プラムゾの架け橋

第三章

 27.



 ──それは、今より幾百の時を遡る。

 ある若者は見た。己には決して成し得ない、奇跡を自在に起こす者を。

 ひとたび謡えば草木は囀り、獣は安らかな祈りを捧げる。

 ある若者は恋をした。美しく舞う奇跡はどこまでも儚く、果てしなく。

 愛囁く者、永久なる奇跡を約束せよ。

 愛望む者、永久なる罰を覚悟せよ。

 戒めの祝詞は深く、この大地に根付くであろう。



 ◇◇◇



 藍色の天井の下、独特な旋律で唄い上げた吟遊詩人は、深々とお辞儀をした。まばらな拍手と投げ銭を眺めながら、マオは階段を上り切る。先程から階段を上るたびに、ああいった謡い手や踊り子が芸をしている。ある場所では老夫婦が仲良く観ていたり、またある場所では幼い子どもたちがはしゃいでいたり、一つの町にいくつもの異なる空間が点在しているようだった。

「芸人さん、ほんとに沢山いるんだね」
「ああ。何言ってるのかさっぱりだけどな」

 吟遊詩人の詩はとにかく分かりづらい、とギルは口をへの字にしてしまう。彼にとっては子守歌にしかならないのだろう。マオは苦笑しつつも、今しがた耳に入ってきた詩を頭の中で反芻してみた。初めは恋を主題にしたものかと思ったが、後半の歌詞が一部不穏だったような気もする。残念なことに、マオにも詩や絵などの教養はそれほどない。意味をしっかりと捉えるには、まず知識が不足していた。

 ──いや、そもそも「恋の詩」という時点で。

 マオは思わず腕を組んで考え込む。リンバール城で侍女たちと言葉を交わしたとき、彼女は全く話に付いていけなかった。ハイデリヒとエクトルのどちらが好みかという話だったが、あれは恋愛に関することだろうか。それとも単純に、二人の容姿が綺麗だから憧れているだけだったのだろうか。その辺りの区別すら曖昧なマオに、先程の詩を詳しく考察することは難しく思えた。

「マオ、こっちだ」
「あっ、うん」

 小走りにギルの後を追いつつ、マオは彼の背中をじっと見つめてみた。……自分よりもしっかりした肩だな、という当たり前の感想しか出てこない。もしもギルに対して恋慕を抱いていたら、また違う気持ちが出てくるのだろうか。例えば、と考えてみても見当すらつかず、マオはあまりの想像力の無さに自分で呆れてしまった。 

「ああ、そういえば」
「へ!?」
「え?」

 突然ギルが振り返ったので、マオは裏返った声を上げる。何でもないと話の続きを促せば、彼は不思議そうにしながらも空を指差した。

「あの天井ができた話、副長なら詳しいと思うぞ」
「そうなの?」
「俺より博識だし……というより、副長からその話を教えてもらったんだ」

 殆ど忘れたがな、と彼は堂々と付け加え、顔を前に戻す。マオは彼の焦げ茶色の髪を見上げるついでに、頭上の藍色をちらりと窺った。きらきらと輝きを放つそれは、芸術作品と言っても差し支えないほど美しい。“術師”が造り上げたという話が本当だとして、その過程はいかなるものだったのか。きっと、マオには想像もつかない景色がそこにはあったのだろう。

「……。ねぇギル、傭兵団ってどれくらいの規模なの?」

 ギルの隣まで追いつき尋ねれば、彼はマオを一瞥してから視線を宙に飛ばす。

「わりと大所帯だぞ。元々は親父と副長だけで始めたって聞いた。でも二人とも恐ろしく腕が立つからな、一緒に依頼をこなしたいっていう連中が集まって……気付けば結構な人数になってたらしい。で、三年前そこに俺も加わった」
「へえー……ギルが傭兵になったのは、最近なんだね?」
「ああ。母さんが早くに死んだからな。どうすりゃいいかなって思って、既に離縁してた親父の元まで行ってみたんだ」
「ええっ……?」

