プラムゾの架け橋

第三章

 24.

「早くしなさい」

 頬を容赦なく打たれ、踏ん張ることもできずに崩れ落ちた。叩きつけられたボロ布を掴み、痣だらけの肌を隠す。既に主人の姿は部屋から消え失せ、冷たい静寂がそこに落ちていた。赤黒く変色した腕を摩り、億劫な動きで立ち上がる。身体は元の肌色を忘れてしまったが、顔だけは辛うじて綺麗なままだった。鏡に映った自身の不自然な姿を見詰め、少女は濁った瞳を伏せる。ついで襲ったのは猛烈な吐き気。思わず前のめりになったものの、空の腹から出るものは何もない。苦しげな咳を何度か繰り返しつつも、少女はボロ布──衣服を身に纏った。

「よう、お嬢さん」
「!?」

 剥き出しの肩に、大きな手が触れる。毎日少女を痛めつけている手ではなかった。それでも少女の恐怖を煽るには充分で、反射的に体を震わせてしまう。もつれた足で振り返り、慌ただしく尻餅をついた。そして鏡の方へ後ずさる。一連の行動を見下ろしていた男は、思案げに指先で顎を擦った。

「こりゃ重傷だな。なに、殴ったりしねぇから安心しな」
「ひ……っ」

 潤いを失くした灰色の髪を掻き分け、怯える少女の顔を露出させる。逸らそうとすれば頬を挟まれ、紅蓮の瞳が正面から見据えてくる。瞼を強く閉じれば、暗闇の向こうで呆れたような溜息がなされた。

「顔だけは綺麗にしときました、ってか。髪も痛んじまって、あーあ……」

 吐息には多少の苛立ちが感じられた。しかしながら少女に触れる手は優しく、主人のような乱暴さはない。戸惑いながらも瞼を開けると、男の大きな背中がそこにある。

「伯爵に買い取りは減額だと伝えとけ。こんな傷だらけで商品になるわけねぇだろ」
「減額って、どれくらいですかね?」
「あ? 自分で考えろ」
「んー、じゃあ五分の一かな? ついでに彼女の治療費でもごっそり請求してタダにしてもらいましょうか」
「俺以上の族だな、お前」

 それほどでも、とわざとらしく照れたのは、屋内だというのに外套を身に着けたままの少年。彼は少女の視線に気が付くと、その左頬の大きな傷を歪めて笑って見せる。

「いきなり押し掛けてごめんね。来るタイミング遅いし、この人にも勝手に触られるし最悪だよね」
「うるせぇな」

 じっと二人の会話を聞いていた少女は、何となく状況を掴み始めていた。自分はこの屋敷から追い出される。つまり売られるのだ。主人は──伯爵は、使い古した玩具に飽きたのだろう。ようやく解放されると知った少女に、残念ながら安堵など訪れない。この屋敷から逃げても、また少女は別の人間に買い取られるのだ。そこでまた、今と同じかそれ以上に苦しい日々が待っているかもしれない。

「……の」
「ん?」
「また、売られる、の」

 空腹と眩暈が、少女の声を途切れさせる。覇気のない虚ろな瞳を見返し、赤毛の男は芝居じみた動きで肩を竦めた。

「そうだな。……だが、ここよりはマシなとこを見つけてやるさ」
「……」
「ま、しばらくはウチの施療院で療養生活だ。ちょいと失礼」
「!」

 少女の背と膝裏に腕を差し込み、軽々と抱き上げる。そのわずかな間に少女は手足をばたつかせたが、自身の二倍ほどある屈強な腕に抗えるはずもなく。まるで猫でも宥めるかのように背を撫で、男はくるりと踵を返した。

「まるで拉致現場を見ているようだ」
「馬鹿言ってねぇでさっさと伯爵からタダ買いしてこい」
「あ、治療費取っていいんですね」
「ごねたら違約金とでも言えばいい」
「はーい」

 また後でね、と傷跡の少年は呑気に手を振る。もちろん男にではなく、少女に向けて。美しい青色の瞳が視界から消えれば、男が大股に歩きだした。正直なところ男性には触れられるのも嫌なのだが、少女には自分で歩ける自信もない。少しの我慢だと言い聞かせ、乾燥した唇を噛み締めたときだった。

