プラムゾの架け橋

第三章

 26.



 橋脚第二層、中央階段より東南東にある町ロンダム。かの町はリンバール城よりも海抜が高く、近付くにつれて周囲の景色に山肌が増えていく。曲がりくねった道をひたすらに進み、思わず背筋がひやりとするような崖をいくつか超えれば、奇妙な色と形をした岩が空に現れる。それは大きな波が上空で凝固したのかと錯覚させるほどで、藍色に輝く──鉱石にも見えた。透き通った美しい天井を太陽が照らし、町はまるで水中のように淡く色づいている。かと言って日陰ほど暗いわけではなく、第二層の厳しい陽射しをうまく和らげていた。

「すごーい……! ギル、あれなぁに?」

 マオは瞳を輝かせ、彼の背中をぽんぽんと叩く。ここまでの道中ですっかり打ち解けた彼女の呼びかけに、ギルは藍色の天井を仰いで応じた。

「何だっけな……この前、教えてもらったんだが……」
「波みたいで綺麗だね」
「みー」

 腿の上に乗せた仔猫も、物珍しそうに天井を眺めている。その頭を撫でながら、マオは少しだけ腰を浮かせて前方を窺った。うっすらと藍色に染まるロンダムの町は、整然と敷き詰められた石畳と、高低差のある敷地内を繋ぐ無数の階段が特徴的だ。階段の踊り場はそれぞれ広場になっており、吟遊詩人や踊り子がよく公演に来るそうだ。どこへ行っても賑やか、かつ心の安らぐ場所がいくつも隠れており、観光地としても非常に人気だという。

「思い出した。あの天井、何百年も前に“術師”が造ったんだ」
「えっ! “術師”ってそんなこともできるのっ?」
「あー、造った……? いや、たまたま出来たんだったかな」

 よく理解できず、マオは不思議そうに彼の顔を覗き込む。ギルは渋い表情で唸ってから、彼女を横目に見遣った。

「長い話はどうにも忘れやすくてな。途中で寝てしまう」
「ふふっ、ちょっと分かるかも」

 商業区にいるガルフォという元気な老人は、マオを孫のように可愛がってくれるが、些か話が長くて眠くなることが多かった。特に彼の昔話のほとんどが彫刻に関する小難しい話だったので、幼かったマオはそれを子守歌に仔猫と居眠りをしていたこともしばしば。今は忍耐力も備わっているため、少しはマシになったことだろう。

「ここから北上したところに大瀑布の落ち口があるんだ。確かそこの水をどうにかして打ち上げて、もう一人の“術師”が空中で固めたとか、そういう話だった気がする」
「へえー……! 曲芸みたいだね。何でそんなことしたんだろ」
「さあな。二層がクソ暑いから、意地でも日除けを造りたかったんじゃないか?」
「失敗したとき大洪水じゃない……?」
「それもそうだな……」

 ギルの何とも可愛らしい憶測と真剣な相槌に、マオはおかしげに肩を揺らす。そうこうしているうちに、のんびりと歩いていた馬はロンダムの入り口付近まで進んでいた。すると仔猫が起き上がり、おもむろにマオの肩に乗る。彼女はその行動を見てから、ハッとして外套のフードを深く被り、仔猫の姿を隠した。

「そうだ、ギル。ここってやっぱり貴族の人もいるよね?」
「ん、ああ。ロンダムの領主と、他にもいくつかデカい屋敷があったと思う」

 やはりかと、マオはちょっぴり残念そうに肩を落とす。貴族が獣嫌いでさえなければ、ノットもこの幻想的な町を自由に歩き回れたものを。ついつい不満げに唇を尖らせれば、先に鞍から降りたギルが彼女の表情に気が付いた。

「どうした?」
「あっ、ううん! 何でもない」

 マオは笑顔で取り繕い、自身も鞍から降りようとした。──そのとき。

「きゃー! ミカエル様よ!」
「ミカエル様ぁー!」

 町の奥から大きな歓声が上がった。その騒々しさにマオは思わず驚き、鞍からずり落ちる。正面にいたギルは目を丸くしつつも、咄嗟に反応して彼女を抱き止めた。……のは良かったが、あまりの勢いに二人は額を強く打ち付ける。

「うッ」
「痛ッ」

 鈍い音が鳴り、その場に崩れ落ちる。ギルは何とか彼女から手を放すことなく、座った状態で痛みに耐えていた。二人して悶絶した後、ようやくマオが彼の上から転がるようにして退く。

「ご、ごめんなさい、ギル」
「……気にするな」
「でも凄い音したよ、腫れちゃうかも……」
「それはお互い様だ。後で冷やそう」

 マオが彼の額にそっと触れれば、ギルも同じように彼女の額に手を翳した。痛がる様子も責める気配も見られなかったので、マオは安堵の表情で頷く。そして再び聞こえてきた歓声に、二人は同時に振り返った。

 大きな広場を通過するのは、随分と豪華な馬車だった。武装した騎兵隊がその周りを囲っており、厳重な警備が施されている。ロンダムの住人は我先にと馬車へ手を振り、主に女性が「ミカエル様」と黄色い悲鳴を飛ばす。この町の領主だろうか、とマオは首を傾げたのだが、それはギルによって否定された。

