プラムゾの架け橋

第四章

 31.




 橋脚第二層、北西部。広大な湖は飛沫を散らし、肌や髪をしっとりと湿らせる。他の地域と比較して気温は明らかに低く、爽やかな青空にはうっすらと虹が架かっていた。絵本でしか見たことがなかった七色の半円を見上げ、マオは感動した面持ちで視線を下ろしていく。湖を覗き込めば、石造りの隔壁から膨大な量の水が噴き出している。流水の勢いが凄まじいため、穴の下の景色を窺うことはできなかった。きっと今も第一層の空には、ここから落ちる何本もの流身が走っていることだろう。

「凄いね、ノット!」
「みゃあー」

 大瀑布の落ち口付近はその音も激しく、マオは腕に抱いた仔猫に大声で呼びかける。心なしか仔猫も大きく返事をしてくれたようなので、彼女はおかしげに笑った。

「マオ、あんまり近付くと服がびっしょりになるわよ!」

 なだらかな石造りの坂を上ったところに、フェルグス傭兵団副長のアドリエンヌがいる。彼女が「おいで」と笑顔で手招きをしたので、マオも片手を挙げてそれに応じた。

 ロンダムの町を出発してから五日ほど経過し、マオたちは北方の町ネルスの手前まで来ていた。かの町は大瀑布の落ち口から、更に北上した森林地帯にある。町外れにある“階段”は、やはり薄暗い場所にひっそりと佇んでいるらしい。




 △△△



 ところで先日、マオはアドリエンヌに傭兵団への依頼報酬について尋ねていた。副長曰く、サイラムからの紹介状に「報酬はこちらから」と記されていたという。つまりマオの身柄を保護することに関して、報酬はサイラムが負担するということだ。それを聞いたマオは目を見開き、慌てて自分も払うと告げようとしたのだが。

「大丈夫よ。サイラム殿は団長の友人だもの。高額の請求はしないわ」
「でも……」
「……んー……じゃあ、そうね。マオ、拠点に着いたら傭兵団の手伝いをしてくれないかしら」
「手伝い、ですか?」

 傭兵団はギルとロザリー、ドッシュの他にも団員がいるという。第三層の拠点は男が多いこともあり、如何せん片付いておらず困っていると副長は語った。それぞれが依頼を受けて各地を飛び回っているため、まず整理整頓をする暇がない、とも。

「それがマオのお礼、ということでどう? 私たちも助かるの」

 アドリエンヌは優しい口調で提案した。今現在、手持ちのないマオにとって傭兵団の手伝いは「自分でも出来ること」だ。幸い屋敷で掃除洗濯片付けはやっていたので、マオは張り切って「やります!」と答えたのだった。



 ▽▽▽



 ぼんやりと数日前の会話を思い出していると、不意にフードの端からギルが顔を覗き込んできた。マオがびっくりして立ち止まると、暫しの沈黙の後に彼が口を開く。

「疲れたか?」
「えっ?」

 首を横に振れば、彼は相槌と共に顔を前に戻した。

「何で?」
「ぼーっとしてたから。もう着くぞ」

 ギルの指し示した方向を見遣ると、木々に囲まれた道の先、レンガ調の家屋が建ち並ぶのどかな町が姿を現していた。そこでマオはようやく、周囲の木が随分と大きいことに気付く。幹は太く、葉の密度も濃く、厳しい陽射しを上手く遮っている。そして木々の特徴はそれだけではない。ところどころの幹には簡易な足場が取り付けられ、人ひとりが通れそうな木製の橋で繋がれているのだ。頭上を駆ける子どもの姿を見ると、町全体が遊具のように感じる。

「この周辺も、“階段”の影響を受けているのですよ。木が妙に大きいのはそのせいだと言われています」
「! ロザリーさん」

 呆けた表情でネルスの町を眺めていたら、後ろから冷静な声が掛けられた。ロザリーはおもむろにギルと、それから後方のドッシュを指差して告げる。

「それとあの橋はわりと脆いので、この二人が同時に乗ると壊れます」
「ああ、壊れたな」
「はっはっは! あの時は副長にブチ切れされたな!」

 既に実践済みだったのか、とマオは苦笑いを浮かべる。やはりあの橋は森林を利用した子ども用の遊具だそうで、大人が乗ると破損の危険があるのだ。そして数年前、ドッシュに言われるがままに橋に連れてこられたギルは、二人一緒に橋を壊して落下したという。

