プラムゾの架け橋

第四章

 33.




 プラムゾの橋脚第三層。二層までの晴れやかな景色とは一転、視界を埋め尽くす険しい崖と湿地帯が特徴的である。更に気候の変動が激しく、からりとした青空が広がっていても数分後には雷雨に見舞われることが多い。この階層で晴天を長く見続けられることは、非常に珍しいと捉えて間違いはないだろう。

 そのような気まぐれな天候にも関わらず、第三層は観光に来る者が後を絶たない。理由はひとえに、薄暗い景色を華やかに彩る、紅く染まった木々を見るためだ。三層の出入り口であるドリカの町付近で幽玄の景色を拝むことが可能だが、これはどこでも見られるものではないという。

「ドリカから更に南下していくと、緑色の木が増えていくよ。あの紅い葉をつける木は、どうやら“階段”や“歪み”付近に生じているらしくてね」

 町へ向かう朱色の途上で、ハルヴァンは優しい口調で語った。マオがコルスタの門方面を振り返る傍ら、初耳だと言わんばかりにギルが口を開く。

「そうなのか? まばらに生えてるなとは思ってたが」
「例外もあるけど、密集している場所は大体そうみたいだよ」

 どの層にも他と異なる景色というものがあり、二層ならば幻夢の庭や歪んだ樹海、三層ならば紅葉の景色が当て嵌まる。ちなみにハルヴァン曰く、第一層で花が多く咲くのも“階段”が影響しているのではないか、との説があるという。プラムゾのあらゆる不思議な景色が“階段”に起因すると聞き、マオは納得する一方で驚きを覚えた。

「そうなんだ……ハルヴァンさん、とても物知りですね」
「一応、これでも学者をやっていたからね。自分で“階段”関連の調査もしていたよ」
「学者さんっ? 凄い!」

 マオは尊敬の眼差しを向けたが、彼は気恥ずかしそうにしながら苦笑を零す。

「ありがとう、と言っても端くれだよ。できれば王城でも研究職に就きたかったが……残念ながら席が空いていなくてね」
「狭き門、ってわけか」
「そういうこと。優秀な学者なんてごまんといるからね」

 残念そうに笑ったハルヴァンを見上げ、マオは少々躊躇ったものの、「あの」と控えめに呼びかける。学者と話せる機会なんて滅多にないのだ。自分が経験した不思議な出来事の真相を確かめたいという思いに突き動かされ、彼女はなるべく言葉を選びつつ質問してみた。

「“階段”で迷子になる人って実際にいるんですか?」
「迷子? 俺は聞いたことがないなぁ。けど、確か……」

 ハルヴァンは視線を宙に飛ばし、自身の記憶を遡っているようだった。やがて閃いた様子で顎から手を放し、マオを振り返る。そのついでに彼女の頭に乗っていた紅葉を、手でそっと除けてくれた。

「他の学者から聞いた話なんだけどね。“階段”は設定した目的地とは別に、異なる道が形成される可能性があるんだ」
「! え……」
「でも限りなく確率は低い。そういう可能性があるんじゃないか、って話さ」

 その学者は、昔から伝わる「“階段”の中には魔物が棲んでいる」という言葉から、そのような説を提唱したらしい。“階段”内で迷子になるような人間は、架空の生物である魔物に足を引き摺り込まれるほど非常に運が悪く哀れである──つまり迷子になる者などいない、という意味合いで捉えられてきた。しかしながら、学者はそれこそが思い込みなのだと鼻息を荒くして語った。

「その人間は、実際に魔物が棲んでいると誤認するような、信じられない出来事を“階段”で体験したのではないか……とね」
「誤認? どちらにせよ魔物はいないってことでいいのか?」
「鋭いね、そこは微妙なところだと彼は言っていたよ。何せその言葉が伝わっているなら、その人間は無事に生還したということだからね。危険な目には遭っていないんじゃないかって」

 魔物と聞いて、マオとギルが思い浮かべたものは同じだった。つい先ほど、“階段”の中でこちらを窺っていた正体不明の──マオとそっくりな人影。今の話を聞いていると、あれこそが魔物なのではないかと疑ってしまうのも無理はなかった。

「彼は“階段”を、外にある道と同様のものと考えているんだ」

 やはり根っからの学者肌なのか、段々と饒舌になってきたハルヴァンは、紅葉が降り積もる道を指差す。そこには人や小動物の足跡が無数に残され、しっかりと土が踏み固められていた。

「人が多く通れば通るほど、“階段”の道も踏み固められていく。つまり人が通りやすくなるんだ。ほら、層を行き来する時はみんな同じくらいの時間が掛かるだろう? 白い霧で前は見えなくとも、恐らくみんなが同じ道を歩いていると考えていい」
「えっと……みんなが通ることで道が整備されて、自然と行き来が多くなる……って感じですか?」
「そうそう! いい表現をするね」

