プラムゾの架け橋

第四章

 36.


 
 

 視界が揺れて、ぷつりと痛みは途絶えた。

 暗闇の向こう、冷たい雨が運んできたのは朧げな記憶。大きな手を握り締め、知らない背中を見送る少年の姿。隣に立つ母親は、寂しそうな表情で笑っていた。

「ほら、ギル。あなたも手を振って」

 促され、意味も分からずに真似をする。背中が暖かな光に呑まれれば、開け放たれていた扉が閉ざされる。急速に景色は遠ざかり、乾いた咳を聞き捉えて振り返った。すっかり痩せた姿で寝台に横たわる母親を、少年は見守ることしかできなかった。

「ギル、お父さんのところに行きなさい。きっとあなたのこと、守ってくれるわ」

 ──元気でね。

 落ちた手のひらを握り締め、少年は生まれ育った家を出た。外は──プラムゾという世界はあまりに広大で、一人で歩くことに恐怖さえ感じたものだ。それでも母の言葉に従って、顔も覚えていない父親の元へ向かった。

「ギルバートか?」

 父は成長した少年を見て、すぐにそれが息子であると分かった。暫くは呼び方も言葉遣いもぎこちなく、母との思い出話を聞いても話しても、他人同然の男を父親として認識することに時間が掛かった。

 しかし……母の言葉は正しかったと、少年は思う。

 己の未熟さを、弱さを叩きつけられた少年は、温かい涙で夢から引き戻された。

「──ギル!!」

 視界に映ったのは、泣きじゃくる少女だった。



 ◇◇◇



 閉め切っていた窓を押し上げれば、冷たく涼やかな空気が流れ込んだ。淡い水色の空を見上げ、両手を大きく広げたマオは息を吸い込む。彼女の足元では、仔猫がそれに併せて欠伸をした。

 ロザリーから貰った服はちょうど良い大きさだった。膝上のスカートを穿くのは気が引けたが、ズボンを着用することで心許なさは薄れた。長袖のブラウスの上にベストを被り、ロングブーツを合わせると、彼女にしては活動的な服装が完成した。

「ノット、おはよう。起きたんだね」
「みゃ」

 窓枠に飛び乗った仔猫を撫でながら、マオは宿屋の下を覗き込む。昨日の雨を引き摺ることなく、適度に晴れたドリカの町はまだ静寂に包まれていた。建ち並ぶ家屋は赤や青、緑に黄、原色で塗られた屋根が特徴的で、周囲の紅葉とよく馴染んでいる。湿った石畳は日光できらきらと輝いており、マオは微かな眩しさに目を細めた。

「……そうだ。今日はフェルグスさんに事情を話さないと。どこにいるのかな」
「団長なら西の公園にいると思いますよ」
「! ロザリーさん、おはようございます」

 独り言に応じたのは、今しがた起床したロザリーだった。彼女は髪を梳きながら、眠そうに欠伸をかます。

「……あっ、ごめんなさい。勝手に窓開けて」
「いえいえ……湿気がありますので構いません。団長の元まで一緒に行きましょうか?」

 まだ寝足りなさそうなロザリーを凝視すること数秒、マオは控えめに首を横に振った。

「公園って、噴水があるところですよね」
「ええ、まあ……」
「お散歩がてら一人で行ってみます。ロザリーさん、ゆっくり準備してください」
「みー」

 床に飛び降りてきた仔猫を見詰め、ロザリーは「そうですか」と納得する。

「優秀な護衛もいるようですし、大丈夫そうですね。ただ、何かあったら大声を出すのですよ。ドッシュ辺りが飛んでいきますから」
「はい」

 その光景が容易に想像できたので、マオは笑いながら頷いたのだった。

 念のため外套を羽織り、フードの中に仔猫を忍ばせたマオは、宿屋の外へと向かう。公園がある方へ歩き出せば、濡れた石畳が朝日を反射し、まるで海面のように白く輝く。木々に囲まれた通りを進んでいくと、右手に開けた空間が見えてきた。ぽつぽつと敷かれた石畳の向こう、広場のちょうど中心あたりに噴水がある。光が紅葉を透かせ、公園全体がほんのりと色づく様に見とれていたマオは、不意に何かが擦れる音を聞き取った。

