プラムゾの架け橋

第三章

 28.



「──ねえねえ、オングさん。これ、どこかおかしい?」

 振り返ると、背中にしがみつく小さな少女がいた。その手には羊皮紙の切れ端。恐る恐る受け取ってみれば、そこには模様……ではなく、拙い文字が書かれている。暗号にも等しい文字と暫し睨み合い、ようやく少女の書きたかったものを理解した。そのころには既に少女が正面に回っており、左右に揺れながらこちらの反応を待っていた。

「えっと……これとこれ、向きが逆になってるよ」
「どこっ?」

 小さな両手を伸ばし、少女は何度か飛び跳ねる。その場に屈んで羊皮紙を見せてやれば、珊瑚珠色の瞳がそこを覗き込んだ。

「あー! ここかぁ。ホーネルさん、どこが変か教えてくれなかったの。いじわるするの」
「あはは、最近は忙しいみたいだからな。意地悪してるわけじゃないと思うよ」
「ほんと? じゃあいいや!」

 ころっと機嫌を治した少女は、笑うついでに大きな欠伸をする。一転して眠そうに目を擦ること数秒、慌ててその手を掴んで止めさせた。よくよく考えればもう夜も遅く、少女がいつも起きている時間帯ではなかった。就寝時間になるとホーネルが強制的に寝かしつけるのだが、彼は残念ながら仕事中。夜更かしを特に注意されなかったマオは、今までずっと自室で文字の練習をしていたのだろう。

「マオ、もう寝ないと」
「んー」
「ほら、おいで」

 肩にしがみついた少女を抱き上げ、階段を上ろうとしたとき。窓の外が一瞬だけ強く光る。突然の閃光に驚いた少女は、続いてやって来た大きな轟音に泣き出してしまった。感情の起伏がそれほど激しくない少女でも、雷だけはどうしても苦手なのか、毎回こうして怖がっている。

「マオ、大丈夫だよ」

 しゃくり上げる少女の背中を撫でて、階段に腰を下ろす。きっとこの少女は、雷の強い光と大きな音に怖がっている。幼い子どもならよくあること。そう、よくあることなのだ。

「……大丈夫」

 泣き続ける少女も、別の何かに怯えているのではないか。否、自分の恐怖が伝染して泣いているのではないか。そんなことを考えてしまうほどには、雷が嫌いだった。

 ──心の底から。



 ◇◇◇



 封蝋をそっと垂らし、乾く前に印璽を捺す。熱した赤い封蝋はじわりと外へはみ出し、次第に固まっていく。ゆっくりと慎重に印璽を剥がせば、刻まれたモチーフが綺麗に形成されていた。

「お、上手いな。ギルはぐちゃぐちゃにしてたぞ」
「くっ付けば良いだろ」
「やれやれ、その様子だと封蝋の意味もよく分かってなさそうだ」
「……洒落か?」
「やっぱ馬鹿だなお前」

 後ろ二人の会話に笑いつつ、結局マオの膝に落ち着いた仔猫を撫でる。黒い毛並みを指の腹で擦ってやれば、甘えるような低い声が漏れた。

「手紙屋さん。とりあえず二通、書いたんですけど……」
「おう、構わねぇぞ」

 手紙屋は受け取った手紙の宛名を確認すると、今度は地図に視線を移す。手紙を書いている途中、彼はホーネルの住所をマオに尋ねていた。屋敷の場所には目印として、小さな石の置物が立てられている。不思議な形をしたそれが何を象っているのか、彼女には予想もつかない。

「このホーネルっていう奴は第一層にいるとして、問題はオングの方だな?」
「はい。二層にはいると思うんですけど、リンバール城にはもういなさそうかな、って……」
「ふむふむ。そいで容姿が、灰色の髪に褐色の肌、大男……何だ、すげえ強そうな野郎だな。手紙届けたら殺されるんじゃないか、俺」
「そ、そんなことしないですよっ! オングさんは優しい人です」