「公爵の息子が来てるのか……うるさいわけだ」
「公爵さま?」
「ああ。最上層に住んでる、何というか……」

 彼は立ち上がるついでに後頭部を掻き、さっと視線を他所に飛ばす。

「……理解できない類の奴だな」

 嫌悪というよりは、純粋に関わりたくないという気持ちがありありと表れていた。女性にこれだけ人気なのだから、さぞかし品行方正で麗しい──ハイデリヒのような人物を連想したマオだったが、そういうわけではなさそうだ。馬車はそのまま町の上層へと向かってしまったので、次第に人混みと歓声も収まっていく。

「ああ、残念……尊顔を拝見したかったわ」
「私ちょっとだけ見ちゃった!」
「ずるいわよ、あなた!」

 マオと同い年くらいであろう数人の娘が、きゃっきゃと会話をしながら通り過ぎる。揃って似たような恰好をした彼女らは、広場の脇にある大衆食堂の扉を開けた。その直後、中から「仕事中だろうが!」という怒鳴り声が漏れ聞こえてくる。彼女らはその場で飛び上がり、慌てて仕事に戻ったようだった。一連の出来事を何となく眺めていたマオの隣から、低い唸り声のような音が鳴る。ギルは長いこと鳴き続けた腹を押さえ、音が止んでから顔を上げた。

「……マオ、ここで用事があるんだったか?」
「え? うん」
「俺も同行した方が良いよな」
「い、行ってくれると嬉しいな」
「だよな……」

 彼の言いたいことを痛いほど察したマオは、大衆食堂を指差して尋ねる。

「……先にそこ行く?」
「良いのか」

 被せ気味に反応したギルに笑いつつ、彼女は頷いた。ギルはとても感動した様子で礼を述べると、やがてこんなことを口走った。

「マオは優しいな。これが副長だったら我慢しろの一言で終わりだ」
「副長……?」
「ああ、頼りになるが怖い人だぞ。未婚のままそろそろ三十路を迎え──」

 刹那、先程のマオとの衝突など比にならない、凄まじい拳骨が彼の後頭部に落ちる。白目を剥いたギルが崩れ落ち、マオは慌ててそれを支えようとしたが、重さに耐え切れず断念。一緒に石畳に座り込めば、正面から大きな溜息が降って来た。

「合流に数日も遅れておいて、その上ゆっくり食事なんて言語道断よ。ギル」

 そこに立っていたのは、全身を鎧で固めた長身の女性だった。真っ直ぐに伸びた美しい薄桃色の髪、同色の強気な眼差し。そして何よりも目を引くのは、背中にある長柄の武器だ。先端に取り付けられたハンマーは、一方が槌の形をしているのに対し、他方は鉤爪のように鋭く尖っている。彼女が放つ威厳と風格から、どこぞの騎士か何かだろうかとマオは呆けてしまった。

「って、あら? 貴女は?」
「ひぇっ、わ、私はその」
「ああ、ごめんなさいね。いきなり殴ったりしないから、そんなに怯えないでちょうだい」

 女性は険しい表情から一転、マオに優しく微笑みかけたのだった。



 ▽▽▽



「──フェルグス? それ、うちの団長の名前よ」

 騒がしい大衆食堂の片隅、がつがつと料理を掻き込むギルの隣で、マオは暫しポカンとしてしまった。向かいに座っている傭兵団副長──アドリエンヌは、長い脚を組み替えてから話を続ける。

「こう見えても一応、傭兵をやっているの。私が副長で、彼はフェルグスの一人息子」
「ええ!? む、息子!?」
「おう」

 此処へ来た目的、すなわちフェルグスを捜しているという旨を告げた直後、そんな返答があっさりともたらされた。まさかの事実にマオが「何だぁ……」と項垂れると、アドリエンヌが溜息交じりにギルを睨む。

「……ギル、自己紹介もしなかったのかしら?」
「そういや名前しか言ってなかったな」
「貴方がちゃんとフェルグス傭兵団の名を出しておけば、彼女の依頼を道中であらかじめ聞けたのにねぇ」
「いたたた」

 テーブル下で脚をぐりぐりと踏まれ、ギルは食事を続けながら悶絶した。

「いや待て、副長。内容ならざっくり聞いたぞ。武装した怪しい連中に狙われてるって」

 な、と視線で確かめられ、未だ脱力感を継続させていたマオは慌てて返事をする。そして、第二層へ上がって来た直後のことや、リンバール城で拉致されたことを話した。

「逃げてる途中、幻夢の庭でサイラムさんに助けてもらったんですけど、そのときに……フェルグスさんを頼れって」
「……なるほど、サイラム殿が」
「あっ、そうだ、これ」

 マオは鞄の中から紹介状を取り出し、アドリエンヌに手渡す。彼女は封筒の印を綺麗に剥がすと、静かに目を通していく。その間、マオはギルに勧められて食事に手を付けたのだが、はたと気付いて彼の方を見遣った。

