プラムゾの架け橋

第四章

 43.






 ──自分の過去が嫌いかい?


 十年ほど前、ホーネルに問われたことがある。体に残る無数の傷を見て、彼はとても呆れたような表情を浮かべた。

「酷いもんだねぇ。あの子が見たら号泣しそうだ」

 作業着は長袖にしとくね、とホーネルは平然と告げる。先程の問いに答えていないのに、話はもう終わったようだった。戸惑いの視線を感じ取ったのか、彼はぐしゃぐしゃに頭を掻く。

「聞かなくても分かったよ。悪かったね」
「……」
「まぁでも僕は御覧の通り、か弱いから。お前に暴力を振るえないってことは理解しておきなよ」

 自慢げに言うことではない気がしたが、確かに彼にそういった意思が無いことは伝わった。ぎこちなく頷けば、別の部屋から名を呼ぶ声が聞こえてくる。ぱたぱたと走り回る、おぼつかない足音にさえ、身体は自然と震えてしまっていた。その様子を見かねてか、ホーネルは溜息交じりに廊下へ出て行く。

「あ! いたー!」
「ん、どうしたんだい?」
「おはよう言いにきた!」
「ああ、そう。おはよう」

 元気に挨拶をした少女は、おもむろに部屋を覗き込む。こちらと目が合うなり、無邪気な笑顔で飛び跳ね、真っ直ぐに走ってきた。


「オングさん、おはよう!」


 抱き上げる腕が震えなくなったのは、それから数年後だった。



 ◇◇◇



「──奴隷……っ? 獣って、何ですか……どうしてそんな酷いこと言うの……!?」

 段々と語気が荒くなり、マオは怒りのあまり立ち上がる。怯むことなくヴェルモンドに詰め寄れば、それを咎めるように私兵が剣を向けてきた。宰相は嘆かわしいと言わんばかりに首を振り、ふと灰色の空を仰ぎ見る。

「あなたは何故、我々貴族が“獣”を嫌うか……その理由をご存知ですか?」
「っ……?」
「我々は何も、見た目や匂い如きで獣を遠ざけているわけではないのですよ」

 そう言って、ヴェルモンドは東の空を指差した。怪訝な表情でその先を見ても、そこには延々と続く曇り空しかない。何を指したのかと、マオが眉を顰めたとき。

「──“大地の塔”。この“天空の塔”と対を為す、プラムゾのもう一つの橋脚は知っていますね?」
「!」

 知っているも何も、それはマオが幼い頃から様々な夢想をしていた場所だ。海を隔てた先、濃霧に包まれた巨大な影。数えきれないほどの旅人が海へ挑み、その命を散らしたという未踏の地。彼女が一切知り得なかった“大地の塔”について、ヴェルモンドは驚くべきことを告げる。

「かの塔には我々と異なる種族が棲息していると、王の伝記には残されています」
「異なる……種族……?」

 ヴェルモンドは東の空から視線を外し、その瞳に侮蔑の色を宿した。恐ろしく冷たい雰囲気を纏ったその眼差しは、直接向けられたわけでもないのに、マオの背筋を凍らせてしまう。

「そう、おぞましい話だと思いませんか? 海を隔てた先に、我々と相容れない野蛮な種族が棲み付いているなど」
「……」
「伝記にはこう書かれていました。“鋭い爪と牙、血走った眼、そして強靭な体躯を持った恐ろしい──獣”と」

 抑揚を付けて語った宰相に、マオは視線を彷徨わせる。何故だか心がざわつく。これ以上、この男の話を聞いてはならないような気がしたのだ。先程からうるさいほどに鳴る心音は、まるで警鐘のように彼女の頭に響いていた。

「そのような低俗な種族、いつ海を越えて侵略してくるか分かりません。理性と知能を有する我々が、彼らを完全な支配下に置くべきではという議論は数百年前から……」
「そ……その、話が」
「んん?」
「その話が、オングさんと、何の関係……」
「──まだ分からないのですか。残念ながら頭がよろしくないようですねぇ?」

 ヴェルモンドは大袈裟な溜息をつくと、俯くマオの前髪を引っ掴む。それを見て反射的に動こうとしたギルは、いつの間にか近くまで来ていたジャレオによって腕を捻り上げられてしまう。ギルが拘束される様を後目に、宰相はマオの顔をオングの方へ向けさせた。