 ギル曰く、両親は不仲というわけでもなかったそうだ。しかし父親──フェルグスに何らかの事情ができたことで、夫婦としての縁を切ってしまったようだ。当時まだ幼かったギルは母親に引き取られ、第三層ですくすくと成長。たまに父親の話もしてくれたそうだが、今思えば惚け話でしかなかったと彼は言う。

「そんなに好きだったのに、別れちゃったんだ」
「ああ。親父もあんまり話してくれなくてな。……ただ」
「ただ?」
「親父の話も惚けが多かった」

 思わず笑みがこぼれてしまった。フェルグスは非常に人望が厚く、息子に呆れられるほどの愛妻家であるということを知り、マオは段々と彼に会うのが楽しみになってきていた。ギルとよく似ているのだろうかと、彼女が想像に耽ろうとしたとき。

「マオの家族は?」
「え? うんと……面白い人たちだよ。血は繋がってないんだけど」

 彼は一瞬、ほんの少しだけ目を見開いた。だが質問を取り下げることもなければ、マオの暮らしについて深く掘り下げてくることもなかった。それはひとえに、彼女が笑顔を浮かべていたからなのだろう。

「第一層で装身具屋さんをやってるの。店主のホーネルさんと、配達員のオングさん」
「装身具……飾りのことか?」
「うんっ、首飾りとか指輪とか、いろいろ」
「猫用も?」

 彼女のフードの内側を覗き込み、ギルはそこで丸まっている仔猫を指差した。黒い右耳に揺れる、青い耳飾りのことを言っているのだろう。

「これは私が、ホーネルさんの真似をして自分で作ったんだ」
「へえ、器用だな」
「ふふっ、ありがとう。たまに金具が弛んじゃうけどね」

 ホーネルに作ってもらうという手もあったが、仔猫はマオにとって初めて出来た友人だ。下手くそながらも自分で作って、プレゼントとして贈りたかったのだ。何度も仔猫の耳を採寸しようとして逃げられ、試着を要求しては更に逃げられ、そんなことを繰り返していたので、屋敷は随分と騒々しかったことだろう。しかしホーネルは別段叱ることもせず、マオの質問にも応じてくれていた。自ら進んで何かをするということに、彼は非常に肯定的なのだ。

「ホーネルさん、ちゃんとご飯食べてるかなぁ……朝も寝坊してそう……」

 身の回りのことに無頓着な店主を間近で見てきたマオは、途端に顔を曇らせる。部屋を散らかしたままではないか、客人に失礼なことを言ってやしないか、夜遅くまで仕事に没頭していないか──いろいろと心配事が浮き上がってきたのだ。いざとなれば花屋のマリーが屋敷に殴り込みに来てくれそうな気もするが、そうなるとホーネルの毒舌が加速する。誰か心優しい人がそっと注意をしてくれればいいのだが……あいにく彼は独身だ。なかなか難しい話だろう。

 マオが一人で困ったような顔をしている隣で、その表情の移り変わりを眺めていたギルが、不意に口を開いた。

「……。マオ、そういえばリンバール城までは誰かと一緒だったのか?」
「え? うん、配達員のオングさんと一緒だったよ」
「そうか。……ちょっと来い」
「ギル?」



 ▽▽▽



 複雑に入り組んだ通路を、上へ下へと通り抜ける。洒落たアーチ状の柱をくぐり、大通りの上を強引に貫いたような橋を渡る。既にマオはどうやってここまで来たのか忘れてしまったが、迷いなく歩いて行くギルはそんなこともなさそうだった。

「凄いね、ここ。迷路みたい」
「一度覚えれば歩きやすいぞ。それまでは……」
「きゃあ!?」

 角を曲がった直後、突然の浮遊感に悲鳴をあげれば、すぐさま腕を引っ張られる。慌てて振り返って確認すると、そこだけ床が抜けてしまっている。大通りの人混みが足元から覗いていることを知り、マオはようやく冷や汗を拭った。

「足元注意だ。上は正式な通路じゃなくてな。近道用に、住人が勝手に増設したんだ」
「な、なるほど……それで、何処に行くの? 傭兵団の人たちを捜しに行くんじゃ……」
「それは後だ。すぐに着く」