 見れば、公園の奥で二つの人影が動いている。手に持った剣が交わったかと思えばすぐに離れ、一方が素早く攻撃を繰り出す。どれも鋭く速い一撃であるにも関わらず、受け手はそれら全てを丁寧に防いでいく。一切の隙が見られない防御に、攻撃の手が瞬間的に緩んだ。攻守交代と言わんばかりに、防御に徹していた剣が勢いよく振り払われる。突然の反撃に耐え切れず両腕が浮けば、生まれた隙を咎めるように眼前へ切っ先を突き付けられた。剣は鼻に触れる寸前で止まったものの、彼──ギルは思わず後ろへと尻餅をついたのだった。

「ッ!」
「……む」

 草むらに仰向けになったギルを見下ろし、フェルグスはふと公園の入り口を振り返る。ばっちり目が合ってしまったマオは、そこでようやく二人が剣の稽古をしていのだと知る。初めは喧嘩かと思って冷や冷やしてしまったが、冷静に考えてあの親子が剣を握るほどの怒りに支配されるようなことはないだろう。

 そこまで思考を進めたところで、マオがおずおずと会釈をすれば、フェルグスは剣を納めてこちらへ歩いてきた。

「あ、お、おはようございます」
「早いな。何か用事か?」
「えっと……依頼のこと、まだ詳しく話してなかったと思って。……でも、後にした方がいいですか?」

 ちらりとギルを見遣って尋ねると、フェルグスは「いや」と首を振る。

「なかなか休憩を取れずに困っていたところだ。……少し、あれと話してやってくれないか? 昨日からどうにも落ち着きがなくてな」
「ギルと……?」
「ああ。依頼の件はその後で。頼めるか?」

 マオがこくこくと頷けば、彼はそれまでの真面目な表情から一転、片手で口許を覆って欠伸をかました。もしや、徹夜で稽古に付き合っていたのだろうか。よく見るとフェルグスの目の下にはうっすらとクマが浮かんでおり、マオの予想を簡単に裏付けてしまった。

「……失礼、少し仮眠をしてくる」
「は、はい。おやすみなさい」

 フェルグスは「歳だな」と小さくぼやきながら、公園の入り口にある長椅子に腰を下ろす。そして数秒と経たぬうちに寝息を立て始めた。親子の血のようなものを感じ取ったマオは苦笑をこぼしつつ、静かにギルの元へと向かう。草むらに寝転がっている彼は、ぼんやりと空を眺めていた。

「ギル」

 紫の瞳が、つと横に移動する。下ろしたままの長い栗毛をじっと見つめてから、彼は「あ」と声を漏らした。

「何だ、マオか」
「? うん、おはよう」

 妙な間に首を傾げつつ、マオは彼の傍に腰を下ろした。そして再び沈黙が落ちる。フェルグスから会話をしてほしいと頼まれたものの、何を話せばよいのだろうか。穏やかな風のおかげか、はたまた早朝のせいで眠いのか、マオは切り出し方が分からず密かに唸る。二人して滑るように流れていく雲を眺めていると、やがてギルが上体を起こした。

「昨日、悪かったな」
「えっ」

 マオは唐突な謝罪に驚き、隣の彼に視線を移す。ギルは後頭部を掻きつつ、どこか罰の悪そうな顔で続けた。

「……ちゃんと守ってやれなかったから。親父と副長が来なかったら、あのまま死んでただろ」
「ギル……でも、あれは」

 自分が転んだせいだとマオが告げようとすれば、それを遮ってギルは首を振る。

「マオが転んだのは仕方ない。昨日だけじゃなくて、よく躓いてたし」

 幼い頃からいろんなところで転んでいるマオは、ぐうの音も出ずに黙り込む。些か恥ずかしい気持ちで縮こまると、ギルが傍らに落ちていた剣を持ち上げた。

「俺が今まで、剣の稽古を真面目にやらなかったツケだ。昨日、あの双子に叩きのめされて、マオが泣いてるのを見て、目が覚めた」
「!」
「いまいち分かってなかったんだ。自衛の為なら逃げるだけで足りるのに、何で剣を使う必要があるんだって。……何も分かってなかった」

 向けられた紫の瞳に、落ち着いた光が湛えられる。平素よりも幾分か研ぎ澄まされた光は、彼の父を思わず重ねてしまう。元から顔や雰囲気は似ていたが、そういうものとはまた異なる──。