 ね、と仔猫に同意を求めると、少しの間を置いてから鳴き声が返って来た。そういえばこの仔猫、オングとあまり仲が良くなかったなと、マオは今更ながら思い出し肩を落とす。

「ま、近いうちに必ず届けるから安心しな。それで支払いなんだけど」
「俺が出すか?」
「えっ、いいよ、私がお願いするんだから」
「……こいつ、結構ふんだくるぞ?」

 ギルは手紙屋を指差し、無遠慮に言い放つ。差された彼は照れたように笑ってから、「失礼な」とギルの肩を叩いた。

「俺は初回のお客様には優しいんだよ。ふんだくるなんて、とんでもねぇ。ただちょっとほら、俺の懐も潤わせたいときがあって」
「有り金を根こそぎ持ってかれた記憶があるぞ。マオにも同じことする気か?」
「銅貨五枚でいいよ!!」

 あっさりと折れた手紙屋に銅貨五枚を渡し、マオはついでに袋の中を確認する。屋敷を出てからロンダムに至るまで、なにかと奢ってもらったり馬車を使わずに済んだりしたので、銅貨はそれなりに余っていた。ホーネルから「多分使わないと思うけど」と銀貨も一枚だけ渡されているが、マオは実を言うとこの銀貨の価値をあまり理解していない。確か銀貨一枚あたり、銅貨が百枚か二百枚ほど、だったような。いずれにせよ、価値を理解せずに銀貨を出してしまえば、釣り銭を誤魔化されても気付けない危険性が高い。できるだけ節約しつつ、お金が必要なときは銅貨で支払うべきだろう。きゅ、と袋の口を紐で閉じ、マオが鞄を掛け直したときだった。

「さて、じゃあ行ってくるわ」
「おう、またな」
「え。も、もう行ってくれるんですか!?」

 二人が片手を挙げて解散しようとしていたので、マオは慌てて手紙屋を引き留める。彼は気障ったらしく鼻を鳴らし、戸惑うマオに向けてパチンと指を鳴らした。

「俺、可愛い子の頼み事はつい優先しちゃうんだよな」
「客が他にいないだけだ」
「みゃー」
「ギルくん黙って。猫も酷い」

 ばか真面目に発言を受け止めたのはマオだけだったようで、彼女は羞恥を悟られぬよう仔猫で顔を隠しておく。そうこうしている間に、手紙屋はくたびれた帽子を被って、部屋の隅にある垂れ紐を掴んだ。

「ああ、そうそう。ギル、さっさとロンダムを出た方がいいぞ」
「?」
「外が騒がしい。細道から行けよ、いいな?」
「……分かった」

 じゃあな、と手紙屋が垂れ紐を引っ張れば、天井から暗色の幕が落ちてきた。射し込んでいた青い光が一瞬にして消え失せ、マオは暗くなった視界に慌てる。すると彼女の足元で薄氷色の双眸がぱちりと開き、暗闇をものともせずに歩いて行く。躓かぬように後を付いて行けば、ギルとおぼしき背中にぶつかった。

「いたっ」
「ああ、悪い」

 彼は謝りつつ、正面にあった扉を押し開ける。眩しい光が辺りを照らしたかと思えば、その先には石造りの通路があった。マオが目を瞬かせたのも束の間、二人はいつの間にかロンダムの住宅街に出ていたのだ。

「……え!? ギル、手紙屋さんは?」
「もう行ったと思う。よく分からんが、いつもこうやって外に出されるんだよ」

 後頭部を掻き、ギルは平然とそんなことを述べた。彼曰く、あの真っ暗な手紙屋は誰でも簡単に行ける場所ではないらしい。傭兵団の団員に手紙屋のことを話しても、皆そのような場所は知らないと答えるそうだ。現に、マオとギルの後ろには扉などなく、閑静な通路が伸びているだけ。

「……あ。けどマオ、あいつが手紙屋なのは確かだぞ。俺も何度か手紙を頼んだことがあるが、数日と経たずに届けてくれる」
「す、数日っ? 最低でも一週間は掛かるんじゃ──」

 そこでマオははたと気付く。手紙屋へ向かっている途中、急に辺りが静まり返った瞬間があった。人々の声が一斉に遠ざかり、まるでロンダムではない“どこか”へ飛ばされてしまったかのような感覚。加えて、今しがた起きた不可解な移動。この広大なプラムゾにおいて「数日と経たずに手紙を届ける」という異常な仕事ぶり。マオはこのような現象を何度か経験済みだった。

