プラムゾの架け橋

第三章

 30.


 一人の精悍な若者がいた。

 照り付ける太陽、眼下に広がるは勢いの止まぬ巨大な滝。爽やかな飛沫がひやりと頬を弾けば、若者が大きく息を吸い込んだ。彼がこの滝を訪れる理由はただ一つ。

「おはよう」

 水辺に佇む少女に会うため。挨拶をすれば、すぐに少女は振り返る。若者の姿を認めるなり、はにかむような笑顔で手を振った。にわかに染まる頬は瑞々しい果実を思わせ、思わず指を這わせてしまいたくなる。己の内に潜む劣情を殺し、若者はゆっくりと少女の元へと向かった。

 その少女は美しかった。透き通る銀髪は、まるで流身のごとく滑らかで。微笑む白緑はどの宝石よりも燦然として。細くやわらかな手足は嫋やかで──若者は、この少女の存在を他の誰にも教えたくなかった。否、そうしたくても出来なかった。なにせ若者は、少女の暮らす町はおろか、名前すらも知らなかったのだから。

「私が村から出られるようになったら……あなたに名前を言えるようになったら、そのときは……一緒になってほしいの」

 苦しげに、されど確かな羞恥と好意を滲ませ、少女は告げる。言い淀んだ少女を見下ろし、若者は胸中で舞い上がった。

「待っているよ。君のことをずっと」

 そっと掬い上げた手は小さく、震えていた。若者は少女を抱き締め、何度も愛を囁いた。二人は遠からず結ばれるのだと、互いに信じて疑わなかった。


 ──しかし、二人の運命は奇しくも噛み合わなかった。


 若者はそれから数年後、別の女性と婚約が決まってしまったのだ。待てど暮らせど少女は村を出ることができず、両親から結婚を薦められた若者はとうとう約束を破った。だが、そういった大事な日は重なるもので、若者の結婚式の日になって少女が町を訪れたのだ。

「ああ、私のことは待ってくれなかったのね」

 焦る若者に、少女は悲しみを露わに呟く。約束をした日から数年経ち、少女は更に美しくなっていた。あと少しで愛する人の傍へ行ける。着実に迫る再会の日に胸を躍らせ、逸る気持ちを持て余してきた。しかしながら待ち受けていたのは若者の優しい抱擁などではなく、見知らぬ女性と婚姻の儀を執り行う男の姿だった。

「ま……待ってくれ。何年も、何年も君のことを待っていたんだ。本当だ」

 許しを乞う若者の手を払い、少女は咽び泣く。

「でも、もう愛してくれないのでしょう?」

 少女が涙を零した直後、晴れ渡っていた空が徐々に陰る。大地を揺らす轟音と共に現れたのは、空を覆い尽くすほどの雨雲──否、“波”だった。豪雨など生易しいものではない。膨大な水の塊が、今にも町へ落ちようとしていた。

「や、やめてくれ!!」

 若者は青褪め、少女に駆け寄る。けれど若者の手が届くより先に、少女の身体を鋭い刃が貫く。背中から腹へ、躊躇いなく刺し込まれたソレを見下ろし、少女の美しい瞳は光を失った。

 刹那、屍となった肉体は紅き石となり、粉々に砕け散った。

 散らばる少女の残骸を見詰め、若者は絶望した。あの笑顔が、あの声が、あの瞳が、もう二度と戻らぬことを知った若者は慟哭する。

 空を覆う藍色の波は、少女が砕けると同時に動きを止め、今日に至るまでその姿を維持しているという。まるで、いつでもその町を飲み込むことができるように──。



 ◇◇◇



「──んふーッ!! なんて悲しいお話なのかしら!!」
「うるさい、人の家で騒ぐな」

 うおおん、と男泣きをする巨漢の背を蹴り、ホーネルは大きな欠伸をかます。起床したら何故か当然のようにマリーが屋敷に上がり込んでおり、更には古臭い御伽噺を読んで号泣するという迷惑極まりない所業に、彼はもはや怒るのも面倒臭くなってきていた。

「あらん、ホーネル。起きたのね。待ちくたびれちゃったわ」
「そう。じゃあ帰っていいよ」
「またそんな釣れないこと言ってぇ」

 ごつい指先で頬を突かれ、ホーネルはそのうち口内まで貫かれるのではないかと恐怖しつつ手を払う。そのついでにマリーの手元を見遣り、所持している小さな絵本を指した。

「それ、マオの部屋にあったものかい?」
「いいえ? 仕事場の棚に突っ込まれてたわよ。これ読んであげなかったの? 有名なお話なのにぃ」

 表紙を見るに、どうやらロンダムの町に伝わる昔話のようだ。確か一目惚れした“術師”の娘を口説き落とし、結婚の約束までしたのはいいが、娘の故郷のしきたりが原因で若者は待たなくてはならなかった。そのため数年経っても娘と結婚できないので、待てなくなった若者が別の女を選んだ結果、悲惨な末路を辿ったという……何というか、自業自得な内容だったと記憶している。

