プラムゾの架け橋

第四章

 35.





「──今、誰を向かわせたと?」

 冷ややかな眼差しを向けられ、エクトルは苦々しく笑う。普段は温厚なくせに、こうして言葉を交わすときはいつも不機嫌さを露わにするのだ。まだまだ子どもだと侮る一方で、あまりからかうと面倒ということも分かっている。ゆえにエクトルは両手を挙げて、目の前の青年を宥めた。

「いや悪い。そういえばあの双子、元は札付きだったな?」
「今もなお指名手配犯だ。ここ最近は噂を聞かないと思っていたら、貴殿が匿っていたとはな」
「そう怒るなよ、公爵様。悪かったって、まずあんたに伺いを立てるべきだった」

 何とも誠意の感じられない謝罪に、青年──ハイデリヒの眉間に皺が刻まれる。

 橋脚第二層ロンダムの領事館の一室には、穏やかと言えない空気が張り詰めていた。ここを治めている領主はあまりの空気の悪さに慄き、公爵家の人間に媚を売ることも出来ずにさっさと退室した。定期的に紅茶を淹れに来るメイドは毎回変わっており、そのたびに二人の来賓を見詰めては恍惚としていく。無論、その熱い視線に応じるのはエクトルのみである。

「はあ……貴殿の下には無害な人間はいないのか? まさか今まで請け負った依頼も、全てあのような物騒な連中に任せていたとでも?」
「今は残念ながら、その無害な人間の手が空いてなくてね。暇そうな奴を呼んだ次第だ」
「もしもその部下がマオを見付けたとして、彼女に怪我でもさせていたら、依頼撤回どころか貴殿の商売を徹底的に洗うぞ」
「おおっと……それは勘弁していただきたい。貴族の方々が困るんでね」

 ハイデリヒは頬を微かに引き攣らせた。エクトルの顧客は非情に幅広く、貴族の中にも密かに彼と取引をしている者は少なくない。把握している範囲では、人身売買などは日常茶飯事。特に“術師”から摘出されるミグスの販売は本来禁止されているはずだが、既に百年ほど黙認されてしまっている。ハイデリヒがこれらの不祥事を糾弾したところで、貴族はこぞって知らぬ存ぜぬを貫き通すだろう。いや、それどころか──ハイデリヒの立場が返って危ぶまれることも考えられる。

「物憂げな表情も麗しいことで」

 この男は他人を苛つかせる天才ではなかろうかと、ハイデリヒはからかう言葉に溜息をつき、ソファから立ち上がった。

「捜索に関して、ホーネル殿に請求などしていないだろうな」
「ああ勿論。何せ小娘の捜索は公爵様のご依頼だからな」
「ならいい」
「ああ、そういや」

 わざとらしい言葉が、退室しようとした青年を引き留める。エクトルは焦らすかのように紅茶を飲み干し、不敵な笑みを浮かべて告げた。

「セレスティナ嬢は見付かったか?」
「……」
「伯爵家は血眼になって捜してるらしいじゃねぇか。それに対してあんたは……」

 ハイデリヒはその言葉を最後まで聞くことなく、扉を乱暴に開けて部屋を出て行った。大股な足音が完全に消える頃、エクトルは窓の外を見遣る。いつもと変わらぬ藍色の天井を一瞥しては、笑い交じりに呟いた。

「……友情か。泣かせるねぇ」

 

 ▽▽▽



 厚い雲が折り重なる空、隙間から射し込む日差しに雨が輝く。すっきりとしない天気の下、鮮やかな朱色が遠くへと伸びる。山や谷が多く、どこを見ても似たような景色が連なる第三層において、赤い葉は単なる彩りを添えるだけでなく目印としても機能する。大瀑布の手前に広がる湿原や、中央階段の参道へ向かう道のりには一際大きな紅葉の木があり、観光者はそれらを道標に歩くことが可能だ。

 第三層へ上がるや否や、物騒な双子から襲撃を受けたマオとギル。そこまでひどい怪我は負わなかったものの、フェルグスは二日ほどドリカの町で休息を取るように告げた。マオに関しては足の痛みもすぐに取れたのだが、意識を失うほどの蹴りを頭に食らったギルは別である。幸い町には医者がいたので、アドリエンヌは渋るギルを引き摺っていったのだった。

 宿屋の部屋にて、マオは泥まみれになった黄色のスカートを見下ろす。改めて見ると酷い有様だ。水汲み場を借りて洗うか、それとも町で新しい服を買うか……と彼女が唸っていると、同室のロザリーがぬっと背後から忍び寄る。