「ギル、もしかして手紙屋さんっふぇ」

 “術師”なのでは──と彼女が尋ねようとしたとき、不意にその口を手で塞がれてしまう。ギルは空いている手で人差し指を立てると、そのまま大通りの方へと歩いて行く。明るみに近付くにつれて、遠くで賑わう人々の声が静寂を揺らした。その音はまるで見えない薄い殻に隔てられているかのようで、マオの耳にはっきりとした形で届くことはない。そんな中で一際大きく空間を震わせたのは、瑞々しい青年の声だった。


「──それで、みすみす逃げられたと」


 怒気を帯びた声は冷たく、静かだった。自分に向けられた言葉ではないにも関わらず、マオはついつい硬直する。するとすぐさま脇道に引っ張られ、ギルの陰った紫色の瞳が眼前に現れた。彼はいつもの冷静な態度を維持しながらも、微かな焦りをそこに宿していた。

「……何でこんなところに……」

 ギルは不可解だと言わんばかりに呟き、先程聞こえた声の方向を窺う。マオもそっと顔を覗かせ、ちらりと見えた長身の男を凝視する。上質な生地で仕立てられた黒い騎士服、美しい真紅の柄と鞘が特徴的な剣。混じりけのない真っ白な髪は、御伽噺にでも出てきそうなほど美しかった。しかしその儚さをも感じさせる容姿とは一転、青年は正面に立っていたもう一人の男に対し、容赦のない言葉を浴びせていく。

「私も暇ではない。非武装の娘一人に何をそこまで手こずっている? 君たちの培ってきた実力とやらは、その程度のものか?」
「……申し訳ございません」
「……ふん、言い訳の一つや二つしてみたらどうだ。ここまで時間が掛かるのなら、私自ら手を打たねばならん。……全く、他人の尻拭いなど美しくない」

 「非武装の娘」という言葉に、ギルはすぐさま不審感を抱く。一方のマオはあまり話が理解できておらず、彼に腕を強く掴まれては疑問符を浮かべてしまった。

「……ギル、あの人は……?」

 それでも不穏な雰囲気だけはばりばりに感じ取れたので、ごく小さな声で尋ねてみる。するとギルは白髪の青年を警戒しつつ、マオに耳打ちしてくれた。

「ミカエルだ。公爵家の」
「!」

 それはマオ達がロンダムの町に到着した際、黄色い歓声に囲まれていた貴族の名前だ。あのときは馬車の中から出てこなかったため、姿までは確認できなかったが……なるほど、だから身に纏っているもの全てが上等なのかとマオは納得する。と同時に、今しがた盗み聞きしてしまった話に眉を顰めた。誰かを追っているのだろうかと、マオがまるで他人事のように考えたときだった。

「名は何だったかな? その娘」
「……“マオ”と呼ばれているそうです」

 唐突に出てきた己の名に、マオは硬直する。そしてギルと顔を見合わせては、二人はそっと踵を返した。足音を立てぬよう、ゆっくりと大通りへ向かう間にも、ミカエルと男の会話は進む。

「恐らくロンダムへ逃げてくると考えられます。幻夢の庭を東に抜けたと、メドから報告が入りました」
「既にここへ来ている可能性は?」
「……無きにしも非ず。馬車を使用した形跡はありませんでしたが、協力者がいれば、或いは」

 ──あの人たちなんだ。

 マオは青褪め、強張る手でギルの腕にしがみつく。彼女が幻夢の庭を抜けたこと、ギルの助けを得てロンダムへ向かったこと、それら全てを知られている。その上、拉致を指示したのは公爵家の青年。“王”を除いた貴族の中では、最上位に位置する数少ない人間だ。よもやそこまでの地位を持つ者に狙われているとは予想だにしておらず、見えない目的を思っては恐怖に襲われた。

「マオ」

 囁くように呼ばれ、震えた手を力強く握られる。ついでに外套のフードを深く被せられ、狭まった視界の端からギルが覗き込んできた。

「副長のところに行くぞ。大通りに出たら走って北に向かう。行けるか?」
「う……うん」
「……大丈夫だ。依頼人を易々と引き渡すつもりはない」

 そう元気づけながら、彼は足早に大通りへと誘導する。淡い青色の光が頭上から射し込み、二人がいざ走ろうとしたときのことだ。後方から何か、硬質な物体のぶつかる音が鳴り響く。短く、されど二人の注意を惹き付けるには十分すぎたその音に、マオは反射的に振り返ってしまった。