 マオが褒められてほっこりしたのも束の間、ハルヴァンは難しげな顔をして唸る。

「けど問題はその白い霧でね。踏み固められた道から枝分かれした別の道を捜すには、白い霧が晴れないと難しくて」
「……あんた自ら迷子になろうとしたんだな」
「え? ははは、いやその、彼の話を聞いていたら、つい気になってしまって」

 好奇心に勝てず、下手をすれば無計画な冒険家よりも危険な行為に走るのが、どうやら学者というものらしい。マオとギルから少しばかり心配そうな視線を受け、ハルヴァンは申し訳ないと言わんばかりに後頭部を掻いた。

「とにかく“階段”で迷子になる可能性は、全くのゼロではないと考えているよ。まあ今のところ、そんな話は……」
「……あの、ハルヴァンさん。実は私、“階段”で何度か迷子になったみたいなんです」
「ええッ!? 本当かい!?」

 この無邪気な学者にならば、迷子になったことを話しても大丈夫だろうとマオは考えた。「人前で言うな」と傷跡の青年から忠告されたのは、恐らく朽ちた遺跡の話だろう。そこは伏せつつ、詳細を聞きたくて堪らないといった表情のハルヴァンに、今までのことを掻い摘んで話してみた。

「第一層の“階段”に入った直後、一緒にいた人たちとはぐれたんです」
「ちょ、直後……? 暫く進んでからではなく?」
「はい……そしたら私だけ、みんなよりも早く第二層に到着してました」

 ハルヴァンの傍らで、この話を詳しく聞いていなかったギルも目を丸くしていた。つい先ほど彼も同じ目に遭わせてしまったので、マオの“階段”の通り方がどれほど妙であるかは分かったことだろう。

「うーん……徴兵されたことをこんなに悔やんだ日はないな……マオ、君は今まで“階段”を何回使った?」
「えっと、まだ二回だけです」
「つまり初めて“階段”を使って、いきなり迷子になったということか」

 マオが頷けば、ハルヴァンは黙り込んでしまった。ちらりと様子を窺うと、彼は口元を覆って何やらぶつぶつと独り言を漏らしている。

「使用回数に関係があるのか……しかも迷子になったにも関わらず、通過時間は通常よりも短い……いや、そもそも」
「……ハルヴァンさん?」
「ああ、すまないね。マオ、それはもしかしたら迷子ではないかもしれない」
「えっ?」
「君は大昔からずっと使われてきた道ではなく、誰も通っていない近道を選んでいた、というのはどうだろう」

 確かにマオは“階段”に入ると同行者から切り離されてしまうが、そこで長時間さまよっていたわけではない。寧ろ誰よりも早く“階段”を抜けたため、近道を通ったという表現はしっくり来た。

「近道……」
「情報が少ないから断定はできないけどね。一人になったとき、何か異変はなかったのかい?」

 マオは話しても大丈夫そうなことはないかと、遺跡以外の景色を思い返す。白い霧、消えゆく星空、そして──。


「……赤い、光が……」


 鮮やかな暁光。ギルと一緒に“階段”を通ったときは見えなかったが、あの光は何度かマオを導いてくれた。そう、仔猫があの光に向かって走ったから、無我夢中でそれを追いかけたのだ。

「ノットが、この子が赤い光に向かうんです。そうしたら、いつも外に出られるんです」
「光……?」

 フードの中に両手を突っ込むと、温かい毛並みに触れた。仔猫は長話を子守歌代わりに、すやすやと眠っていた。そうっと取り出して抱き締めると、ハルヴァンが興味津々といった様子で仔猫を見つめる。

「……そういえば、動物が“階段”を使用する、という話は聞いたことがないな。単純に調べた試しが無いだけだろうが……もしかしたらこの猫も、マオの体験に少なからず関係していたりするかもね」
「ノットが、ですか?」

 不思議なことに、それは今まで考えたことがなかった。仔猫はマオが迷子になったときや不安になったとき、いつも助けてくれる存在だったからだ。腕に抱いた仔猫を見下ろし、小さな鼻を人差し指で擽る。瞬時に覚醒した仔猫は小さくくしゃみをして、前脚でマオの指を払いのけた。

「……ノットには何も聞けないしなあ……」
「はは、今のは憶測に過ぎないから、気にしないでいいよ」

 そこで会話が途切れ、マオはふと顔を上げる。朱色の勾配を下った先に、大きな風車が頭を覗かせていた。そろそろドリカの町が近いのだろうかと、彼女が風車を指差そうとしたときだった。