「ねえ、ギル」
「ん?」
「ギルも、サイラムさんと会ったことあるの? この前は聞きそびれちゃったけど……」
「ああ、あるぞ。もう十年くらい前だが、親父と一緒に」

 なにぶん幼かったゆえに、彼にはあまりサイラムに関する記憶がない。しかし父親の古い知り合いということは認知しており、何か困り事があれば互いに助け合おう、という約束を二人が交わしていたことも知っていた。

「マオを助けるっていうのが、親父の友人が下した判断だ。なら俺もそれを手伝おうと思ってな」

 事も無げに告げた彼は、そこで料理を完食した。出会ったときから感じてはいたが、その殊勝な性格にマオは呆けてしまう。頼み事の途中で長すぎる休憩をしてしまったり、本人がいることに気付かず失言をしたりと、多少抜けてるところはある。しかしそれでも、彼の心には真っ直ぐな芯が通っているようだった。

「……ありがとう、ギル。一人だったらここまで来れてなかったかも」
「そうだな。あんたはちょっとマイペースだし」
「貴方に言われたくないでしょうよ。マオ、この紹介状、預かっても良いかしら? 私から団長に渡しておくわ」

 アドリエンヌの問いに、マオは素直に頷いた。渡してくれるということは、何かしら対応をしてもらえるということだろうか。相手は危険な武装集団で、マオを付け狙う理由もよく分かっていない。何の解決策も思い付かぬまま、身一つで傭兵団を頼っても良いのだろうか。と、そのような不安が表情に出ていたのか、アドリエンヌは苦笑をこぼした。

「……マオ、一人でずっと怖かったでしょう?」
「へ……」
「尾行して、殴って連れ去るなんて女の子にすることじゃないわ。ひっ捕らえて晒し首にしなくちゃね」

 優しい笑顔で恐ろしいことを言っている彼女に、マオとギルは密かに顔を青褪めさせる。しかしながら彼女の言葉には、包み込むような温かさがあるのも確かだった。その雰囲気はまるで母──いや、彼女は未婚だった。姉と表現すべきだろうかと、マオは経験したことのない感覚に戸惑い、両手を軽く握り締める。

「でも残念なことに、誰かさんが合流に遅れたおかげで、団長はもうロンダムを発ってしまったのよね」
「残念だな」
「ギル」
「あ、アドリエンヌさん、遅れたのは私が一緒だったから……!」

 マオが慌てて仲裁すれば、アドリエンヌは呆れた様子で首を左右に振る。そしてギルを指差しては、言い聞かせるように強く告げた。

「あのね、マオ。ギルは常習犯なのよ。集合時間は守らないわ依頼途中で寝るわ、他にも前科は沢山あるわ」

 それは失礼だが何となく察しがついていた。

「団長から教育を任されている私にとっちゃ、手が焼けるなんて生易しいものじゃないの」
「悪い。二層は暑くて体力が持たん」
「三層だと涼しくて眠くなるとか言うんでしょうが」
「何で分かったんだ?」

 いけしゃあしゃあと返してくる彼に、アドリエンヌはもう何も言うまいと額を押さえる。さながら姉弟のような息ぴったりのやり取りに、マオは自然と笑ってしまっていた。

 知らずのうちに緊張も解け、マオはなかなか手を付けられずにいた料理を見遣る。柔らかいパンと酸味の強い赤色のスープに、濃厚なチーズも添えられていた。今更ながらその香りをはっきりと嗅いだおかげで、彼女の腹が小さく鳴る。微かに耳を赤くしたマオに、アドリエンヌは笑いながら声を掛けた。

「ゆっくり食べて良いわよ。代金は私が持つし」
「えっ、でも」
「気にしないで。ギル、後で他の団員を北門に集めてちょうだい。揃い次第、出発するわ」
「了解。副長はどうするんだ?」
「調査の下準備よ」

 アドリエンヌは「また後でね」と微笑み、長い髪を靡かせて颯爽と去っていく。マオは鎧を身に着けている女性を初めて見たのだが、きらびやかなドレスにも劣らぬ美しさをそこに感じた。加えてアドリエンヌの身長が高いところや落ち着いているところなど、自分には無いものばかりであることも同時に痛感する。

「マオ? どうした?」
「……アドリエンヌさん、格好良いなぁって思って」
「ああ……女であれだけ鎧が似合う人はいないな」
「それだけじゃなくて、ほらっ、あの。落ち着きがあって、大人の女性って感じがして素敵じゃない!」
「おう……よく分からん」

 出会って間もなく、マオの中で彼女はすっかり憧れの人となっていた。マオが暮らしていた第一層には、そもそも若い女性が少なく、四十代以上が殆どだった。幼少期のマオの世話をしてくれた者も多く、感謝こそすれど憧れの的とは少し異なる対象だったと言えよう。マオの中で「格好良くて素敵な女性」という新しい枠組みが設立されたところで、不意に隣からこんな言葉が聞こえてきた。

「まあ、凄い人には変わりないな」
「え?」
「何でもない。マオ、飯食ったらちょっと付き合ってくれ」

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