「剣を使えば命を守れる。傍にいる誰かを守ることもできる。俺はずっと守られてばかりで、そのことに気付けなくて……マオを守れなかった」

 剣を握る手は、微かに震えていた。マオは殆ど反射的にその手を掴むと、少しだけ驚いた彼が顔を上げるより先に、もう片方の腕を差し出して見せた。

「……?」
「私、足以外は怪我しなかったんだよ。ギルがあの人たちを引き付けてくれたから、他に痛いところなんて無かったの」

 身を乗り出して告げれば、その分だけ仰け反ったギルが何度か頷く。続いて彼の手を両手で握り直したマオは、意気込んだ表情で告げた。

「今の話を聞いた後だから、もう危険なことしないで、なんて勝手なこと言えないけど……私は、ギルが一緒に逃げようって言ってくれたこととか、守ろうとしてくれたことだけで嬉しかったし、心強かった」

 それで、と彼女は難しい顔をする。いくつかの小鳥の囀りを挟んでから、マオはゆっくりと表情をほぐし、穏やかな笑顔を浮かべた。

「ありがとう。私も、転ばないように気を付けるから。だから……昨日のことで、そんなに自分を責めないで欲しいな」

 昨晩、アドリエンヌと話して気付いたのだ。過去のことをあれこれ後悔していては、次に出来ることを見失ってしまう。表情や口調こそ変わらずとも、ギルが昨日の一件で少なからず落ち込んでいることは確かだろう。ゆえにマオは自身を省みつつ、彼に対して前向きな言葉を掛けたのだ。

「だってほら、私こんなに元気なんだよ? ギルのおかげでしょっ?」

 すっくと立ち上がり、マオは両手を広げて見せる。が、急に動いたせいで、背中から仔猫の潰れたような声が上がった。

「みぅッ」
「あっ!? ノットごめんっわわ」

 背中を見ようとしたマオは足を縺れさせ、再びその場に尻餅をつく。何とも格好の付かない、一連の残念な行動を見ていたギルは、そこでようやく表情を変化させた。微かな笑いと共に立ち上がっては、腰を摩るマオに手を差し出す。

「ご、ごめん……もう転んじゃった……」
「今のは無しで良いだろ」

 苦笑交じりに答えた彼は、そのままマオの手を引っ張り上げた。全快とは言い切れないが、彼の纏う雰囲気は柔らかいものになっていた。先程までの重苦しい空気は、朝の爽やかな風に乗って消え去ったように思う。マオが安堵の笑みを零せば、ギルは大きく息を吐いて空を仰いだ。

「親父に何か言われたか?」
「え? えっと……昨日から落ち着きがないからギルと話してあげて、って」
「あー……そうか。なるほどな」

 二人は同時に公園の入り口を振り返る。長椅子で眠りこけているフェルグスを見てから、マオはおもむろにギルの手を引っ張った。

「ギル、朝ごはん食べよ!」
「え?」
「フェルグスさんとずっと剣の稽古してたんでしょ? 一緒に朝ごはん食べて、その後ちょっと寝た方が良いと思う!」
「いや、けど」
「けどじゃないの!」

 びしっと人差し指を立てたマオは、「自分は怒っているんだぞ」と言わんばかりに眉を寄せてみる。しかしギルにはあまり伝わらなかったようなので、そそくさと表情を崩してマオは大股に歩きだした。

「夜にしっかり寝てないと、昼間に眠くなるし体調も悪くなるんだよ。ホーネルさんみたいになっちゃうわ」
「ホーネル?」
「私と一緒に暮らしてる人。夜更かしするから毎日寝坊なの。ほらっ、フェルグスさん起こしに行こ」

 ただでさえ昨日の一件で、彼は万全の体調とは言えないのだ。にも関わらず十分な睡眠を取っていないことに、マオは少しばかりの呆れを露わにする。フェルグスを起こして宿屋に戻ったら、とりあえず朝食を取らせて、落ち着いたところで依頼の話をしよう。それまでに話す内容をまとめて……とマオがこれからやることをまとめていると。

「マオ」
「ん?」
「話したらすっきりした。ありがとう」

 マオは目を丸くして振り返る。思わず足を止めて凝視してしまい、居心地が悪そうに彼の視線が逸らされた。

「……何だよ」
「ううん、私、ギルにずっと助けてもらってたから。何かその……えへへ、どういたしまして」

 単純にも嬉しくなって破顔したマオは、上機嫌に歩みを再開した。その際、握った手は分かりやすく振って。

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