「……!!」

 そこには、こちらを冷ややかに見据えるミカエルの姿があったのだ。彼は持っていた剣を鞘ごと引き抜き、石畳に叩きつけた状態で首を傾げる。彼は──話を盗み聞きしていたマオとギルの存在に、既に気付いていたのだ。フードに隠れた珊瑚珠色の瞳を窺うように、ミカエルはゆっくりと鋭い目を細めていく。まさに蛇に睨まれた蛙同然で、マオの足が完全に止まってしまうかと思われたとき。

「ッ走れ!」
「ひゃっ!?」

 ギルが咄嗟に彼女の手を引き、永遠にも感じられた一瞬の沈黙を突き破る。無意識のうちに止めていた息を吸い込み、マオは慌てて両足を動かした。賑わう人混みを掻き分け、ひたすらに北を目指す。見覚えのある広場に出て、そこを真っ直ぐに突っ切れば、にわかに後方が騒がしくなった。

「きゃー! 何よ!?」
「おい!」

 後ろを振り返らぬようマオの背中を支えたまま、ギルが代わりに後ろを一瞥する。数人の男が群衆を無理やり押しのけ、こちらへ走ってきている。どうやらミカエルが追っ手を差し向けたようだ。鎧を身に着けているところから、あれは単なる公爵家の私兵だろう。

「……さっきの奴は……来てなさそうだな」

 ミカエルと話していた、全身を黒一色で固めた男。あれはどうにも危険な匂いがした。先程の会話の内容からして、マオを拉致した集団の一人である線が濃い。相手が追跡や情報収集などの隠密行動に長けた人間となると、一介の傭兵であるギルでは太刀打ちが難しいのだ。きっとこのような混雑した大通りであっても、こちらの動きを簡単に誘導されてしまうことだって有り得る。

「ぎ、ギルっ、どっちに行けばいいっ?」
「! 左だ」

 二手に分かれた道のうち、北門へ繋がる長い階段を駆け上る。ここまでギルの走る速度に合わせていたマオは、段々と息が上がってきていた。加えて勾配の急な階段は、彼女の足に更なる負荷を与えていく。つらそうな彼女を見かねてか、やがてギルは背中を軽く押して告げる。

「マオ、そのまま上り切れよ」
「え、ギルっ」
「いいから行け!」

 ギルは立ち止まると、腰に挿していた剣を鞘ごと引き抜き、迫る兵士の方へと向き直った。兵士が武器を携えて階段を駆け上ってくる様を見ても、ギルは臆することなく立ち向かう。──どころか、彼はそのまま跳躍し、兵士の胸部に飛び蹴りを食らわせたではないか。これには兵士もぎょっとした様子で、下へ転がり落ちた一人を見遣ってしまう。

「小僧、我々に歯向かぅヴぇえ!?」

 憤慨した兵士が振り向くと同時に、ギルはその顔面を鞘で殴打する。鉄製の冑が小気味よい音と共に弾き飛べば、すかさず先程と同様に胴体を蹴りつける。見事に転落していった兵士を見届けることなく、ギルが残りの一人も捌こうとしたとき。

「このっ図に乗るな!」
「!」

 ちょうど背後に回った兵士が、ギルに向かって剣を振り下ろす。予想していた位置よりも左側に立たれたことで、ギルは危うく段差を踏み外しかけた。何とか堪えて剣を受け止めるも、体勢は微妙に捩じれたままだ。上手く踏ん張ることが叶わないのは勿論、自分よりも高い場所から全体重を掛けられている状況は危険だった。一か八か、剣を横に受け流してみるかと、ギルは両手の力を抜いた。


「──おや、ギル。こんなところに」


「は?」
「うお!?」

 兵士が視界から消え失せ、勢いよく階段を転がっていった。ギルは呼吸を整えつつもそれを見送り、助けてくれたであろう人物を見遣る。そこにいたのは彼や兵士よりも小柄な、青い髪の女性だった。彼女は小さな短剣をベルトに挿すと、衣服の袖を何度か手で払う。少しの間、そののんびりとした仕草を眺めてから、ギルも溜息と共に剣を下ろした。