「乗らない方がいいぞ」
「乗らないよ……」
「ほら、みんな早く来なさい!」

 副長に呼ばれたことで、四人はネルスの町を奥へと進む。森林に隠れているおかげで分かりづらいが、この町は意外と広いようだ。木々の間を覗けば道が伸び、その先の開けた空間には明るい市場も見える。それから町の至る所に無数のランタンが吊るされ、夜になると色付きガラスが透けて綺麗に輝くそうだ。

「はぁーっ……お洒落な町なんですね……!」
「それに虫が多いから、貴族もあまり寄り付かないですしね。快適ですよ」

 ロザリーは言いながら、ふわふわと寄ってきた蝶に指先を差し出す。ちょこんと止まった白い羽根を見詰め、マオはふと湧いた疑問を口にした。

「ロザリーさんはどこの出身なんですか?」
「私は第三層の生まれです。ギルもドッシュも」
「ドッシュさんもなんですね」
「ええ、彼とは何の因果か同郷なのですよ」

 その言葉を受け、マオはついドッシュを振り返る。目が合うなりニカッと笑った彼と、物静かなロザリー。見た目も性格も対照的な二人だが、不思議と縁は切れることなく今日に至るという。

「何だ何だ? ロザリー、哀愁ってやつか?」
「郷愁のことを言っているのかしら?」

 呆れ気味に返したロザリーの口調は、確かに他の人間よりも砕けているような、いないような。案外バランスの取れた二人なのだなと、マオが人知れず納得していると。

「そういえばマオ、お前はどこの生まれなんだ?」
「へ?」

 ドッシュの質問に、彼女は思わず呆けた。ギルを始めとした三人は、その少しの間に「どうした」と振り返る。会話の流れからして、その質問が出るのは至って自然だった。けれどマオは少々困惑した表情を浮かべ、肩に乗っている仔猫の前脚を掴んだ。

「えっと……暮らしているのは、第一層です」

 そう、暮らしている場所は。

 今までにも似た類の質問はされてきたと思うのだが、何故かマオの歯切れは悪かった。何故と考えれば、それは恐らく「生まれ」という言葉に起因するのだろう。マオは第一層の島で生まれ、初めて橋脚の中に入り、初めてプラムゾの中を知り──今に至る“はず”だ。しかしながらマオには両親がおらず、ホーネルとオングという血の繋がりを持たぬ人間と、物心がつく前から一緒に暮らしていた。ゆえに。

「その、生まれは知らなくて。両親の名前も分からないし……」
「え!?」

 正直に告げれば、ドッシュが大きな声を上げる。そして平素の元気な笑顔はどこへやら、とても悲しそうな表情でマオの肩をがしりと掴んだ。

「マオ、すまん!! 俺は何て無神経な質問を!!」
「え、えっ」
「ド田舎で馬鹿やりながら育った自分が恥ずかしい!! 俺を一発ぶん殴れ!!」
「ええ!?」
「やめなさいドッシュ。私が代わりに殴ってあげるから静かになさい」

 言い終わるや否や、ロザリーが彼の横っ面をぶん殴った。容赦のない一撃を食らった彼が地に伏すも、全く悪びれる様子のないロザリーが溜息をつく。

「すみませんね、マオ。彼は親が大好きなもので。勝手に悲壮な想像をしてしまったのでしょう」
「そ、そうですか……」

 感受性の豊かなドッシュは、どうやらマオが寂しい人生を送っていたのではと早とちりをして、一人でショックを受けていたようだ。にしてもロザリーの手酷い殴打は可哀想すぎたので、マオは蹲るドッシュの傍に膝をついた。

「ドッシュさん。私は怒ってないので、殴れなんて言わないでください」
「いやしかし、俺は頭が悪いからよ。こう、ポロッと嫌なこと言っちまうことが多いんだ」
「それは私も同じですよっ、だから気にしないでください。ね?」

 マオが笑顔を向ければ、少しの間を置いてから、ドッシュも安堵の表情を浮かべる。

「……そうか! じゃあマオは……寂しくなかったのか?」
「はい。一緒に暮らす人がいたので」
「そうかそうか!!」

 彼はすっかり元気を取り戻した様子で立ち上がる。まるで自分のことのように一喜一憂する彼を見上げ、マオは可笑しさとありがたさを感じつつ腰を上げた。

「あれ。副長が戻って来た」

 それまでぼうっとしていたギルの呟きに、マオたちは進行方向を見遣る。アドリエンヌは四人を置いて、一足先に町の奥へ行ってきたようだ。しかし副長の顔色はどこか芳しくなく、美しい顔を微かに歪めている。

「副長、どうしたんだ」
「……落ち合い場所を見てきたんだけど、団長の姿が見当たらなかったのよ」
「そこらへんで寝てるんじゃないか?」
「あなたじゃないんだから……」