「その話、主人公がクズだし。マオに聞かせるものじゃないと思ったんだろうね、過去の僕が」
「んまぁー……いけしゃあしゃあと。アナタが言えたことじゃないでしょうに」
「そうだねぇ、僕もクズだねぇ」

 半笑いで肯定してやると、マリーが見るからに哀れむような視線を送ってきた。煽ったつもりが自ら傷を抉ってしまったことに気付き、ホーネルは大袈裟に咳払いをする。とにかくその絵本はホーネルの個人的な嫌悪感により、マオには一度も読み聞かせをしていなかったことは確かだ。

 それに、マオはある程度大きくなると自ら絵本を選んでいた。近隣の住人から貰った沢山の絵本の中から選ばれるのは、大半が冒険譚だったように思う。幼い少女にしては珍しく、恋の物語にはそれほど興味を示さなかった。一度だけ、マリーから薦められた絵本を差し出してみたところ、「こっち」と化物退治の絵本を押し付けられたことは鮮明に覚えている。そのことは勿論マリーに言ってやった。

「もう、マオちゃんが変な男に捕まらないためにも、恋物語は聞かせるべきだったわ。どうするのよ? 旅先でどこの馬の骨とも分からない節操無しに、俺を置いて帰らないでくれーなんて引き留められてたら」
「オングが殺してくれるんじゃないかな」
「前から思ってたけど、殺意が強すぎよアナタ」

 ゾッとした表情で後退していくマリーを一瞥し、ホーネルは嘲笑を浮かべる。

「ま、あの子はそう簡単に騙されないさ。胡散臭い野郎を嗅ぎ分けてくれる便利な相棒もいるし」
「便利な相棒? ……猫ちゃんのことかしらん?」
「うん。お前のこともちゃんと危険だと認識してただろう?」
「失礼しちゃうわね! 確かによく逃げられるけど!」

 あの小さくて真っ黒な仔猫は、マオの初めての友人だ。少女はホーネルとオングの目を盗み、度々浜辺へ赴いては仔猫を口説いていたそうだ。あれが凶暴な性格だったら即行で引き離していたところだったが、あっという間に少女に懐柔されたらしく、気付けば屋敷に自ら来るようになっていた。

 ホーネルが仔猫を見て考えたことと言えば、マオに人形やぬいぐるみの類を与えていなかったということ。少女にとって初めて出来た「自分より小さい存在」というのは、思いがけず良い効果をもたらした。つまるところ、年齢的にも大きさ的にもちょうどよい遊び相手になってくれたのだ。少女には怪我もさせず、危ない場所にも行かせず、下手をすればヒューゴよりも賢い頭を持っているのではなかろうか。

「……っていうかね? アナタ、心配じゃないの?」
「何が?」
「マオちゃんとダーリン、なかなか帰ってこないじゃない」
「ああ、確かに」

 予定ではそろそろ……いや、数日前には帰ってくる筈だった。マオにとって初めての遠出ということもあり、無事に品物を届けられたのだろうかと心配はした。しかし今は正直なところ、好奇心旺盛な彼女のことだから、オングに頼み込んで観光でもしているのだろうと楽観視している面もある。そこまで過剰に気を配る必要もない、とホーネルは告げようとしたのだが。

「あら、来客ね」

 見計らったように呼び鈴が鳴り、マリーとの会話は中断となった。何が悲しくて花屋と朝の談笑をしていたのかと、ホーネルはハッと我に返っては玄関へ向かう。何度も執拗に呼び鈴を鳴らしてこないことから、歯抜け小僧ではないようだ。

「はい、どちらさま──……?」

 扉を開け、彼はしばし動きを止める。そこに立っていたのは、草臥れた帽子を被った一人の青年。濃い紫色の髪と、どことなく見覚えのある顔。まじまじと彼の姿を凝視していると、帽子の青年がにこりと笑う。

「どうも手紙屋でーす。あんたがホーネルだな?」
「え、ああ……そうだけど」
「あー良かった! 留守だったら面倒くせーなって思ってたけど! ハイこれ、あんた宛ての手紙だ」

 ずいと差し出された手紙に首を傾げ、裏返しては目を瞠る。そこには今しがた話題に上った娘の名が記されていた。癖のある少し丸っこい字は、それが彼女の直筆であることをホーネルに告げる。