「! マオ、伏せろ!」
「え? わあ!?」

 突然ギルに背を押され、二人してぬかるんだ道に転がる。直後、後ろから大きな音と揺れが生じ、マオは驚いて振り返った。そこには崖の上から落ちてきたであろう巨石が、ちょうど道を塞いでしまっていたのだ。

「だ、大丈夫かい、二人とも!?」

 その向こうからハルヴァンの慌てた声が聞こえてきたので、マオは一先ず安堵する。転んだ拍子に服は泥で汚れたが、誰かが今の落石で怪我をすることに比べれば些細なことだ。

「大丈夫です! ハルヴァンさんも……」
「みー」
「あれ!?」

 マオは向こう側から聞こえてきた鳴き声に驚き、自身の足元や周囲を見回す。そしてもう一度、巨石の方を見遣った。

「ノット? そっちにいるの?」
「みゃあ」

 どうやらギルに突き飛ばされたとき、抱いていた仔猫を手放してしまったようだ。鳴き声に異変が感じられないことから、怪我は負っていないようだが……。

「どうしよう、ギル。これじゃハルヴァンさんたちが通れないよ」
「そうだな……俺たちでドリカの町に知らせに行こう。落石をどけてもらえるかもしれない。ハルヴァン! 悪いが少し待って……」


「──見つけたァああああああ!?」


 マオとギルの背後で、更なる落下音が響く。驚いて振り返れば、そこには二人の女性が地面に伏している。まさか崖の上から飛び降りてきたのだろうかと、マオは思わず頭上を仰いでしまう。人が飛び降りるには少々高く、マオなら軽く足でも折れることだろう。

「ぐぐ……っ不覚……! 高さを見誤ったわ。全身が痛い」
「けどけど、栗毛に朱色の目、猫を連れた娘! こんな絶好の機会はまたとない!」

 この二人はよほど丈夫なのか、素早く身を起こしてはマオたちの前に立ち塞がる。よく似た顔立ち……というより殆ど同じ顔をしているため、双子か何かだろう。見分ける手段が髪の長さくらいしかないなどとマオが考えていたら、あろうことか二人が片刃剣を引き抜き、こちらへにじり寄ってきたではないか。マオがぎょっとして身構えると同時に、逸早く状況を把握したギルが走り出した。

「え、ギル!?」
「ぼさっとするな、ドリカの町に走れ!」

 彼は剣を鞘から抜き、片方の女に先制して攻撃を仕掛ける。ショートヘアの女は咄嗟に刃を受け止めたものの、何故だか物凄くビビった表情を浮かべて叫ぶ。

「キャアー!? ちょっと何よ、びっくりしたじゃない!! モナ、助けて!!」
「はっ、ちょうど良かったわ。ルナはその男の相手をしときなさいな! 手柄はあたしが貰っちゃう!!」
「はあ!? 待てこの糞モナっ」

 ロングヘアの女──モナは底意地の悪い笑みを浮かべ、あたふたとしているマオの方へ駆け出した。ギルから「走れ」と怒鳴られても、マオはなかなか足を動かすことが出来ない。後ろへ下がることは不可能なため、何とかしてモナの脇を走り抜けなければならないが──。

「みゃ!」

 落石の向こうから、仔猫の短い鳴き声が飛んできた。弾かれるように足を踏み出したマオは、目をぎゅっと瞑って身を屈める。するとちょうどモナが剣を薙いだものの、彼女の背中をぎりぎり外して空振った。どっと冷や汗が噴き出し、マオはそのままモナの脇を通り抜ける。

「え、避け……!? ちょっと待ちなさい!!」
「モナ、何やってるのわあぁ!?」

 ルナが余所見をした隙を突いて、ギルは交わらせた剣を力づくで蹴り飛ばした。勢いよく弾かれた剣が落下する前に、彼はマオの手を引いて一目散にドリカの町方面へと走る。

「あああ!! 逃げられた!!」
「どうするのよぉ! せっかく首領に媚び売るチャンスだったのにぃ!! モナの馬鹿!!」
「うるさーい! 早く追いかけるわよ!」


 騒がしい双子がマオたちを追っていった後、落石を隔てたところで一連のやり取りを聞いていたハルヴァンが顔を青褪めさせる。

「た、大変だ。早く誰か助けを呼ばないと……」
「みー」
「え?」

 振り返ると、坂道を少し引き返した場所で仔猫が鳴いていた。まるで付いてこいと言わんばかりに、数歩進んでは何度もこちらを見てくる。ハルヴァンは戸惑ったものの、逸る気持ちのまま仔猫の後を追いかけたのだった。

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