プラムゾの架け橋

第四章

 41.





「おかえりなさい!」

 ひと月ほど屋敷を空けていたら、少女がはっきりと喋るようになっていた。それでもまだ身体は小さなままで、こちらの死角から脚に衝突しては尻餅をつく。おでこを押さえる少女を抱えてやれば、嬉しそうな笑い声が漏れた。

「マオね、マオね。えほんを読んでもらったの!」
「絵本?」
「まほうつかいの、ネコさんがでてくるんだよ。まっくろでかわいいの」

 部屋の本棚まで誘導され、深い青色の背表紙を少女が指差す。手に取って見れば、表紙には大きな帽子を被った黒猫が描かれている。少女はもたつく手でページを開き、昼寝をしている猫を見せてきた。

「これ!」
「うん、可愛いね」
「お名前はね、ノットっていうの」

 絵本を捲る少女の横顔は輝いていた。普段の明るい性格から滲み出る表情に加え、そこには夢や期待といった感情が添えられているような気がした。

「ノット、どこかにいるかな! お話してみたい!」
「……怖くないのかい? お喋りする猫さんは」

 口を突いて出た問いに、ハッとして目を見開く。目の前にはきょとんとした少女の顔。すぐに違う話を、と焦ったのも束の間、少女は満面の笑みを浮かべる。

「こわくないよ。ノットに会えたら、おともだちになるんだ!」

 曇り一つない、陽だまりのような笑顔が、これからも見られるのなら。

 ──ここに来たのは、間違いではなかったのだろう。



 ◇◇◇



 橋脚第三層、中央階段より南東にある山中にて。オングの助けによってミカエルから逃げることに成功したマオたちは、半日ほど森を進んだところで、古びた遺跡群を発見した。屋根が残っているものも複数あり、フェルグスが言っていた「身を隠せる場所」とはここなのだろう。小さな部屋にマオが足を踏み入れると、ウサギやリスがすばしっこく走り回り、あっという間に外へと逃げていった。

「……いろんな生き物がいる……」
「マオ!」

 振り返ると、いくつもの折れた石柱が視界に映る。その傍でオングがこちらに手招きをしていた。小走りに彼の後を付いていくと、他よりも木々の密度が濃い場所に、隠れるようにして佇む建物がある。ギルが既に中を調べてくれたようで、彼らはそこで一夜を明かすこととなった。とは言っても、決してミカエルが完全に諦めたわけではない。明日の朝、公爵家の手先から逃げつつ、フェルグス傭兵団との合流も視野に入れて、慎重に行動しなければならないだろう。

 屋内に腰を下ろしたことでようやく落ち着いたマオは、同じように座ったオングを見遣った。

「オングさん、ありがとう。まさかオングさんが来てくれるなんて」
「えっ、ああ……無事に見付けられて良かったよ。怪我はないかい?」
「うんっ」

 笑顔で頷いた彼女だったが、すぐにそれは剥がれていく。思い詰めた表情を浮かべれば、オングが心配そうに彼女の背中を摩った。

「マオ? どうしたんだ?」
「……あの、オングさん」

 マオはちらりとギルを一瞥してから、ここへ来るまでずっと考えていたことを口にする。

「さっきの人、何度も私を連れて行こうとした人なんだけど……私が“術師”だって言ったの」
「!」
「オングさんは、知ってた?」

 控えめに隣を窺うと、見るからに動揺したオングの横顔がある。マオがじっと返答を待つ傍らで、丸まっていた仔猫が尻尾をゆらりと立てる。そして、まるで急かすようにオングの脚を叩いた。

「痛ッ、ちょ、ちょっと待ってくれ、話すから」
「あ、こら! ノット!」

 大男を苛める仔猫を抱え上げ、マオは「駄目でしょ」と小さく叱る。仔猫はそっぽを向いたが、そのおかげでオングにようやく話をしてくれそうな雰囲気が宿ったのは確かだった。彼は参ったように後頭部を掻いてから、あぐらをかいた脚に肘をつく。

