プラムゾの架け橋

第三章

 25.

 からりと晴れた青空。遥か彼方まで伸びる塔、囲うは白き山脈。壮大な景色を視界の左手に置けば、次第に深い谷が見えてきた。そっと覗き込むと、谷底には大きな川が流れている。水の流れる方向を見遣り、周囲を一瞥してから歩き出した。


「良かった、こっちで合ってるみたい……」

 マオは小さく溜息をつき、外套のフードを被る。眩しい陽射しを遮ることで、少しでも暑さを和らげたいところだが、なかなか汗は治まらない。それというのも、彼女はつい先ほど幻夢の庭を駆け抜けてきたばかりだった。ノインの──“術師”による不思議な奇跡を目の当たりにした彼女は、ゆっくりと歩くことで呼吸を落ち着かせていく。

 木陰を繋ぐように歩いていると、小鳥の囀りが聞こえてきた。見上げれば、鳥の巣らしきものを捉える。雛鳥の必死に鳴く姿が視界から外れると、葉の隙間から強い光が射し込んだ。反射的に目を瞑ったマオは、顔を前に戻しつつ口を開く。

「……ノット」
「みゃ」

 肩に乗っていた仔猫は、返事と共に草むらへ飛び降りた。そしてマオの方をちらりと振り返ったので、彼女はその薄氷色の瞳に微笑みかける。

「また助けられちゃったね。ありがとう」
「みー」
「……あれ、何だったのかな?」

 走っている最中はよく理解できなかったが、マオはあのとき、ノインの術によって“階段”と似た空間──否、そこに放り込まれたと考えられる。幻夢の庭は“階段”とほど近い稀少例であると少女から聞いていたものの、己の身に起こったことを俄には信じられなかった。しかし先の見通せぬ白い霧、マオの行方を導く暁光。朽ちた遺跡と星空は見えなかったが、体感としては殆ど同じだった。あの空間が“階段”であった可能性は高いと言えるだろう。

「でも前は、あんなの……」

 ──おいで、マオ。あの地へ、プラムゾへ。

 マオの前に立ち塞がったのは、誘惑の囁き。自身と全く同じ姿をした“何か”だった。ただの幻覚と片付けることができれば楽なのだが、マオもそこまで図太い神経はしていない。自分に語り掛けられる経験など勿論なかったので、彼女は眼前に迫る“何か”に強い恐怖を感じたのだ。

「みぃ」

 仔猫が左足に擦り寄る。足首の辺りに額を押し付けており、マオはその仕草を見て眉を下げた。得体の知れないモノにすっかり硬直してしまったとき、彼女は仔猫に噛まれたことで我に返ったのだ。

「痛くないから大丈夫だよ。ちゃんと歩けてるでしょ?」

 マオは大袈裟に歩幅を大きくして見せる。仔猫の牙が非常に鋭いことは先日確認したばかりだが、靴の上からだったということもあり、素肌を裂くまでには至らなかった……と思う。マオは大きな木の幹に片手を突くと、おもむろに左足のブーツを掴み、引き抜く。

「ほら、傷もない」
「みゃあ」

 仔猫が嬉しそうに鳴いたので、マオも釣られて笑みを浮かべる。ブーツを履き直し、再び歩みを再開させようとしたときだった。


「──……誰だ?」


 ピタッと動きを止め、マオは周囲を見渡す。長閑な草原と木洩れ日、微かに聞こえる水流の音。風景の中に人影は見当たらず、空耳だったのかと首を傾げた。

「……みゃー」

 すると、木の幹を迂回した仔猫が高く鳴く。その木はマオが両手を広げても全く足りないほどの大きさだ。背の高い草を掻き分けつつ、仔猫の元まで向かってみる。やがて現れたのは、だらしなく木に凭れ掛かっている青年だった。彼はマオの姿を捉えると、親しい友人にでも挨拶をするかのように手を挙げる。

「こんなところで珍しいな。あんた一人か?」
「え? はい……こんなところ?」

 寝起きだったのか、彼は大きな欠伸をして立ち上がった。丈夫そうな半袖の上着に、革製の胸当て。腰には一本の剣がある。あまり綺麗にまとまっていないこげ茶色の髪を見上げながら、彼も旅人だろうかとマオは首を傾げた。