「伝記によれば……確か二百年ほど前、当時の王率いる調査団が“大地の塔”へ赴き、この獣を捕獲したのですよ」



 告げられた内容はマオやギルだけでなく、ミカエルや他の私兵たちも理解が追い付かなかった。硬直しているマオとは対照的に、やがてひどく取り乱したミカエルが宰相に詰め寄る。

「ヴェル……宰相殿、待たれよ。二百年っ? “大地の塔”の獣はそんなにも……いや、それよりこの男が獣とは真か!?」
「おや、そういえばミカエル様は……まだお若いから見たことがなかったのですねぇ」
「!! やめ……っ」

 そのとき、ヴェルモンドは躊躇なくオングの頭部を蹴りつけた。マオが止める暇もなく、宰相は何発か蹴りを入れてから口を開く。

「獣の寿命は我々よりも遥かに長いようですよ。おまけにどれだけ痛めつけても、なかなか死なないのです。強靭な肉体を持つとは真実らしい」

 淡々と語られる事柄に、マオはどんどん青褪めていく。宰相は──否、王宮に住まう者は何代にも渡って、オングを奴隷として扱ってきたのだ。二百年という長い年月を、ずっと絶え間なく。彼の異常な怯え方は、自身を虐げてきた者へ対する恐怖心と服従心の表れだった。

「……そうなのか……しかし宰相殿」
「何でしょう?」

 残酷であるはずの話を聞いても、ミカエルは特に不快感を露わにしない。彼ら貴族は、“それ”が人間と獣の正しい関係であると信じて疑っていない。マオは怒りを忘れ、彼らの狂気にも似た「常識」に恐れを抱く。

「この男は獣の形をしていないが……?」
「ああ……ここ百年ほど、コレは獣の姿を取れなくなってしまいましてね」
「……。何と言った?」

 ヴェルモンドは口角を上げると、おもむろにマオを突き飛ばす。そして腰から護身用の短剣を引き抜いては、面白くなさそうな口調で語ったのだ。

「“大地の塔”の獣は何とも腹立たしいことに、普段は我々と同じ姿をしているのです。闘争本能を刺激すれば、昔はちゃんと獣の姿になれたそうなんですがねぇ……!」

 オングの頭を掴んだかと思えば、宰相は彼の肩に短剣を突き立てる。声なき悲鳴を漏らしたオングに、短剣は何度も振り下ろされた。目の前で行われる残虐な行為を黙って見ているはずもなく、マオは無我夢中で宰相の腕を掴む。

「やめて!! オングさんが、オングさんが死んじゃう……!!」

 ぼろぼろと涙をこぼして懇願すれば、短剣は下ろされたものの、心底呆れたような溜息がなされた。大切な人を傷付けられて怒ることの何が気に喰わないのかと、マオは悔しげに宰相を睨む。しかしそうして返ってきたのは、彼女の予想だにしない言葉だった。



「──……あなたの“御父上”が飼っていた獣ではありませんか。何をそんなに必死になっているのです?」



「…………え?」

 絞り出した声は、掠れてしまっていた。彼女の足元では、ずっと動かなかったオングが微かに反応を示す。しかしすぐに騎士から力を加えられ、マオの視界が彼の動きを捉えることはなかった。沈黙の中、ヴェルモンドは短剣を鞘に納めると、皮肉げに口許を歪めてみせる。

「十六年前、先王コンラート様のご息女が行方不明となりましてね。大事な王家の血を絶やさぬために、我々は総力を挙げて王女を捜しました。そして……長い時を経て、ようやく手がかりを掴むことが出来たのです」
「……」
「第一層に暮らす、朱色の瞳をした娘。その傍らには……王女の行方不明と時を同じくして、伯爵家から突如として消えたホーネル殿がいました」
「……!」

「我々も信じたくはありませんでしたが……十六年前の王女失踪事件は、ホーネル殿が王家を揺るがすために画策した、誘拐事件だったのです」

 頭が、真っ白になりそうだった。明かされたのは全く知らない過去。信じられるはずもない事実。けれど宰相は確かに、マオ──いなくなった王女のことを話していた。そしてオングとホーネルに関する、今まで何一つとして聞くことができなかった情報は、彼女に凄まじい衝撃を与えるばかりだった。

 しかし何よりもマオを混乱させたのは、自身の父親が大切な人を虐げていたかもしれないということだった。十六年もの間、オングはずっとマオに怯えていたのだろう。恐怖の対象である男と、よく似た娘など──顔も見たくなかっただろうに。