「サイラム=ヴァイスリッター」
「……?」

 呟かれた名は、聞き覚えのないものだ。少女がこれといった反応も示さずにいると、男が構わずに話を続ける。

「競りには出てこねぇが、俺を贔屓にしてくれてる顧客でな。久しぶりに声かけてみるか」

 それを最後に、男は口を開かなかった。

 サイラム=ヴァイスリッター。それが少女にとって、最後の主人となるのだった。



 ◇◇◇



 音もなく色を変える植物を眺めながら、隣を歩く少女をちらりと窺う。黒いワンピースに黒いブーツ、黒い髪飾り。七色に輝く幻夢の庭に、不思議と馴染むその姿。砦の中では分かりづらかったが、少女の灰色の髪はとても艶やかで──時折、黒い毛が混ざっている。

「どうかされましたか、マオ様」
「あっ、ごめんなさい……ノインさんの髪、黒も混ざってるんだなぁって」

 マオが正直に告げると、ノインは三つ編みにしたおさげを一瞥した。

「……元は黒髪でしたので」
「へ? そうなんですか?」
「気付けばこの色になっておりました」

 大した理由ではないと少女は言う。前の屋敷で過ごしていたら、いつの間にか髪の色が抜けてしまった、と。マオは少しの間その意味を考え、ハッと眉を下げる。

「ご、ごめんなさい。私、何も考えずに」
「いいえ、お気になさらないでください。もう過ぎたことでございます」

 本人がさっぱりとしている傍ら、マオは無駄にそわそわしてしまう。気分を害した様子はなかったが、嫌なことを思い出させてしまった可能性は高い。しかし何度も謝るとかえって鬱陶しいかも……などとマオが考えていたら、不意に少女が口を開く。

「マオ様は」
「は、はいっ!?」
「……“階段”で迷子になられたと、仰っていましたね」

 元気よく返事をしてから、マオは問われた事柄に呆けつつ頷く。ヴォストの町にあるオルトアの門をくぐり、“階段”に足を踏み入れた瞬間のことだった。白い霧に視界が塗り潰され、手を繋いでいたはずのハイデリヒともはぐれてしまった。そしてあの朽ちた遺跡が、と言おうとしたところで、マオは口許を押さえた。

 ──人前で言わない方がいい。

 リンバール城にて、傷痕の青年から言われたことを思い出したのだ。“階段”で見た不思議な遺跡のことは、無闇に言いふらしてはならないと。何故口外してはならないのかという理由は聞くことができなかったが、ノインにも黙っていた方がいいのだろうか。いやしかし、既に“階段”で迷ったことは今朝ポロッと告げてしまったし、今更な感じもある。マオが一人で唸っていると、その様子を見かねたノインがそっと告げた。

「“階段”には、明確な目的を持って真っ直ぐ歩くほかに……もうひとつ、移動する手段がございます」
「……?」
「しかしそれは、誰にでも出来ることではありません」

 少女の言葉に首を傾げ、マオはよく分からないまま相槌を打つ。“階段”の歩き方が他にもある、とはどういうことだろう。あの空間はプラムゾが創り出した奇妙極まりない場所で、数多の学者が何百年もかけて研究を引継いでいる、とハイデリヒは言っていた。つまり“階段”の安全な移動方法もひとつしか確立されておらず、その他の手段など殆ど知られていないことだろう。しかし安全と言われている方法で迷子になったマオにとっては、どちらでも同じのような気がした。

「こうやって歩くのとは違うんですか?」
「歩行は同様でございます。目的を設定することに加えて──!」

 そのとき、ノインが足を止める。マオも釣られて立ち止まり、どうしたのかと少女の顔を窺う。灰色の双眸は周囲を巡り、ゆっくりと後方へ向けられた。あまりにも剣呑な眼差しにたじろぎつつ、マオが恐る恐る振り返った矢先のこと。


「ああーッ!? お、お前!!」


 二人を指差し、大きな声で叫んだのは、緑色の髪をところどころ跳ねさせた少年。どことなく見覚えがあったマオは、「えっと」と頬を掻きながら記憶を遡る。だが少年は悠長に待っているつもりなどないのか、おもむろに短剣を引き抜いたではないか。マオがぎょっとした途端、ノインが即座に彼女の肩を引く。