 彼が指差したのは、高い段差に掛けられた木製の板切れ。今いる通路と脇道を繋いでおり、それは辛うじて橋の役割を果たしていた。軋む音を響かせつつ、マオは手を引かれるがままに板の上を歩く。折れることもなく無事に渡り終えたとき、マオはハッとして顔を上げた。

 ──静か。

 先程までは下から大通りの喧騒が聞こえて来ていたのだが、いつの間にかそれが消えている。静まり返った狭い通路を見渡していると、ギルの姿を見失ってしまった。

「あっ、ぎ、ギル? どこ?」
「こっちだ」

 声の方へ向かうと、石造りの階段が現れる。下ったところにギルが待っていたので、マオは思わず胸を撫で下ろした。

「良かった……迷子はもう嫌……」
「? 着いたぞ」

 項垂れるマオに首を傾げつつ、ギルは行き止まり──否、ひっそりと佇む小さな扉を指し示した。壁に「営業中」と書かれた看板が掛けられていることから、店か何かだろう。でもこんな迷路の中にあるなんて、とマオがちょっとばかし怪しさを感じている傍ら、ギルは臆することなく扉を叩いた。

「…………。入るぞ」
「えっ、返事なかったよ」
「前もそうだった」

 ギルが扉を開ければ、その先に広がっていたのは薄闇だった。入り口の傍には燭台が置かれ、彼はそれを持って奥へと進む。マオも慌ててその後ろを付いて行った。

 一体どれだけ広いのか、廊下は想像していたよりも長かった。ロンダムの町はどこもかしこも入り組んでいるが、ここは外から見えるところよりも更に入り組んだ場所らしい。長い年月をかけて改造された町の内部、つまり通路と通路の間にできた空間だという。ゆえに無数の隙間から、たまに外の青い光が射し込むのだ。

「で、ここは土地代も発生しないから、店として利用してる狡い奴がいてな」
「……何のお店なの?」
「それは──」

 ギルはそこで立ち止まり、前方を見るように促す。燭台で照らされた箇所には、入り口と同様の看板が掛けられていた。

「……“手紙屋”?」
「ああ。恐ろしく仕事の早い、な」

 彼によって開かれた分厚い幕の向こう。何層にも重なった柱が綺麗な円形を描き、天井から青い光の円筒を創り出す。その下に椅子とテーブルを配置し、暇そうに腰掛ける人影がひとつ。上げた両足を行儀悪くテーブルに乗せていたその人物は、二人の客人を見付けるや否や、馴れ馴れしく片手を挙げた。

「ぃよっ、その仏頂面はギルだな? 半年ぶりくらいか!」
「久しぶりだな。残念ながら二年ぶりだ」
「くそ、また外した!」

 幻想的な登場から一転、彼はとても陽気な態度で話しかけてきた。今はギルの顔を見てげらげらと笑っており、とにかく騒がしい人物であることは確かなのだろう。マオが目を瞬かせていると、ようやく彼がその存在に気付いたようだった。

「んあ? 何だ何だ、新しい客の紹介でもしてくれんのか?」
「……まあ。マオ、あいつが店主だ。店の人間は一人しかいないけど」
「うるっせぇー! 俺は一人で十分じゃーい!!」

 酔っているのだろうか。思わず一歩後退したマオだったが、それはギルによって宥められる。手紙屋の店主は椅子から立ち上がると、二人に向かって手招きをした。その仕草ですらフラフラしていたが、とりあえずマオは近くまで行ってみる。手紙屋は二人とさほど変わらぬ年齢の男性で、ギルよりもひょろりとしている。無造作に束ねられた濃い紫色の髪、薄い唇、そして──どこか見覚えのある黒い双眸。マオがじっと顔を見詰めていると、手紙屋は芝居がかった仕草で驚いて見せる。