「ふむ。悲惨ですね、生地も解れています」
「わっ、ロザリーさん」
「三層は肌寒いですし、いっそのこと一式揃えてしまった方が良いかもしれませんね」

 マオの半袖のブラウスを摘まみ、ロザリーは少しの間を置いて頷いた。

「その格好で歩き回るのも嫌でしょう。暫しお待ちを」
「え?」

 そのまま引き留める間もなく彼女は部屋を出て行ってしまい、マオは部屋にひとり取り残される。確かに汚れた格好で人前に出ることは憚られるので、取り敢えず大人しく部屋で待っていることにした。

「……ギル、大丈夫かな。足元ふらふらしてた」
「みー」

 外套を脱ぐのに併せ、フードから仔猫が飛び出す。ぽたぽたと滴る水を避けつつ、ノットは窓辺に飛び移った。鈴の音と共に丸くなった黒い毛並みを見詰め、マオはぐしゃぐしゃになった髪の毛を慎重にほどいていく。

「ノット、ありがとうね。ハルヴァンさんから聞いたよ、ノットが“階段”まで連れて行ってくれたって」

 落石の後、慌てたハルヴァンはどうにかして岩を退け、ドリカの町で助けを呼ぶことしか考えられなかったという。しかし仔猫から執拗に呼ばれ、向かう先が“階段”のコルスタの門だと気付いた彼は、先にフェルグスと合流して状況を伝えようと思い至ったらしい。結果、ちょうど“階段”を抜けたフェルグスたちと合流することに成功し、団長がアドリエンヌと共に急いでこちらへ駆け付けてくれたということだ。……さすがに崖を飛び降りるとは思わなかった、とアドリエンヌは苦笑していたが。

「賢いお友達だねって褒めてたよ」
「みゃ」

 つい先ほど、ハルヴァンは団長から無事にお守りを受け取り、一足先にドリカの町を発った。その際に“階段”について興味深い話をありがとう、とマオは密かにお礼をされていた。寧ろ、いろいろと知識を分け与えてもらったのはマオの方だったので、彼女はすかさず感謝の言葉を返したのだった。

 背中ほどまである髪を手で梳きながら、マオは木椅子に腰を下ろす。テーブルに置いた鞄を開ければ、少量の雨や泥が浸入していた。携帯食や作業着が汚れていないかを確認していると、すっかり忘れていた硬い感触に指が引っかかる。濡れてしまった包みごと取り出し、そっと結び目を解く。現れたのは錆び付いた腕輪。黒くざらついた表面を撫で、マオは小さくため息をついた。

「……ホーネルさん、元気かな……」

 マオの掠れた呟きを聞き取ったのか、窓辺にいた仔猫が顔を上げる。身軽な動きでテーブルに飛び移っては、マオの手に頭を押し付けた。しばらく小さな頭を撫でていた彼女は、やがて仔猫を両手で抱き締める。

「駄目だね、私の方が元気ないや」
「みぃ」
「ギルが怪我しちゃったから……。……ロンダムで、ミカエルさま……だったっけ? あの人に見付かった時も、私が振り返らなかったら、もっと安全に町を抜けられたのにな……とか」
「みゃー」
「何だか悪い方向に、いろいろ考えちゃうの。雨だからかな?」 

 仔猫の肉球が鼻先を叩く。咎めるような仕草に笑ってみたものの、マオの罪悪感は完全には拭えなかった。

「……でも……うん。ギルにずーっと謝ってても怪我は治らないし……」
「そうね。それにあの子、湿っぽい雰囲気は苦手よ?」
「やっぱり、へっ!?」

 ぎょっとして振り返ると、部屋の入口にアドリエンヌが立っていた。彼女はにこりと笑うと、扉を数回ノックして見せる。

「ごめんなさいね。扉、開いてたものだから。つい盗み聞きしちゃったわ」
「あ、いや、そんな……すみません、閉め忘れてました……」
「気を付けてね」

 くすくすと笑いながら、アドリエンヌは扉を後ろ手に閉めた。と同時にマオは荷物をテーブル上に散らしていたことを思い出し、慌ててそれらを鞄に突っ込む。片付けた頃にアドリエンヌが隣の椅子に腰を下ろしたので、マオはちらりと彼女を窺う。窓の外を眺める横顔は、じめじめとした雨天であっても涼しげだった。

「ギルなら大丈夫よ。もう足取りもしっかりしていたし」
「! そうですか、良かった……」
「……それにあの子にしてみれば、いい機会だったんじゃないかしら」
「え?」