「また足を踏み入れたのですか。懲りない方ですね」
「うるさいっ、それよりお前、そいつのこと匿ってたんだな!?」
「あっ! 私を攫った人だ!」
「思い出すの遅ぇよ!」

 少年──メドに怒鳴られてしまい、マオは思わず謝った。彼の頬には、ノットに引っ掻かれた傷が小さく残っている。痛かっただろうに、とついつい哀れんでしまうのは、予想以上に彼が幼いためだろうか。商業区で暮らすヒューゴよりは年上だろうが、マオやノインと身長もそれほど変わらず、声も高めだった。こんな少年が自分を攫ったのかと驚いていると、マオは急に腕を引かれて走り出す。

「わわっ、ノインさん!」
「マオ様、お先に外へ。あの少年のことはお任せください」
「えっ……でもあの子、帯剣しひゃあ!?」

 耳の横を小さなナイフが勢いよく通過し、木の幹に突き刺さる。振り返れば、メドがこちらを追いかける姿。見るからに身軽な彼は脚も速く、数秒と経たずに二人に追いつくことだろう。マオが慌てたのも束の間、彼女の手を繋いだまま、ノインが通りがかった大きな植物の茎を掴む。

「塞ぎなさい」
「!? え」

 茎から手を離せば、周囲の植物が一斉に輝き始める。白い光が浸透したかと思えば、彼らはまるで動物のごとく這い、メドの行く手に立ち塞がったのだ。これにはマオもメドも瞠目してしまう。頑丈な隔壁と変化した植物を見上げ、その向こうで少年が吠えた。

「くっそ、やっぱり“術師”か!!」
「じゅ……!?」

 マオが驚愕して見遣れば、少女の頬には赤い石──ミグスが浮き出ているではないか。ノインはそれを手で軽く拭い落とすと、何事もなかったかのようにマオの手を引いた。

「の、ノインさん、じゅ、術師って、ほ、本当ですか」
「……ええ。それよりマオ様、あの者が来る前に脱出を。今回は私が先導いたしますゆえ……走り続けてくださいませ」

 混乱したままのマオの手を強く握り、少女はふと瞼を閉じる。すると再び周囲の景色が白く輝き、今度はマオに向かって収束していく。一体何がどうなっているのかとマオが慌てていると、見覚えのある景色が彼女を包む。“階段”へ足を踏み入れた時と同じ、真っ白な霧がそこには充満していた。

「えッ!? こ、ここ」
「マオ様、お急ぎください。光の方へ向かうのです」
「ノインさん!? どこ!?」

 ノインの姿はどこにも見当たらない。その代わりにマオの背後から強い光が射し込んだ。振り返れば、やはり暁光がそこにある。あれに向かって走ればいいのだろうか。いや、しかしそれではノインを置いていくことになってしまう。もしもあの少年と対峙するようなことになってしまったら──そんな迷いが彼女を引き留めたとき、外套のフードから影が飛び出す。

「みゃっ」
「あ……ノット!」

 仔猫は数歩進んだところでマオを振り返り、そのまま暁光の方へ駆けて行ってしまう。マオは逡巡したが、ここに長く留まってはならないことは本能的に分かっていた。もし、またあの美しい星空と遺跡が現れてしまったら、マオは走ることができなくなるだろう。

 ──走り続けてくださいませ。

 ノインの言葉が響いた直後、マオは仔猫の後に続いた。するとどういうことか、霧がどんどん晴れていくではないか。その光景を目の当たりにしたマオは咄嗟に目を瞑り、出口のみを強く思い描く。ノインから教えてもらったロンダムへの道を、ただひたすらに。それまで浮遊感のあった地面が、次第に硬さを帯びていく。一瞬、まさか遺跡の石畳かと勘違いしたマオは冷や汗をかいたが。

「みゃ!」
「うわ!?」

 仔猫の鋭い鳴き声が飛び、反射的に目を開く。

 そこには、珊瑚珠色の瞳があった。穴が空くほど真っ直ぐに、こちらを見詰める双眸が。マオは理解が追い付かず、目の前にいる“少女”を凝視してしまう。漂う長い栗毛、ゆるやかに微笑む唇、マオの頬に触れる指先。