「助かった。ありがとう、ロザリー」
「いえいえ。団長の御子息を助けるのは当然のこと。ところで、あちらの女性も助けた方がいいでしょうか?」
「え?」

 ロザリーが指差した方向を見遣ると、マオが階段を上り切る手前で立ち止まっている。あと少しのところで疲れてしまった彼女が、苦しげに両膝をつこうとすると。

「おい! 大丈夫か!? そんな苦しそうな咳して……まさか病人か!?」
「へ……っ!?」

 そこへ現れたのは大柄な男。まさに筋骨隆々という表現が相応しく、袖のない衣服から伸びる健康的で逞しい両腕は、オング──よりも花屋のマリーを彷彿とさせた。マオがその元気すぎる雰囲気に圧倒され何も言えずにいると、それを肯定と捉えた彼が絶望を露わに頭を押さえる。

「何てこった……!! すぐに医者へ行くぞ!」
「うわあ!? えっ、ま、待ってください! 病人じゃないですー!!」

 軽々と肩に担がれてしまったマオは、「医者はどこだ!!」と叫ぶ男を慌てて止める。そこへ、階段を上ってきたギルとロザリーが声を掛けた。

「ドッシュ、医者には行かなくていい」
「ん!? ギル! 捜したぞ!」
「あなたは屋台に夢中で捜してなかったでしょう」

 三人の会話を意図せず見下ろすことになったマオは、状況が掴めずにまばたきを繰り返した。彼女のきょとんとした表情に気付き、ギルは安心させるようにその手を掴む。

「大丈夫だ。この二人は」
「フェルグス傭兵団のロザリーと申します。そしてこの大きな馬鹿はドッシュ」
「ロザリー! そこはもっとこう、傭兵団一の怪力とか、カッコいい呼び名を」
「否定はしないのね」

 二人の会話はいつもこのような調子なのか、ギルはちょっとだけ呆れた様子で後頭部を掻いた。そして階段の下を一瞥し、呑気に話している二人の肩を叩く。

「ロザリー、副長はもう北門にいるのか?」
「ええ、あなたがなかなか来ないから怒っていますよ」
「あ、まずい」
「それと、そちらの彼女が依頼人であることは既に承知済みです。あの兵士に追いつかれる前に、さっさとロンダムを出発しましょう」

 ロザリーは淡々と告げたかと思えば、すたすたと階段を上っていく。

「……あ! つまり、あんたが依頼人ってことだな?」

 しばらくの間を置いて、ドッシュが理解したと言わんばかりに声を上げた。今その話をしていたのだが、という二つの視線にも気付かないのか、彼は無邪気な笑顔でマオを抱え直す。今度は横抱きにされたため、肩に担がれているときより安定感が増した……などと考えてから、マオは首を横に振る。

「ご、ごめんなさいドッシュさん。私もう歩けま」
「いやー、ロザリーもそうだが、あんたはもっとひょろひょろだな! 病人じゃなくても心配になる!」
「マオ、また走ることになるかもしれない。気にせず運ばれてくれ」
「……う、うん……」

 ドッシュにはよほど脆弱に見えているようで、マオは密かに体力づくりを検討しようと考えたのだった。



 ▽▽▽



 ようやく体勢を立て直しかけた兵士の背を、綺麗に磨かれたブーツが踏みつける。あまりにも容赦の無い行いに、目撃してしまった通行人は思わず二度見していた。ぐりぐりと気が済むまで兵士を踏んだ青年は、北門に続く長い階段を見上げて舌を打つ。

「……。ジャレオ」
「ここに」
「あの娘、例の“マオ”とやらか?」

 背後に現れた黒衣の男は、ちらりと階段を仰いで頷いた。

「恐らく。……どうやら傭兵団を頼ったようですね」
「鬱陶しいことこの上ない。しかもあの薄汚い男、フェルグスの息子だろう? 拠点へ逃げ込まれる前に終わらせろ、いいな」

 兵士の背を強く蹴り、ミカエルは苛立ちを露わにしつつ立ち去る。深くお辞儀をした状態で彼を見送り、黒衣の──ジャレオは北門へ向かったのだった。

inserted by FC2 system