 アドリエンヌは苦笑を零すと、おもむろに自身の手の平を見詰める。籠手を外した素肌には、豆や痣がうっすらと残っていた。長らく武器を握っているおかげで、痕は少しばかり黒ずんでしまっている。

「ギルはまだ傭兵としての経験は浅いのよ。依頼をこなしていくうちに、プラムゾを一人で歩くことは出来るようになったけど……剣はどこか苦手意識があるみたいで」
「そう……なんですか? なんか意外……」
「ふふ、団長の息子だもの、素質は十分にあるとは思うわ」

 副長曰く──というより、彼女がフェルグスから聞いた話では、ギルはどうにも剣を振ることに意味を感じ得ないらしい。賊に襲われても極力傷付けず、剣を鞘から抜かないこともしばしばあるという。確かにロンダムでも剣を抜いていなかったことを思い出し、マオは小さく頷いた。

「団長は、身を守るためにも剣を抜けと言っているそうなんだけどね。……まあ、あの子をそうさせたのは私達が原因でもあると思うのよ」

 ギルが傭兵団に入った頃、彼はまだ剣術など一切学んでいない状態だった。それまでは母親と二人で暮らしていたため当然のことである。自衛のためにとフェルグスが剣を教えることになったものの、板につくまでは自然と皆が彼のことを守っていたという。それが少々過保護だったのかもしれないと、副長は申し訳なさそうに語った。

「何て言えば良いのかしら。あの子にとって、ここは自分よりも強い存在しかいない空間で……意識はしていなかったかもしれないけど、ずっと守られる側だったの」

 その言葉に、マオはハッとする。彼女自身、ホーネルやオングと平和に暮らしていたが、それは彼らが様々な危険から守ってくれていたおかげだ。上層に来て何度も危機に瀕したマオは、改めてそのことを実感したのは勿論、自身がどれだけ非力なのかを痛いほどに感じさせられた。そして今日、あの双子と対峙したギルも、そういった心境になったのではなかろうか。

「……あの子、やる気が出れば即行動するし、今日の夜にでも団長のところに行くんじゃないかしら」
「フェルグスさんのところに?」
「ええ。剣の稽古をつけてくれって。自分が守られる側から守る側になったこと、きっともう理解してるわ」

 アドリエンヌはそう言いつつ、マオに微笑みかける。少しの間を置いてから、彼女はその意味を理解して──思わず椅子から立ち上がった。

「わ、私は何ができると思いますかっ?」
「え?」
「こんなこと、アドリエンヌさんに聞くことじゃないと思うんですけどっ……私、いろんな人たちに助けられてばかりで……なのに何も返せなくて」

 ホーネルやオングは勿論、ハイデリヒやヒャルマン、サイラムやギル……ここに来るまでに、マオは様々な人に助けられてきた。今は自分の身の安全を確保するべきだということは分かっているが、彼らには必ず何かしらの礼をしなければならない。気持ちに余裕が生まれたときは、自分にどんなことが出来るかを模索してみるのだが──如何せん、難しい。

「武器は握ったこともないし、お金も稼いでないし……何をすれば助けてくれたお返しになるのか、分からないんです……」

 思えば、マオは「自分にできること」が欲しくて上層に憧れていた。飛び抜けた才能も、特別に恵まれた体も持たない自分でも、何か成し遂げられることはないかと。それを確かめるべく、視野を広げるという意味でも橋脚を上りたかった。しかしそんなマオを待ち受けていたのは、「何もできない」という高い壁だった。屋敷の中からずっと眺めていたプラムゾの壁のように、途方もなく大きな壁だったのだ。


「──……ギルが怪我したとき、初めて後悔したんです。プラムゾに入らなければ良かったって」


 リンバール城で拉致されたことは怖かった。けれどそのような後悔はしなかった。理由はひとえに、被害を受けたのが自分自身であり、それほど大きな危険を感じずにいたから。無論、それもサイラムやノインが助けてくれたおかげなのだが、マオは今一つ実感できていなかったようだ。「他人から力を借りる」ということの意味を理解しないまま、ギルが目の前で怪我を負ったことによって、彼女の罪悪感は急速に肥大化してしまった。

「人に迷惑ばっかり掛けて、何も返せなくて、挙句の果てに怪我までさせて! どこに行っても、私はこんな感じなのかなって、悔しくて……!」

 己の中に潜んでいた鬱屈とした気持ちを吐き出し、マオは感情を昂らせたまま涙を溢れさせた。するとテーブルで丸くなっていた仔猫が、幼子のように泣く彼女の肩に飛び移る。とめどなく頬を流れる涙に、さすがの仔猫も少しばかり戸惑っているようだった。