「ほら、幻夢の庭が近いだろ。大抵の奴は馬車でさっさと通り過ぎる」

 彼が指差した方向を見遣れば、遠くに緑色の深い森が聳えている。マオが何と説明しようか迷っていると、それよりも先に青年が口を開いた。

「……まあ、人ぐらい通るか。ところで何処に行くんだ?」
「あ、ええと……ロンダムに行く途中です」
「そうか。最近はなにかと物騒だから気を付けろよ」
「ありがとうございます……」

 言動は無愛想だが、親切な人物である。それに眠気が勝っているせいで分かりにくかったが、よく見れば精悍な顔立ちをしていた。ゆえにマオの彼に対する第一印象は、「何だかとても健康そう」という間の抜けたものだった。

「……ちょっと待て、ロンダム?」
「はい?」

 彼は「あれ?」と不思議そうに顎を触る。そしてぼーっと宙を眺め、小鳥が彼の頭に舞い降りて数秒経ったのち、ようやく何かを思い出したようだった。

「そうだ。俺も早くロンダムに戻らないと駄目だった」
「戻る……?」
「ああ、親父の頼み事で西方の村に行って……あまりの暑さにここで休憩して」

 気付いたら木陰で熟睡していた──というところだろう。しまったと言わんばかりに頭を掻いた青年は、しかしそれほど焦る様子もなくマオを見下ろす。

「あー、あんた、どうやってロンダムに行くつもりだ? 馬車か?」
「はい。幻夢の庭の東にある村から……」
「なら目的地は同じだ。起こしてくれた礼に送ろう」
「え!?」
「不要か?」

 マオは驚いたものの、すぐに首を横に振る。ノインから村までの行き方は教わったが、それでも心細さは拭えない。初対面の人間を容易く信用するのはいかがなものかとも考えたが、よく木陰で熟睡した経験のあるマオは彼に親近感が湧いていた。加えて彼女と同い年くらいというのもあり……とりあえず村まで一緒に行ってみて、父親の頼み事とやらが本当ならば信じても大丈夫なのではないだろうか、と。

「あの、二層に来たのは初めてなので……一緒に行ってくれると助かります」
「分かった。……そういえばもう一人いなかったか?」

 彼は仔猫に語り掛けるマオの声を聞いたのだろう。ノットを抱き上げて見せると、彼は目を丸くした。まじまじと黒い毛並みを観察してから、どこか感動したように告げる。

「……猫だ。初めて見た」

 途端に少年のような反応を示した彼に、マオは思わず笑ってしまう。彼女の態度に別段気を悪くすることもなく、彼は心底感動した様子で「いいものを見た」と呟いた。しかし次の瞬間、不意に彼は表情を引き締め、マオから視線を外す。険しい眼差しにマオが硬直したのも束の間、幻夢の庭の方から数人の男が向かってくることに気が付いた。

「ああ、失礼。少しお尋ねしたいことがありまして」
「何だ?」

 彼はマオをさりげなく背後に隠しつつ応じる。マオがよく分からずに縮こまっていると、男がにこやかに言葉を続けた。

「青い衣を着た、栗毛の女性を見ませんでしたか?」
「!!」

 心臓が跳ね上がる。全く見覚えがないが、彼らはマオを攫った集団だろう。更には幻夢の庭方面から歩いてきたのだから、そうであると断定するには十分すぎた。マオが焦りと恐怖で逃げ腰になった瞬間、青年が後ろ手にその腕を掴んだ。

「目立つ赤い瞳をしているのですが……」
「いや、残念ながら見てないな」
「……そうでございますか」

 男はちらりと、青年の後ろに隠れているマオを見遣る。しかし彼女の黄色いスカートを確認しては、怪訝な表情をにじませた。

「失礼ですが、そちらのお嬢様は?」
「俺の妹だ。人見知りでな、不快に思ったのなら代わりに謝る」
「ああ、いえ、構いませんよ。それでは」

 彼らが遠ざかっていく姿を見送り、やがて声の届かない距離まで離れた頃、青年はくるりとマオの方を振り返る。そしておもむろに彼女のフードを指で押し上げた。

「……あいつらが捜してたの、あんたのことか?」

 珊瑚珠色の瞳を確認し、彼は静かに尋ねてくる。マオは迷ったものの、小さく頷いた。その上で、事情を知らないにも関わらず、嘘をついて誤魔化してくれたことに礼を述べる。

「理由は分からないけど、あの人たちに捕まって……幻夢の庭から逃げて来たんです」
「……武器をいくつも隠し持ってたみたいだぞ。よく逃げられたな」
「えと……森の中で、運良く助けてもらったので」