「……マオが“術師”っていうのは、その……確信はなかったけど、薄々そうなのかなって程度でね」

 オング曰く、彼自身も“術師”という存在に詳しいわけではないため、そうであるという証拠も得られなかったという。だがマオが初めて橋脚に入り、“階段”で一人はぐれてしまって以降、その疑念は大きくなっていったと語る。

「四六時中離れず、とはいかなかったけど、今まで見てきたマオは普通の女の子だったし」
「そっか……」
「……そいつはマオが“術師”だから狙っていた、のかな?」

 彼の問いに、マオは曖昧に首を振る。ミカエルは別に、マオからミグスを奪ってどうこうしよう、というつもりはなさそうだった。もしかしたら彼女が泣き出したがゆえに適当に誤魔化したのかもしれないが……と、マオが彼との会話を思い出そうとしている最中、ギルが助け舟を出してくれた。

「“術師”ってことと関係あるのかは知らないが、マオをヴェルモンドとかいう奴の元に連れて行くと言っていたぞ」
「え!? ほ、本当にそう言っていたのか?」

 途端にオングの顔色が悪くなり、すぐさまギルの方へと身を乗り出す。ギルが頷けば、彼は暫しの放心状態を経て、両手で頭を抱えてしまう。その反応に不安を覚え、マオは慌てて彼の顔を覗き込んだ。

「ヴェルモンドっていう人、知ってるの?」
「……ヴェルモンドは……」

 彼の表情は暗い。口調は重く、そこには明らかな躊躇が垣間見えた。心なしか体も震えており、マオはその尋常でなはい怯え様に戸惑う。

「オングさん、大丈夫……?」
「……っああ、いや、ごめんな。大丈夫だ」

 一度だけ深呼吸して、オングは気持ちを静めた。やがてマオとギルに向き直ると、先程の問いに答えたのだった。

「ヴェルモンドは“天空の塔”を治める王の側近で……いわゆる宰相という地位にいる人間だよ」
「!? え……えっと、それ、とっても偉い人?」

 悲しいかな、貴族制度やら官職などにあまり詳しくないマオは、何とも抽象的な捉え方でしか驚けない。一方のギルは何となく理解はしているようだが、些か腑に落ちないといった表情だ。

「何でそんな奴がマオを……? 勿論そいつも最上層にいるんだよな」
「ああ……」
「……。なあ、オング」

 先程からどうにも落ち着かないオングの様子を観察していたギルは、訝しげな眼差しで呼びかける。

「あんた、他に隠してることないか?」
「! え」
「マオに言ってないこと、まだあるんじゃないのか」

 訪れた沈黙の外で、降り出した雨の音が聞こえ始めた。段々と雨粒の勢いは増し、湿った土の匂いが屋内に充満した。そうして遠くから雷鳴の足音が近付いて来た頃、オングは深く頭を垂れたのだった。

「……マオ、悪い。少しだけ時間をくれないか」
「え……どういうこと? オングさん」
「俺には、マオに全てを話して良いのか分からない。俺にそんな資格があるとも思えない。こんな状況になって、マオを危険な目に遭わせておいて、何言ってるんだと思うかもしれないけど……」


 ──俺は、マオの親じゃないから。


 苦しげに告げられた言葉に、マオは硬直する。呆然とオングを見詰め、湧き起こった動揺に視線を彷徨わせた。仔猫を抱き締める腕が自然と強まり、視界はじわりと滲んでいく。何故これほどまでに悲しいのか、彼女は暫くの間わからなかった。けれど胸にぽっかりと穴が開いてしまったかのような喪失感は、今しがた為されたオングの発言が起因しているのは確かだった。

「……うん……分かった」

 マオの口は殆ど無意識のうちに動いていた。

「また今度、聞かせてね」

 彼女は立ち上がると、仔猫と共に建物の奥へと向かった。



 ギルの引き留める声があったが、既に顔がぐちゃぐちゃになっている自覚のあったマオは、応じることもなく暗い小部屋に駆け込む。こぢんまりとした階段室を上れば、半分ほど崩れた二階に出た。雨に当たらない程度の場所に腰を下ろし、マオはきつく抱き締めてしまっていた仔猫から手を放す。珍しいことに、仔猫はじっと彼女の膝の上に留まったままだった。

