きく身じろぎをした。だが時既に遅く、男は顔面を勢いよく殴られて吹っ飛ぶ。驚いたマオが振り返るより先に、軽々と体を抱き上げられる。いつの間にか起き上がっていたオングは、彼女を肩に担ぐついでに、ギルのことも脇に抱えて走り出した。

「オングさん……!! 動いたら駄目だよ、血がたくさん……っ」
「っ……大丈夫」

 彼の真っ赤に染まった背中を見て、マオは「嘘だ」と首を振る。オングの呼吸は荒く、足取りも不安定だった。決して二人も抱えて走れるような状態ではないだろう。どこかで手当てをしなければ失血死してしまうことだって容易に考えられた。マオが動かないで欲しいと懇願しようとしたとき、オングが急に立ち止まる。

「な……っ」

 開けた丘には、既に大勢の兵士が待ち構えていたのだ。彼らはオングが森から出てくるなり武器を構え、じりじりと距離を詰めてくる。それに併せて後退すれば、二つの足音が後方から近づく。


「──貴様が吹っ飛ぶ様は初めて見たな。なかなか痛快だったぞ、ジャレオ」


 現れたのは左頬を負傷した黒衣の男──ジャレオと、公爵家のミカエルだった。完全に包囲されてしまったことを悟ると、オングは抱えていた二人をそっと降ろす。緊迫した空気が流れる中、悠々と歩み寄ってきたミカエルが笑った。

「ふむ、凄まじい腕力だな。ジャレオでなければ首でも飛んでいたかな」

 意識を朦朧とさせながらも、オングは鋭く睨みを飛ばす。マオでさえ見たことのない剣呑な瞳に、ミカエルは立ち止まって肩を竦めてみせた。

「そう怒るな下民。その娘には一つも手を出しておらんだろう? それに、こうなってしまっては逃げる術は無い。貴様らにこれ以上の実力行使を強いるつもりも無いさ」
「……」
「言いたいことは分かるな? ──娘を引き渡し、大人しく降伏せよ」

 ミカエルの要求に、マオたちは沈黙する。四方から武器を向けられた状況下、応じるほかに助かる方法はないだろう。既に負傷しているオングとギルを見遣り、逡巡したマオは思い切って口を開いた。

「あ、あの、私が行けば、二人を見逃してもらえますか」
「! マオ」
「助けてくれますか」

 二人からすぐさま発言を制止されたものの、彼女はミカエルの目だけを見て問う。彼は形の良い眉を片方だけ上げると、笑顔のまま頷いた。

「ああ、約束しよう──と言いたいところだが、生憎と私には決定権がない」
「え……」
「貴様がしぶとく逃げ回るものだから、とうとう痺れを切らしてしまわれたようでな」

 ミカエルはそう告げるや否や、その場から数歩下がる。それに併せて、後ろに控えていたジャレオや兵士たちが道を開けた。マオは戸惑いつつも、そこから歩み出てきた者たちを見上げ──視界を大きな背中に遮られた。


「──ほう、やはり娘を匿っていたのはお前だったのか……褐色の」


 整えられた白髪混じりの金髪、柔和に見えて歪な笑みを携えた老輩は、オングに向かって告げる。大袈裟に驚いたような口調に、オングの肩がびくりと震えた。話が見えず、マオはどうやらオングと知り合いらしい男を覗き見る。彼女の視線に気付いた男は、不気味なほど明るい笑顔を向けてきた。

「おや、初めまして……と言うべきですかな」
「……あなたは……?」

 マオが恐る恐る尋ねると、男は芝居じみた仕草で両手を上げる。


「これは申し遅れました。私、王の側近兼宰相のヴェルモンドでございます。以後お見知りおきを」


 ヴェルモンドは胸に手を当て、恭しく礼をした。自身を狙う黒幕とも言える人物の登場に、マオは息を呑む。しかし彼女はそれよりも、すぐ傍で震えているオングの方が気掛かりだった。彼とヴェルモンドはどうやら顔見知りのようなのだ。無論、その関係性があまり良好なものでないことは、オングの様子を見れば明らかだろう。

「ミカエル殿、感謝いたしますよ。貴殿のおかげでようやく尻尾を掴むことが出来ました。それに……思わぬ収穫もありましたからねぇ」
「!!」

 突然、ヴェルモンドの傍に控えていた二人の騎士が、オングの肩を掴んで引き倒す。二人掛かりで地面に組み伏せられ、彼は背中に走った激痛にうめき声をあげた。

「オングさんっ!! やめて、何するの!?」
「ああ、お労しや。あなたはこの男が何であるかご存知ない様子」

 マオはすぐに騎士を引き剥がそうとしたが、非力な彼女にそれは叶わない。その間にヴェルモンドはゆったりと、踵を鳴らしてオングに近付く。それまで痛みに苦しんでいたオングは、また大きく震えて動きを止めた。乱れた呼吸を繰り返しながら、見開いた目で血を凝視していた。

「……もう二十年近く見ていないというのに、貴様は相変わらず汚らわしいな」

 唐突に吐かれた暴言にマオが怒りを露わにしたのも束の間、ヴェルモンドは硬い靴に覆われた踵で、オングの後頭部を踏みつけた。信じがたい行為にマオとギルが絶句してしまうと、宰相は苛立ちを隠すことなく再び踵を強く押し込む。

 ──そして。


「コレは奴隷ですよ。先王が飼っていた、汚らわしい“獣”でございます」


 歪な笑みと共に、ヴェルモンドは吐き捨てた。

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