「……わたし?」

 彼女の行く手を阻んだのは、紛れもなく自分であった。それも鏡に映った虚像などではない。“マオ”は白い衣を身に纏っており、どこか大人びた笑みを深めていく。


「おいで、マオ。あの地へ、プラムゾへ」


 そう囁く声さえも、自身のものと全く同じだった。得体の知れない恐怖を覚えたマオが、気圧されるがままに後退しようとしたとき、彼女の左足に小さな痛みが走る。見下ろせば、仔猫が靴の上から足首のあたりを噛んでいた。かぱ、と歯が離れた途端、彼女は仔猫を抱き上げ、“マオ”の脇を走り抜けた。刹那、その姿は霧散し、跡形も無く消えてしまう。その光景にすら怯えたマオは、今度こそ出口を目指して足を動かしたのだった。



 ▽▽▽



 分厚い壁となった植物を短剣で斬り裂くと、メドはようやく開いた穴に飛び込み、軽々と潜り抜けた。

「くそ、見失っ……」

 悪態をつこうとした彼は、不意に動きをぴたりと止める。視線の先では、七色の植物の陰でうずくまるノインの姿があったのだ。少女の術を警戒しつつ、彼は恐る恐る忍び寄っていく。近くにマオがいないことに舌打ちが漏れたが、それを忘れてしまうほどの衝撃が彼を襲った。

「……!?」

 まず目に入ったのは、そこらじゅうに散らばった真紅の欠片。森の光を反射しているのか、それらは時折輝きを見せる。ついで視線を動かせば、苦しげに呻くノインがいた。その頬や手の平からは、ぽろぽろとミグスが零れていく。異様な姿をまじまじと見つめてしまったメドは、ハッと我に返っては少女に駆け寄った。

「おい、お前!」

 身体を抱き起こしてみると、ノインの瞳が薄く開かれる。少女はメドの姿を捉えるとすぐに眉を顰め、懐からナイフを引き抜いた。しかしそれは力なく手放され、鈍い音と共に草むらへ落ちる。この短時間ですっかり衰弱している様子の少女を見て、メドは戸惑いながらもその肩を担いだ。

「……何の真似です」
「お前、ひとくい……じゃなかった。ヴァイスリッター卿のとこに住んでるんだろ。何処に行けばいいんだ」

 彼の問いに、ノインは無言を返す。視線すら合わせようとしない強情な態度を受け、彼は大きくため息をついた。

「俺はあの女を追わなきゃ駄目だけど、そのついでにお前を殺して良いなんて言われてない! おまけに、今にも死にそうな顔してる奴、放っておけるかよ」
「……」
「仲間に見られると厄介なんだよ! だから早く教えろ、卿にはどうやったら会えるんだ」

 メドは脇の下から回した腕で、華奢な背中をしっかりと引き寄せる。そのまま慎重に立ち上がる途中、至近距離でノインが顔を見詰めていることに気が付いた。不可解だと言わんばかりの眼差しだったが、メドは不覚にもたじろいでしまった。

「な……何だよ、じろじろ見んな」
「……旦那様の元には一人で戻ります」
「また変な術でも使ってか?」

 この少女が幻夢の庭を故意に操作できることは、つい先ほど確認したばかりだ。本気を出せば少年をここから外に吐き出し、自身をサイラムのところまで運ぶことだって可能だろう。何せメドは昨晩、少女の術によってあっという間に森の外まで追い返されてしまったのだから。あのときは訳が分からなかったが、“術師”の仕業ならば納得だ。

「術の反動っていうか……何かあるんだろ。じゃなきゃそんなに弱らないはずだ」
「……」
「……卿を、人喰い公って言ったのまだ怒ってるなら、謝るから。早く言ってくれ」

 ノインは少しばかり目を丸くしてから、どこか疲れた様子で俯く。そして小さく告げられたのは、サイラムのいる古びた砦の特徴だった。メドはようやく得られた返答に安堵したが、ひっそりと怪訝な表情を浮かべる。何故自分がここまでしなければならないのだろう、自分は一刻も早くあの栗毛の娘を追わねばならないというのに──そのような疑念をとりあえず払いのけて、彼は砦を目指して歩き出したのだった。

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