「う……嘘、嘘……っ私、そんなのじゃない」

 これが真実だとしたら、今までの暮らしは何だったのだ。全てが虚構だったというのか。マオが“家族”と呼んでいたものは、ただの茶番劇だったというのか。信じていたものが音を立てて崩れていくような気がして、彼女は苦しげに耳を塞いだ。

「私は、オングさんを虐めた奴らの血なんか、引いてない!!」

 誰でも良いから否定して欲しかった。それは嘘だと、自分はただの田舎育ちの娘に過ぎないと、言って欲しかった。けれど向けられるのは哀れみと嘆きの瞳。偽りの家族を信じてきた娘に、同情するような顔だった。

 ──私の記憶が、思い出が崩れていく。

 きらきらと輝いていたはずの大事な思い出が、途端に汚れていくような気分だった。大切に大切に抱えていた宝石は、悪意と憎しみで磨かれた紛い物だったのだろうか。途方もない虚無感に襲われ、ついにマオが顔を覆ったときだった。




「──……みゃー」




 彼女の崩壊を寸でのところで支えたのは、落ち着いた鳴き声と鈴の音。

 知らぬ間に座り込んでいたマオは、涙に濡れた顔で仔猫を見詰めた。薄氷色の双眸が一度だけ瞬いたかと思えば、仔猫はマオの膝に耳を押し付ける。そして、器用にも青い耳飾りを外してしまった。

「え……」

 動物らしからぬ仕草に、ギルやミカエルが思わず見入る。皆が一様に仔猫を注視する中で、ただ一人、オングだけがひどく動揺していた。彼は小刻みに首を左右に振っては、近寄ってきた仔猫に「戻れ」と告げる。一方のマオは、段々と遠ざかる小さな親友に、漠然とした不安を覚えた。

「……。……!! その獣を殺せ、今すぐ!!」
「は……っ?」
「早くしろ!!」

 すると突然、ヴェルモンドが取り乱した様子で叫び始めた。傍にいた騎士の腕を掴み、ぐいぐいと仔猫の方へ引っ張る。騎士は困惑しつつも、貴族の獣嫌いが発動したのかと納得し、おもむろに剣を引き抜いた。このままでは仔猫すら害されてしまうと、我に返ったマオは咄嗟に手を伸ばす。

 騎士の剣が躊躇なく振り下ろされようとしたとき、マオの眼に映ったのは“真紅の光”。

「!?」


 続いて起こったのは、地を揺るがすほどの──獣の咆哮だった。


 マオの頭ほどしかなかった小さな仔猫は消え、代わりに現れたのは漆黒の毛並みを持つ獅子。鋭い爪と牙、成人男性を容易く超える大きな身体、そして……。

「……あ」

 澄み切った青空を彷彿とさせる、薄氷色の双眸。

 突如として出現した獰猛な獅子を前に、騎士は完全に腰を抜かしてしまっていた。黒い獅子はもう一度だけ咆哮を上げると、強靭な前脚で騎士の身体を地面に叩き付ける。凄まじい音と衝撃に皆が怯んだのも束の間、攻撃を食らった騎士は一発で気絶してしまった。何処からか引き攣った悲鳴が漏れた直後、次いで獅子はオングを拘束していた二人の騎士に衝突する。人間では発揮し得ない力と速度は、甲冑を身に着けていても全く防ぎ切れず、吹っ飛ばされた騎士は痛みに悶え苦しんだ。

「う……うわぁあ!?」
「け、獣だ!!」

 そこでようやく事態を把握した兵士たちが、一斉に悲鳴を上げる。中には武器を手放して逃げる者もおり、阿鼻叫喚という表現がぴったりの状況だ。獅子は戦意喪失した彼らを威嚇することなく、視線を後ろへと向ける。そこには腰抜けの兵士と異なり、ただ一人武器を構える男がいたのだ。

「じ……ジャレオ!! 何とかしなさい!!」

 ヴェルモンドの裏返った声に反応し、静かに息を吐き出したジャレオが勢いよく地を蹴る。瞬時に距離を詰めた彼は獅子の首を狙って剣を薙ぐが、黒い影は後ろへ跳躍してそれを回避すると、すぐさま彼の腹部に頭突きを食らわせた。しかしジャレオはそれを受けてもなお吹っ飛ぶことなく、獅子の頭を掴んでその場に留まって見せる。恐らく骨は数本折られただろうが、彼は血を吐くだけで痛みに苦しむ様など微塵も窺わせない。

