プラムゾの架け橋

第三章

 29.



 ロンダムを慌ただしく発った日の夜、マオは傭兵団の者たちと共に野外で一晩を過ごすこととなった。向かうのは第二層北方にあるネルスの町。そこには第三層へ繋がる“階段”があり、同時に団長フェルグスと落ち合う場所でもあるという。ロンダムでマオに追っ手が差し向けられたことを受け、アドリエンヌはなるべく町や村を経由せずに移動することを皆に告げた。幸いこの付近は起伏の大きい地形や人目に付きづらい林など、野宿に向いた環境が揃っている。見張りはギルとドッシュが交代で務めるということで、副長は「ゆっくり寝てちょうだい」と優しくマオに告げた。

 ──のだが。

 外套に包まったまま、マオは木の幹に凭れ掛かっていた。青白い月光が葉の隙間から射し込み、彼女の肌をうっすらと照らす。ロンダムを走り回ったおかげで疲労が溜まり、一度はすとんと眠りに落ちたのだが、暫くして微妙な時間に目が覚めてしまった。周りを見れば、アドリエンヌやロザリーも既に眠っている。何処からか聞こえてくる大きないびきは、ドッシュだろうか。

 消えかかった焚火を寝ぼけまなこに眺めていると、マオのすぐ横に黒い影が寄り添った。

「……ノット。どこか行ってたの?」

 掠れた声で呼びかけ、仔猫の背中を撫でる。すると薄氷色の瞳が開かれ、マオの方を見上げた。彼女が起きていることを知ってか、青い鈴を揺らして頭を擦り付けてくる。

「駄目だよ、一人でふらふらしちゃ」
「みー」

 小さな仔猫を膝に乗せてやれば、心地よい温もりが伝わる。マオは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「……何だか、随分と遠くまで来ちゃったね」
「みゃあ」
「そりゃ、リンバール城と同じ層だけど……やっぱり、広いんだなって」

 人生で初めての遠出で、まさかこんなことになるとは思っていなかった。本来ならリンバール城で品物を届け、オングと共にのんびりと屋敷へ帰る予定だった。今ごろ結婚披露宴のことや“階段”で迷子になったことを、ホーネルに話している筈だった。

「……いつ帰れるかな」

 幸運にもサイラムやノイン、ギルや傭兵団の者たちと出会えたものの、マオの心細さを完全に拭うことは出来なかった。唯一の支えとなっているのは、本人の意思とは関係なしに連れて来てしまった仔猫の存在だ。ノットがいなければ切り抜けられなかった場面もいくつかあり、それを思うとつくづく有り難かった。マオは感謝の意を伝えるのと同時に、漠然とした不安を紛らわせるために仔猫を抱き締めた。

「寝ないのか?」
「!」

 左側を見遣ると、静かに腰を下ろすギルの姿があった。ずっと見張りをしていたのか、彼は眠そうに欠伸をしてから口を開く。

「まだ日の出には早いぞ」
「……ギルこそ、寝なくて大丈夫?」
「見張り中にちょっと寝た」

 副長には言わないでくれ、と堂々付け加えたギルに、マオは思わず笑ってしまう。彼女の控えめな笑い声が収まるのを待ちながら、ギルは木に凭れ掛かった。

「それにドッシュが見張っている間は寝てたしな。問題ない」
「そっか。私は……さっき目が覚めちゃって。暑いからかな」
「三層に行けば涼しくなるぞ」

 マオはふと夜空から視線を外し、隣の彼を見遣る。淡い輝きを放つ紫色の虹彩が、数秒の間を置いてそれに気付いた。

「何だ?」
「……ギルは第三層で生まれたんだっけ?」
「ああ、多分な。物心ついた頃には三層で暮らしてた」
「ふうん……どんなところなの? やっぱり、草原がほとんど?」
「岩山だらけだ。大瀑布の影響で湿原も多い。あと……」

 彼は周囲の木々を指し、そのまま指先をマオの瞳へと持っていく。彼女が珊瑚珠色の瞳を瞬かせれば、ギルは何処かすっきりしたような表情を浮かべていた。

「何か似てると思ってたんだ。マオの目。三層に赤い木の生えてる場所があってな。その色と似てる」
「赤色の葉っぱが付いてるってこと?」
「ああ。三層の植物特有の色らしい」