 マオがそう告げた途端、青年はきょとんとした面持ちで彼女を凝視した。しばしの黙考の末、彼は右手を差し出す。いきなり握手を求められ、彼女が困惑していると。

「サイラムが助けたんだな? なら俺もあんたを助けよう」
「へ」
「俺はギル。ここからロンダムまで、無事に送り届けることを約束する」

 先程までの眠そうな顔は何処へやら、頼りがいのある申し出に暫く驚いてから、マオはあわあわと仔猫を降ろす。青年──ギルはどうやらサイラムと知り合いのようだ。恩人と関わりのある人物、それだけでマオの彼に対する信頼は強固なものとなっていた。加えて、あの物騒な連中から追われている彼女に、こうも危険を顧みず親切にしてくれる者は少ないことだろう。それらのことを踏まえつつ、マオはそっと握手に応じた。

「わ、私はマオです。ご迷惑を掛けると思いますが、よろしくお願いします……っ」
「ああ。よろしく、マオ」

 笑顔こそ浮かべなかったが、ギルはしっかりと手を握り返す。その後、足元にいた仔猫にも「よろしくな」と律儀に挨拶をした彼は、仕切り直しと言わんばかりに川の下流を指差した。

「村まではすぐに着く。けど、さっきの奴らと鉢合わせになる可能性が高いな」
「あ……た、確かに」
「到着時間を遅らせるとなると、馬車は明日になってしまうし……あ」

 ギルは閃いた様子で声をあげたものの、すぐさま苦い表情を浮かべる。ちらりとマオを一瞥しては、神妙な面持ちで尋ねてきた。

「マオ、馬車に乗った経験は?」
「? ありますよ」
「揺れで酔ったりしたか?」
「いえ……」
「そうか。なら大丈夫……だと思う」



 ▽▽▽



「──大丈夫じゃない!!」

 ひええ、と小さく悲鳴を漏らしながら、マオは柵の外側に飛び出した。そのすぐ傍を猛スピードで駆けて行ったのは、興奮状態の大きな馬。そしてその後ろを中年男性が全力で追いかけている。手綱を掴もうとしているのだが、なにぶん動きが激しいので、男性はド派手に振り回されて転がった。

「ったはァー! こいつぁ近年稀に見る暴れ馬じゃあ! わし一人じゃ捕まえられん!」
「他にいないのか?」
「すまんなぁ、ついさっき大人しい奴は貸しちまった」

 マオとギルがやって来たのは、幻夢の庭から東に真っ直ぐ向かったところにある、旅人用の馬宿だった。各層にはこういった馬宿が点在しており、比較的安価で馬を借りることができるという。借りた馬を返すときは何処の馬宿でも構わないが、その場合は別途料金が掛かるようだ。ギルは何度かこの馬宿を利用したことがあるそうだが、たまに気性の激しい馬が回ってくるらしい。宥めるのに時間を要するのは勿論、懐いたら懐いたで気持ちよく大暴走してしまうそうだ。

「でもこいつは脚が強ぇからな。休憩はそんなに要らねぇと思うぞ」
「それは良いが、暴れ過ぎだ」
「あんちゃんの手腕が試されるな!」

 がはは、と元気に笑う馬宿の主人を見下ろし、ギルは溜息をついた。ベルトから剣を外すと、柵の外にいるマオにそれを預ける。流れで受け取ってしまったマオは、ずしりと重い剣を慌てて両手で抱えた。そして視線を前に戻せば、柵内を駆け回る暴れ馬を見据え、準備運動をするギルの背中がある。

「え、え!! その馬にするんですか!?」
「他にいないなら仕方ない。取り敢えず捕まえる」
「危ないですよっ」
「心配するな、何度かやった」

 何度も馬と死闘を繰り広げたのかと、マオはゾッとした。

 その後、ギルと暴れ馬の危険すぎる対話が始まる。彼が近づけば、馬はばたばたと跳ねたり前脚を高く上げたりして威嚇した。暫しの睨み合いと威嚇を繰り返した後、動きが止まった一瞬の隙を突いてギルが手綱を掴む。そのまま素早く鐙に足を掛けたかと思えば、華麗に鞍へ跨ったではないか。