「みー」

 仔猫はひょいと前脚を上げると、ぐすぐすと鼻をすするマオの頬を肉球で叩く。いつもなら「ありがとう」と笑えるのに、今回ばかりはそれが叶わなかった。悲しくて、寂しくて、涙が止まらない。マオの心を蝕むもの、それを形容するならば、恐怖にも似た孤独だろうか。今の今まで考えないようにしていたことが、突如として目の前に姿を現したようだった。

「……ノット」

 そっと黒い毛並みを撫でながら、マオは口を開く。何度もしゃくり上げつつ、大人しくこちらを見上げる仔猫に語り掛けた。

「ごめんね、すぐ元気になるから」

 血の繋がりなどなくても、家族になれる。そう信じて生きてきた。ホーネルやオング、マリーやヒューゴ、第一層の住人と沢山話すことで、マオは「自分に無いもの」を埋めてきた。皆が当たり前のように享受した両親の慈愛、それにも劣らない絆を育んできたつもりだったのだ。だが、先程のオングの言葉によって、彼女は今まで見えなかった「壁」を意識せざるを得なかった。

「……すぐ……」

 今はこんなことで落ち込んでいる場合ではない。彼らと血の繋がりが無いことなんて、些細なことのはずだ。そう言い聞かせるほどに、マオの寂しさは一層激しさを増してゆく。


「──……私……っ何で一人なのかなぁ……?」


 とうとう吐き出してしまった言葉。今日まで一度たりとも口にしなかった言葉。何故自分には両親がいないのだろう。捨てられてしまったのだろうか。皆とは違うからだろうか。自分が“術師”だから、一人になってしまったのだろうか。

 ──私に帰る場所なんてあるのだろうか。

 どうしようもなく胸が苦しい。拾って育ててくれたとは言え、やはりホーネルやオングも所詮は他人なのだ。家族でもない人たちに、これ以上……。

「みゃッ」
「いたっ」

 思考がとんでもない方向へ落ちて行こうとした瞬間、仔猫の前脚がマオの額を叩く。なかなか鋭い一撃を食らい、マオは涙目で額を摩った。けれど再び仔猫は前脚を上げると、殴った箇所を鼻先でくすぐる。暫くそれを甘受していたマオは、不意に笑みを零した。

「……一人じゃなかったね」
「みー」
「友達だもんね。私の、初めての友達」

 ノットは薄氷色の双眸を細め、満足げに鳴いたのだった。



 ▽▽▽



 二階に上がると、そこに少女が横たわっていた。その目尻は赤くなっており、何気ない一言が彼女を深く傷付けてしまったことを知る。オングは軽率な発言を悔いはしたものの、今や頭を撫でてやることすら出来なかった。寝息を立てる彼女の傍に立ち尽くしていれば、どこからともなく影が飛び掛かり、オングの頬に激突する。

「うッ!?」
「みゃー」

 容赦のないパンチをお見舞いした仔猫は、軽やかに床へ飛び降りてはオングを振り返る。その瞳は正しく軽蔑の色を宿しているようで、オングは何も言えずに狼狽えた。その間に仔猫は少女の元へ戻り、まるで彼のことなど知るかと言わんばかりに丸まってしまう。

「……あんたのこと、“家族だ”って言ってたぞ」
「!」

 ハッとして階段を見遣ると、壁に凭れるギルがいた。彼はちらりと少女を一瞥し、極力抑えた声で続ける。

「三人で暮らしてるから、寂しくないって」
「あ……」
「……あんたはそうでもないのか?」

 その問いに、オングは視線を落とした。言葉は上手く出て来ず、口を開閉させるに留まる。やがて彼は項垂れ、首を左右に振った。

「……分からない。俺はずっと怯えている」
「……?」
「マオにも、ホーネルにも……君にも」

 部外者であるはずの自分が挙げられ、ギルは困惑した表情を浮かべる。当然の反応だと苦笑したオングは、覇気のない足取りで階段を下りていく。

「オング」
「……頭を冷やしてくるよ、マオの近くにいてやってくれ」

 ギルは呆然とその背中を見送り、釈然としない面持ちで呟いたのだった。


「それは、あんたの役目じゃないのかよ……」

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