「……マオ」

 彼女の言葉を最後まで静かに聞いていたアドリエンヌが、嗚咽に震える肩をそっと撫でる。優しく宥めながらマオを椅子に座らせると、手はそのままに語りかけた。

「あなたは初めて橋脚に入って、危険な目に何度も遭って……きっと、いろいろと気持ちが追い付いていないのよ。それに、改めて思ったのだけど……」

 マオの顔に掛かる栗毛を除け、アドリエンヌは片手で頬を包む。珊瑚珠色の瞳を真っ直ぐに見詰めては、美しく微笑んでみせた。

「マオはまだ、自分のことも周りのこともよく知らないだけ。なまじ周りの良いところを見付けるのが上手なせいで、自分は悪いところだらけだって思い込んでしまうのよ。それどころか、今できることさえも見失ってるのかもしれないわね」

 だから、と副長は一呼吸置いてから、ゆっくりと言い聞かせる。

「落ち着いて自分を見詰め直したら、探していきましょう? あなたにしか出来ないことがきっと見付かるはずよ。まずは……そうね、この前話した砦の片付けとか、小さなことから始めていけば良いわ」

 ひとつひとつの言葉はどこまでも優しく、マオの心に滲んで、染み込んでいくようだった。どれだけ拭っても意味を為さなかった涙は、ようやく収まりかけてきた。何度か頷きながら話を飲み込み、マオは肩でそわそわしていた仔猫を抱き締める。

「……今日はゆっくり休んで。明日なら団長と詳しい話もできるだろうから」
「おっと、それは困ります副長」

 マオとアドリエンヌの間に、ずいっと割り込んできたのはロザリーだった。いつからいたのだろう、とマオが驚いたのも一瞬のことで、ロザリーは抱えていた衣類を漁りながら口を開いた。

「ちょうどこの宿屋で服も売っていたので、見繕ってきましたよ。しかし副長は相談に乗るのが上手いですね、さすが人生経験が豊富……」
「一言多くないかしらロザリー」
「これは失礼。ギルの性格が移ってしまいまして」

 しれっと責任転嫁したロザリーは、悪びれる様子もなくマオに向き直る。厚手のベストや短めのスカート、ロングブーツなどを合わせていき、大きさに問題がないことを確認しては無言で頷いた。

「ふむ。私とそれほど変わりませんね、助かりました。これ、差し上げますね」
「……え!? い、いいんですか?」
「ええ。その代わりと言っては何ですが……」

 ロザリーはぺたりとマオの頬を挟み、とても真剣な眼差しで頼みごとを告げる。

「保湿剤、何を使っているか教えていただいても?」
「へ……」
「前から思っていたんですよ、就寝前に時折思い出したかのように肌に何か塗っていますよね。この餅肌の秘訣なのでしょう」
「ああ、確かに。私も気になってた」
「え、え」

 先程までの重苦しい雰囲気はどこへやら、アドリエンヌまでもが話に食い付いてきた。マオが就寝前にたまに塗っているものというのは、花屋のマリーから貰った保湿剤だ。良い香りがするので、保湿というよりは気分を落ち着けるために使用していた。勿論あのマリーが作ったものなので、保湿に関しても抜群の効果を発揮する。

「あ……えっと、あれは花屋さんから頂いたもので……まだいっぱい余ってるから、使いますか?」
「ありがとう、服を買った甲斐がありました。さあ、泥だらけの服も不快でしょう、着替えてくださいね」
「ロザリー、あなた清々しいほどに現金ね……」
「マオにはきちんとお礼を指定した方が良いなと思った次第ですよ」

 その言葉に、マオは目を丸くする。どうやら今のやり取りは、先程の話を聞いていたロザリーの気遣いだったようだ。それを知ると同時に、マオは大事なことにも気が付いた。

 彼女は今まで「助けてくれたことに見合うお礼を」と考えていた。しかしながら、それはマオの我儘にも似た思い込みだったのだ。お礼はマオがしたいことをするのではなく、相手が必要としていることを考えなければならない。保湿剤を教えてほしい、なんて些細なことでも、それはお礼と成りうるのだ。

「……そっか」

 ──小さなことから。一度に全部じゃなくてもいい。少しずつ返していこう。助けてくれた人たちのことをよく知って、彼らが求めるものを考えていこう。それまでは……。

「あのっ」

 振り向いたアドリエンヌとロザリーを見上げ、マオは笑顔を浮かべた。

「お二人とも、ありがとうございます。……元気になれました」


 ──それまでは、感謝の気持ちを伝えよう。それが今、自分にできることなのだから。


 

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