「マオから……?」
「おう。悪いけど返事は商人にでも預けてくれ! もう一人届けなきゃいけないからよ」
「待った」
「ぐえっ」

 颯爽と去ろうとした手紙屋の襟首を掴み寄せ、ホーネルは手短に尋ねた。

「お前この手紙、どこで受け取った?」
「んええ? どこって、ロンダムだぞ。俺の店があるところ」
「は? ロンダム!?」
「おう、ということで、またな!」

 駆け足で去っていく手紙屋を見送り、ホーネルは少しの間呆然としてしまった。何故マオがリンバール城から一週間以上かかるロンダムにいるのか。観光にしては些か行き過ぎている。まさか本当に何かあったのではないかと、ホーネルはようやく危機感を露わに手紙を開封した。


 ──ホーネルさんへ。私は今、橋脚第二層のロンダムという町にいます。リンバール城に到着した後、自分でも信じられないのですが、知らない人に殴られて連れ去られてしまいました。


「はあ!?」

 初っ端からとんでもない内容が書かれており、ホーネルは堪らず大声を上げる。通りすがりの住人から視線を浴びても、彼は口を開けたままだった。何せ衝撃的な書き出しはもちろん、その後も不穏な文章がつらつらと続いているのだ。


 ──幻夢の庭で何とか逃げることができたので、これからフェルグスさんという傭兵の方に、助けてもらえないか頼んでみようと思います。おうちに帰るのはもう少し遅くなりそうです。ごめんなさい。


 ホーネルは扉を閉め、慌ただしく廊下を進む。放置している荷物に足をぶつけ悶えつつも、仕事場まで辿り着いた。

「あらホーネル、どうし」
「店仕舞いだ。この屋敷は暫く空けるよ」
「え?」

 ぽかんとするマリーを振り返り、彼は読み終えた手紙を突きつける。反射的に受け取った花屋がそれに目を通す傍ら、ホーネルは昨日で殆どの仕事を終わらせていたことに安堵しつつ、ガルフォの元へ向かうべく支度を開始した。ガルフォは見た目通りの頑固爺なので、しばらく仕事ができないと言ったら嫌な顔をされるだろうが、今はそんなことに構っている暇はない。休業の報せを終えたら、すぐに第二層へ赴かなければ──順を追ってやるべきことを整理していると、背後から野太い声が響いた。

「何ですってぇえええ!? ホーネル!! 普通に襲われちゃってるじゃないのよ!!」
「ねえ。びっくりだよ。初めての遠出でこのザマとはね」
「しかも、なぐ……殴られ……っ!? 許せないわ!! アタシたちのマオちゃんに暴力を振るうだなんて!! よっぽど死にたいようね!!」

 巨漢が瞳をぎらつかせて憤慨する様は、いつ見ても恐ろしいものだ。ホーネルは視線をサッと逸らしつつ、作業台の棚を引き開ける。使い古した定規やらコンパスやらが入ったその引き出しは、マオには一度も触らせていない場所だった。邪魔なガラクタを次々と放り投げ、ようやく見つけた物を取り出す。宝石箱のような小さなケースに入っていたのは、銀色の鍵。どこも欠けていないことを確認し、ホーネルはそれを上着の内ポケットに突っ込んだ。

「マクガルド、手伝ってくれるかい?」
「ま……ちょっと、その名前で呼ばないでちょうだい」
「僕がお前を“マリー”なんて呼んだことあったかねぇ。ほら、僕一人じゃか弱すぎるから一緒に来い。肉盾くらいにはしてあげるよ」
「どこまでも畜生ねアナタ!」

 マリーの批難を笑いながら聞き流した後、椅子に掛けてあった外套を羽織る。

「さて、フェルグス殿の元に行くよ。あまり気が進まないけどね」
「……マオちゃんのこととなると、決断も実行も早いわねぇ。分かったわ、アタシも久々に一肌脱いじゃうんだから」

 うふ、と濃厚な投げキッスを飛ばされ、ホーネルは見えないソレを避けるように体を逸らす。そのあからさまな態度に軽く怒りつつも屋敷を出て行ったマリーを見送り、彼は溜息交じりに窓の外を眺めた。雲に覆われた大きな壁は、今日も静かに佇んでいる。


 ──プラムゾには何があるの?


 過去に投げかけられた、少女の問いが蘇る。珊瑚珠色の瞳は恐ろしいほど澄んでいて、好奇心に満ち溢れていた。ホーネルは自身が子どもの頃であっても、あれほど無邪気な表情を浮かべることは出来なかっただろうと苦笑した。

「……マオ、プラムゾには……」



 ──君の全てがあるよ。



 ずっと黙っていたことを明かす日が、もうすぐそこまで迫っている。ホーネルは橋脚から目を逸らし、仕事場の扉を閉めたのだった。

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