 ふと幻夢の庭の景色を思い出したマオだったが、あれとはまた違うのだろうか。見慣れた緑色の木と比べると、どうしても不思議な印象が付き纏う。しかし、自身の瞳と似た色の景色となれば、萎えていた好奇心も膨らむものだ。ぼうっと想像に耽っていると、視界の端でギルが立ち上がった。

「寝れないなら少し歩くか?」
「え? でも……」
「別に無理強いはしないぞ」

 彼はそう告げると、ゆっくりと林の奥へと歩いて行く。薄闇に消えていく背中を見詰め、マオは焚火の方を振り返る。アドリエンヌやロザリーを置いて行っても良いのだろうかと躊躇したとき、ドッシュの大きないびきが彼女の背を後押しした。仔猫と顔を見合わせつつ、マオは小走りにギルの後を追ったのだった。


 風と虫のさざめきの中、マオは踏み固められた土を歩いて行く。木々の隙間から更なる奥行きが広がり、ところどころに射し込む月光を伝っていけば、悠々と進むギルの背中を捉えた。彼の姿を見付けたことで多少の安堵を得たマオは、声を掛けることはせずに後を付いて行く。

「みゃあ」

 すると、抱いていた仔猫が脚をばたつかせる。その場に降ろしてやると、仔猫はマオの前を歩き始めた。どこかへ走り去るような気配は感じられなかったので、彼女は小さな先導者に笑みを送る。どうやら仔猫にとって、自分はまだまだ子どもだと思われているような気がしたのだ。昔から仔猫のことを可愛い可愛いと散々甘やかしてきたが、果たして甘やかされているのはどちらだったのか。

「……まあ、人間で言えばノットっておじいちゃんになるのかな」

 ぽつりと呟いた言葉に、黒い影が振り返る。薄氷色の瞳に射抜かれたマオは、両手を挙げて「何でもないよ」と笑った。そうこうしているうちに、視界がふわりと明るくなる。見れば道が途切れ、小高い丘の先にギルが立っていた。広くなった紺色の空を仰ぎつつ、マオはゆっくりとそちらに向かう。彼の隣に立ってみると、何やら淡く光る霧のようなものが遠くに見えた。その大きさや広さは半端ではなく、ゆっくりと動いているようだった。アレは何だろうと目を凝らせば、同じものを眺めていたギルが口を開いた。

「大瀑布の落ち口だ」
「……水が流れ落ちるところ?」
「ああ。あそこから第一層にな」

 月光を浴びて輝く水面は、その広大な面積のおかげで遠方からも望むことができる。マオは第一層に足を踏み入れた際、二層から落ちてくる何本もの流身を目撃していた。あれらはあの落ち口から絶え間なく流れているものだったのだろう。

「綺麗……プラムゾの層って繋がってないように見えるけど、そうでもないのかな」
「かもな」

 ギルは後ろを振り返り、夜空にうっすらと走る流身を見付ける。あの辺りは第二層の幻夢の庭から南西方向に進んだところで、第三層においても殆ど変わらぬ方角に落ち口が存在するという。各層の地形や気候は異なるものの、大瀑布に関してはプラムゾを縦に貫く“一つの滝”として存在することが確認されているようだ。

「あと、中央階段もだな」
「中央階段……あそこは“聖域”みたいな扱い、って聞いたよ。誰も入らないって」
「副長もそう言って……そういや、親父は麓まで行ったことがあるって聞いたな」
「えっ」
「第三層に、中央階段の前まで行ける参道があるんだと。もうボロボロらしい」

 若かりし頃のフェルグスは、傭兵の仕事でたまたま中央階段の近くまで行く機会があったという。ギル同様、どうやら寄り道する癖があったらしく、好奇心で参道を登ったのだとか。“聖域”とは名ばかりで、道は崩れ、人など到底寄り付かぬような廃れ具合だったという。

「フェルグスさん、中央階段まで行けたの?」
「参道は最後まで歩いた。けど」


 ──特に、何もなかった。


 フェルグスの感想はそれだけだった。と言うのも、参道は中央階段の一歩手前で完全に崩壊しており、あの巨大な塔を間近で見ることは叶わなかったのだ。つまり、フェルグスが見れたのは険しい山の景色まで。空を仰いでも、不思議なことに中央階段の影を見付けることができなかったという。