「おやおやおや、これはまた御育ちの良さそうな嬢ちゃんだな。この子も傭兵なの?」
「俺たちの依頼人だ。手紙を届けてやれないか?」
「いいよ」
「即答だな」
「あ」

 二人が振り返り、マオはハッと口を両手で塞ぐ。思いのほか声が大きかったようだ。

「どうした?」
「し、知り合いにそっくりだなあって……」

 知り合いとは、第一層に暮らす青年──魚屋のことだ。彼の髪は暗い赤色だが、その瞳は手紙屋と同じ漆黒。口数や態度は真逆と言っていいほどの人物であるはずなのだが、どこか似た雰囲気を感じさせる。マオの発言を聞いた手紙屋は、思案げに青い円筒を仰ぎ、再度彼女を見て笑った。

「ああ、もしかして一層に住んでるのか。俺の家族……とは言い難い何かならいるぜ」
「え……! じゃあ、やっぱりごきょうだ」
「親だよ」
「い…………ええッ!?」

 マオは目を剥いて飛び上がる。魚屋はまだ二十代かそこらの外見だが、もうこれほど大きな息子がいるのだろうか。いやいや、逆算すると大変な年齢になってしまう。よもや一桁の歳で子を儲けたわけではあるまい。マオが混乱状態に陥っていると、しばらくその様子を眺めていた手紙屋がおかしげに噴き出した。

「冗談冗談、身内なのは確かだけどさ」
「へっ……う、嘘だったんですか」
「普通に考えて無いだろぉ。何でも信じちゃ駄目だぞ」

 本当に魚屋と大違いだ、とマオはちょっと悔しい気分になる。そんな彼女を後目に、手紙屋は「それで」とテーブルの上を大雑把に片付け始めた。

「ここは手紙屋だ。誰かに文を届けたいってんなら請け負うぜ。客が少ない今なら最大三通まで受け付けちゃうぞ」
「いつも客いないだろ」
「ギルくん黙って」

 にこやかにギルの額を指で弾くと、手紙屋は数枚の羊皮紙をマオに差し出す。勢いで受け取った彼女は、ようやくここに連れてこられた意味を理解した。恐らくギルは心配してくれたのだろう。マオは自身が怪しい集団に追われていることを、オングやホーネルに言えないままロンダムまでやって来た。この手紙屋は、遠くにいる彼らへ無事を伝えるにはとても好都合なのだ。……とは言っても。

「あの、手紙屋さん。私、確かにお手紙を出したい人はいるんですけど、どこにいるかは……」

 ホーネルはともかく、オングに関してはどこに宛てれば良いのだろうか。心配性な彼のこと、マオの身を案じるあまり第二層を駆け回ることだって容易に考えられる。とりあえず第一層の屋敷に送るしかないか、と彼女は羊皮紙を一枚だけ抜き取ろうとした。しかしその手を強引に押し戻され、きょとんとして顔を上げる。そこには自信満々な笑みを浮かべる手紙屋の姿。

「大丈夫だ。届けるのに必要なのは、受取人の名前だけで十分だからな」
「……そ、それだけでどうやって届けるんですか?」
「そこは企業秘密ということで。ま、気にせず書きな。俺はその間──これの観察でもしといていい?」
「ひぁっ」
「み゛ゃッ」

 彼はマオのフードに手を突っ込むと、仔猫を引き抜いてしまった。暴れる仔猫を高く抱き上げた状態で、手紙屋は興味津々な様子で瞳を輝かせる。

「おおー! 元気だな! いや、さっきから何か青く光ってんなと思ってたら、こいつの眼か!」
「あ、あの……! ノット、暴れちゃ駄目だよっ」

 マオが咄嗟に仔猫を宥めようと声をかけた瞬間、するりと手から逃れた黒い影。そしてマオがまばたきをした時にはすでに、鋭い爪が手紙屋の顔面を捉えていた。

「ぎゃあああ!?」

 派手に床へ転がってもなお、手紙屋は仔猫を離そうとしない。悲鳴が段々と笑い声に変わっていくと、彼は懲りずに仔猫を懐柔しようと試みる。どたばたとじゃれ合う一人と一匹を見下ろし、視線を後ろへと向けた。ギルはテーブルに置いてある地図を眺めており、手紙屋のことなど完全無視である。

「………………お手紙書こう」

 

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