「わ……っ」
「ほぉ!」

 マオと馬宿の主人が、同時に感嘆の声をあげる。その間に馬が勢いよく走り出し、ギルを振り落とそうとする。彼は落ち着いた様子で手綱を操り、走る速度を次第に落としていく。柵の中を何周か走らせる頃には、馬はすっかり大人しくなっていた。

「……よし。もう大丈夫だろ」
「すげぇなあ、あんちゃん!」

 見事に馬を手懐けたギルは、馬宿の主人に料金を渡す。その際、誰も借りようとしなかった暴れ馬だったので、いくらか金額を割引してもらえたようだった。「まいど!」とやはり元気な主人に見送られ、馬宿の外に出たマオはじっと馬を見詰める。

「怖いか?」
「え、ええと……少しだけ……」

 素直に頷いたマオに対し、ギルは思案げに視線を他所へ飛ばした。やがて、彼女の肩に乗っている仔猫を指差し尋ねる。

「そいつのことは怖いか?」
「へ? いえ、全く」
「じゃあ一緒だ。無闇に怖がれば馬にも伝わるぞ」

 事も無げに告げた彼は、先に馬に跨って見せた。差し出された手とギルの顔を交互に見比べてから、マオは大人しく待ってくれている馬に触れる。

「の、乗らせてもらうね……!」

 無駄に意気込んで語り掛ければ、馬の尻尾が一度だけ振られる。その仕草をぽかんと見詰めていると、頭上から小さな笑い声が聞こえてきた。何とも間の抜けた表情をしていたことに気付き、マオは恥ずかしげにギルを見上げる。彼は笑みを引き摺ったまま、穏やかな表情でマオの手を引いた。

「大丈夫だ。ほら」
「あ、わわっ」

 引っ張られるがままに鞍へと跨れば、普段よりも随分と視点が高くなる。彼女はギルの背中に掴まりつつ、スカートが皴にならないように座り直した。するとギルが馬をゆっくりと走らせたので、つい背中を強く掴んでしまう。

「……進んでる……」
「そりゃあ馬だからな」
「でも、二人も乗せて重くないのかな、って」
「種類にもよるが、この大きさなら余裕だろう。……マオ」

 ずっと馬を見ながら話していたマオは、呼びかけに応じて顔を上げた。迎えたのは、落ち着きのある紫色の瞳。ギルはすぐに顔を前に戻してから告げる。

「それぐらい砕けた感じで話してくれないか? 改まった態度はどうにも苦手でな」
「え、でも……」
「俺は平民だし、あんたと歳もそんなに変わらないだろ? 楽にしてくれ」

 彼に言われて、はたと気付く。マオは元々人見知りをする性格ではないのだが、ここ最近接したのが貴族だったり怪しい人物だったりしたので、何かと言葉遣いや態度に気を遣っていた。それは緊張というより、萎縮と言った方が正しいかもしれない。いずれにせよ、ギルはどこか堅苦しい雰囲気をマオから感じていたのだろう。

「……そうですね。……あ、そうだね」
「硬いな。とりあえず風にでも当たって気分転換するか」

 マオは少し遅れて口調を和らげたのだが、ギルは食い気味にやれやれと手綱を高く持ち上げる。そして力強く打ち下ろせば、本領発揮と言わんばかりに暴れ馬が嘶く。

「え? ──ちょ、ちょっ待って、ギル!? ひゃあああああ!?」

 馬は二人も乗せているとは到底思えないような、とんでもない速さで走り出した。ギルの腹部に腕を回し、振り落とされぬよう必死に掴まる。もはや「風に当たる」とかいう次元ではなかった。強風でフードが外れると、マオは思わず大声で叫ぶ。

「は、速い! 怖い!!」
「みゃあー」
「怖くない怖くない。顔上げてみろ」

 ギルの呑気な声に促され、恐る恐る顔を上げる。そっと片目を開いたマオの視界を、一瞬でいくつもの木々が通過していく。彼女が両目を大きく開けば、それを待っていたかのように視界も広がる。太陽の光を反射し、白く光る草原。列を成して上空を並走する鳥の群れ。自身が風になってしまったかのような錯覚を抱き、マオは珊瑚珠色の瞳に光を湛えていく。

 途端に静かになった背後をちらりと窺ったギルは、彼女の呆けた横顔を見て微かに笑う。少しだけ速度を落としつつ、爽やかな風と共にロンダムを目指したのだった。

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