「そのまま掴んでいろ、ジャレオ!」
「!」

 そこへ、サーベルを携えたミカエルが駆ける。彼は獅子の背後を取ると、背中目掛けて腕を振りかぶった。だが、完全に捉えたと思った刃は空振り、不思議なことに空を切る。ミカエルとジャレオが目を見開き、咄嗟に下方を見遣ると。そこには地面に落ちていく小さな仔猫の姿。二人の視線を受け、薄氷色の瞳が細められたかと思えば、素早く地を蹴ってマオの方へと跳躍した。彼女の元まで舞い戻った仔猫は、再び真紅の光を纏って獅子へと変化する。

「な……ッんだ、あの化物は!! おいヴェルモンド!!」

 それを見て、ミカエルは混乱のあまり宰相を怒鳴りつけた。いつの間にか岩陰に避難していたヴェルモンドは、「ひっ」と声を漏らしてから首を振る。

「し、知りませぬ! 奴隷の他に獣が侵入しているなど……!」
「くそ、使えん爺だ。もういい、弓兵!! あの化物を撃ち殺せ!!」

 彼の怒声にも似た号令に、残っていた兵士が慌てて弓を引き絞る。四方から狙いを定められ、獅子が僅かに身構えた。

「──逃げて」

 そのとき、ほぼ無意識のうちにマオは獅子に呼びかける。薄氷色の瞳が振り返ると、マオは小さな声で続けた。

「怪我しちゃうから……早く」
「……」
「“あなた”だけなら、すぐに逃げられるよ」

 彼女の言葉に、獅子はどこか悲しげに唸った。理解できないと言わんばかりの眼差しを受けたマオは、やはりこの獅子が“ノット”であることを改めて実感する。だからこそ、逃げるよう言わなければならない。圧倒的な力の差はあれど、多勢に無勢であることに変わりはないのだ。加えて──。

「……あの人たち、本当に殺そうとしてるんだよ。あなたと違って」

 この獅子は、ミカエルたちを殺す気がない。何人かに攻撃は仕掛けたものの、止めを刺すような素振りを一切見せないのだ。しかし幾ら手心を加えたとて、獣を下に見る貴族相手ではそれも無意味だ。彼らは獅子が力尽きるまで武器を振るうだろう。そんな場面を見るのは御免だと、マオは今にも放たれそうな矢などお構いなしに、獅子の頭を抱き締めた。

「お願い、逃げ──て」

 不意に、マオの身体が持ち上げられる。そのまま獅子の背中に乗り上げてしまい、目を丸くして振り返った。そこにいたのは、周囲を警戒しつつもマオを見据える、ギルの姿があったのだ。彼はマオをじっと見詰めてから、獅子の前に片膝をつく。

「マオを連れて参道に行け」
「!?」
「お前なら参道の崩れた道も飛び越えられる。……いいな」

 視線が交わったのは、ほんの数秒のこと。マオが異を唱える暇もなく、一度だけ瞳を瞬かせた獅子は、その場で大きな咆哮を上げたのだ。再び地面が揺れ、弓を構えていた兵士たちが怯む。そして獅子は背中にマオを乗せたまま、ヴェルモンドの方へと駆け出した。

「ひ!?」

 咄嗟に伏せた宰相の頭上を飛び越え、獅子は中央階段の方角へと向かう。振り落とされそうになりながら、マオは慌てて後ろを振り返った。遠ざかる丘に立ち、こちらを見送るギルに手を伸ばせば、彼は大きく息を吸い込んだ。

「マオ!! 自分で真実を確かめに行け!! こんな奴らの言葉じゃなくて、お前を育てた人間の言葉を聞け!!」
「……!」


「お前の家族は絶対に助けるから!! だから──転んでも立ち止まるな!!」


 彼の言葉はどこまでも真っ直ぐで、マオの閉ざしかけた心に突き刺さる。ヴェルモンドの言葉を受け入れ、大切な過去を放棄するには──まだ早い。まだ、それが真実だとは限らない。最後の最後まで足掻けと、過酷な選択と分かりながらもギルは訴えたのだ。自身の素性も、ヴェルモンドの思惑も関係ない、マオが知るべきことを優先しろと。

「……っ」

 マオは震えた息を吐き出し、後ろ髪を引かれる思いで獅子の背にしがみついたのだった。

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