「……その話をしてくれたときの親父、ちょっと不満げでな」
「中央階段、見れなかったから……?」
「そういうわけでもなさそうだった。……よく分からんが、嫌そうな顔してた」

 きっとそれは親子にしか分からない、些細な変化だったのだろう。丘に腰を下ろしたギルを一瞥し、マオは大瀑布の落ち口を見遣る。今の話を聞いていて、彼女にはひとつ、気がかりなことがあったのだ。

「……ボロボロ……」

 人の気配が無い、崩れた参道。たったそれだけの要素では何とも言えないはずなのだが、どうしても連想してしまうものがある。それはマオが見た、“階段”の中にある朽ちた遺跡だ。あそこには山の景色などなかったが、アーチに囲われた階段は緩やかな坂となっていたはず。彼女を待ち詫びる暁光へ走ったとき、遺跡は一斉に崩れ、霧となり消えた。

「……マオ?」

 じっと滝の落ち口を見詰めたまま動かないマオに、ギルが不思議そうに声を掛ける。彼女ははたと我に返り、取り繕うように笑って見せた。

「どうした?」
「ううん、何でもない。フェルグスさんに会えたら、参道のお話聞いてみたいなって」
「そうか。多分話してくれると思うぞ」
「だと良いな……って」

 マオは突然動きを止め、慌ててその場にしゃがみ込む。

「ぎ、ギル、今まで何も考えてなかったんだけど」
「ん?」
「傭兵さんにお仕事頼むときって、どれくらい、その……お金がいるの?」

 今の今まで全く失念していたが、これから会いに行くフェルグスは列記とした傭兵だ。無償で人助けをしてくれる親切な団体などではない。またサイラムが示してくれた道標とも言える人物だが、会ってどうするかはマオが決めるところ。すなわち自身の身を守るために何かしら依頼をし、その報酬を用意するのもマオ自身ということだ。間の抜けた話だが、マオはそういった取引が当然為されるということを、すっかり忘れていたのだ。

「あー……明日、副長に聞いとくか。そんなに請求しないと思うが」
「え? でも……貴族の人なんて、できれば関わりたくないんじゃ……」

 マオを狙う者がどこぞの蛮族だったならともかく、金と権力を持つ貴族だと話は変わってくるのではなかろうか。もしかしたら、公爵家に楯突いた罰として傭兵団を潰されてしまう可能性だってある。マオを匿えば、多大なリスクが伴うことが考えられた。もし仕事を受けてくれたとしても、そのリスクを考慮した額が請求されるのが普通だろう。

「……貴族は確かに関わりたくないけどな。──けど、親父はあんたを見捨てないぞ」
「!」
「もちろん俺も副長も、ロザリーもドッシュも。傭兵なんて危険じゃない任務の方が少ないんだ。報酬が無いときだってある。それでも困ってる人間を助けるために、最後までやりとげる。それがフェルグス傭兵団の掟だ」

 彼の言葉はなにも、父から教わったことを丸暗記しているわけでもなさそうだった。父や他の団員の仕事ぶりを間近で見てきた彼だからこそ、心の底から出てくる偽りのない言葉なのだろう。淀みなく告げられた真っ直ぐな言葉に、マオは思わず呆けてしまっていた。

「……まあ、そんなことしてるから、昔は生活が苦しかったけどな」
「えっ」
「昔だ。マオが心配することじゃない」

 ギルは微かに笑い、彼女の肩を軽く叩いた。



「だから今は金のことより、自分の身を守ることを考えよう。それがマオにとって、家に帰る一番の近道だ」


 マオは目を丸くした。どうやら先程の独り言を聞かれていたらしい。彼の横顔を凝視していたら、段々と視界がぼやけてくる。俯けばこちらを見上げる仔猫に迎えられ、マオは思わず抱き締めた。

「……うん。ありがとう、ギル」
「礼を言うのはまだ早くないか?」
「ううん。今言う。ありがとう」

 それは傭兵としてではなく、彼個人に対する礼だった。零れ落ちそうになった涙は、瞼を閉じて堰き止めた。


 ──帰るんだ。


 無事に、ホーネルとオングの元へ。そのために力を貸してもらおう。手を差し出してくれる人たちから。

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