 アドリエンヌが溜息をつくと、ひとつの足音が近づいてくる。振り返れば、背の低い男性がぜえぜえと息を切らして走っていた。小太りな中年男性はマオたちの元までやって来るなり、豪快に咳き込んでから顔を上げる。

「失礼。桃色の髪に鋼の鎧、フェルグス傭兵団のアドリエンヌ殿ですね?」
「ええ。あなたは?」
「私はネルスの商人でございます。フェルグス殿から伝言を預かっておりまして……“階段にて待つ”と」
「え?」

 商人の男は汗を拭いつつ、つい先ほどまで落ち合い場所にいたというフェルグスの伝言を告げた。団長は町の中央広場でアドリエンヌの到着を待っていたそうだが、そこで一人の幼い少女がいきなり泣き出したという。事情を聞けば、徴兵された父親にお守りを渡し忘れてしまった、と。駆け付けた母親に宥められてもなお号叫は止まず、見かねた団長は──。

「……もしかして」
「ええ、代わりに父親の後を追いかけると仰いまして」

 アドリエンヌが額をそっと押さえる傍ら、マオは隣のギルに小声で尋ねてみる。

「ねえギル、ちょうへいって何?」
「ん? ああ、最上層の城に仕える兵士を、民間から招集するんだ。商売人じゃない奴は、自分から進んで軍務に就くことが多いらしいな」
「軍務……あっ、下層で橋脚の警備をしてる人たちも、徴兵された兵士さんなんだ?」
「そうそう。まあ、将軍や文官になれるのは貴族だけだ。それでも田舎で畑を耕すより、給金は遥かに良い」

 ただその代わり、家族と長い間離れることになるとギルは告げた。独り身ならば問題ないが、愛する妻と幼い子どもを置いて行かなければならない場合も勿論あるわけで、それが苦痛で仕方ないという者も少なくはない。更に徴兵されれば最低でも三年は必ず就役せねばならず、もし満期を待たずに兵役を放棄すれば罰金を課せられるという。ちなみに商人や傭兵、貴族の私兵として雇われている者であれば、申し出をして徴兵を免れることが可能だそうだ。

「そういえば、近年は徴兵の頻度が増えているとも聞きますね。稼ぎ時だと言って家を出て行く父親も多いことでしょう」
「そんなに集めて城は何するんだ? 工事でもするのか?」
「さあ」

 ロザリーの素っ気ない返答に、ドッシュは少し不満げだった。そうこうしている間にアドリエンヌは商人との話を終え、咳払いをしつつマオたちの方を振り返る。

「仕方ないわ。団長のお人好しが発動してしまったようだから、すぐに“階段”へ向かいましょう」
「ほら見ろ副長、ちゃんと落ち合えない点では俺と変わらないだろ」
「ギル」

 彼が軽く頭を引っぱたかれたところで、一行は第二層の“階段”へと急いだ。ネルスの町から歩いて数分の場所にあるため、フェルグスに追いつくことは容易いだろうと副長は言う。ただ、少女の父親が既に“階段”へ入ってしまっている場合は、その限りではないとも告げた。

 ネルスの町北方に広がる林を突き進むにつれて、段々と周囲が暗くなっていく。どうやら“階段”が近くなってきたようだ。やはりどの層でも“階段”付近は夜のような景色になってしまうのかと、マオがぼんやりとハイデリヒから教えてもらったことを思い出していると。

「……?」

 巨大な木々の隙間、うっすらと朧げな光が見える。地平線の彼方から、日が昇ろうとしているような。はたまた遠くで炎が揺らめいているかのような。第一層と第二層を繋ぐ“階段”と、ほんの僅かだが明るさが違う。しかし薄暗いことに変わりはないので、マオは何度か躓き、とうとう顔面を誰かの背中に打ち付けた。

「ふげっ」
「おや。大丈夫ですか?」
「ロザリーさん、ごめんなさい……」
「構いませんよ。もうそろそろ“階段”に着きますし──あ」

 ロザリーが前方を見遣れば、ちょうど“階段”の門が見えてきた。木枠で補強された洞窟、というよりはひたすらに真っ黒な穴だ。その手前にひとりの男性が立っている。こげ茶色の短髪、ドッシュほどではないが屈強な身体、背負った大きな両手剣。彼は複数の足音に気付き、静かにこちらを振り返った。

「ああ、来たか。アドリエンヌ」
「間に合って良かったです、団長」

 ギルと同じ澄んだ紫色の瞳を細め、彼──フェルグスはふとマオを見詰める。彼女は慌ててフードを外して挨拶をしようとしたのだが、それよりも先に口を開いたのは団長の方だった。



「──……リンファ殿?」



 

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