23.
プラムゾでは年に四回、五穀豊穣を祈る日が設けられている。該当する日にはヒェルフの鐘が朝一番に鳴り響くのだが、人々はその音を「節の変わり目」としても捉えていた。
そして鐘が三回目に鳴る日、それが少女の誕生日だと彼は言った。
十歳を迎えた日に渡されたのは、深い青色の衣服だった。客人から贈られた服のような華やかさはなく、ごくシンプルな作りのそれは、何と彼の手作りだという。今まで何となく服を着ていた少女は、その事実を知るなり大喜びした。早速袖を通してみれば、少しばかり丈が長い。彼はそれを見てとても渋い表情をしたが、少女は気にしない様子で飛び跳ねる。
「ありがとう、ホーネルさん! これ、オングさんとお揃いだ!」
「あー……うん。あれは服屋が仕立てたから、しっかりしてるんだけどねぇ」
出来が気に食わないのか、ホーネルは小さく舌打ちをしながらも笑顔を浮かべた。少女がすやすやと眠っている間、彼は夜遅くまで起きてこの服を作ってくれていた。装身具屋の手伝いを進んでやるようになった少女に、多少汚れても目立たない、作業着を用意しようと思い立ったそうだ。その際、参考にしたものがオングの青い服だったという。
「まあ、背が伸びたら丁度良くなりそうだ。飽きたら違うの買って来ても良いし」
「ううん、これがいい」
「物好きだね」
少女はじっと彼を見上げると、裾を両手で軽く伸ばす。見せつけるような仕草に、彼が首を傾げた。
「これ、ホーネルさんがくれたお洋服」
「そうだね」
「しかも、オングさんとお揃い」
「うん」
少女は突然にへらと笑う。とても嬉しそうな笑顔に彼が面食らったのも束の間、少女は屋敷の玄関に駆けて行く。扉を全身で押し開け、そこで日向ぼっこをしている仔猫を見付けた。
「ノット! 見て見て!」
「みっ」
「似合う?」
抱き上げるついでに階段に腰を下ろし、少女は声を弾ませる。驚いて固まっていた仔猫は、次第に眠そうに目を細め、呑気な鳴き声を返した。特に言葉は通じていないが、少女は「ありがとー!」と元気にお礼を述べたのだった。
◇◇◇
青い作業着を小さく畳み、鞄の底へ押し込む。姿見に映るのは、半袖の白いブラウスと薄い黄色のスカート。動きやすいよう、下には細身のズボンを穿いておいた。今まで衣服にはあまり頓着しなかったはずだが、服選びを割と楽しんでしまっていたことに気付き、ひとり恥ずかしそうに頬を叩く。
「ぜ、全部可愛いのが悪い」
この衣裳部屋、服の数はもちろん種類も豊富で、第一層の商業区ではお目にかかれないような代物も多数あった。流行りの服装にそれほど興味がないマオでも、これだけ多彩であればいろいろと目移りしてしまう。……否、興味が薄いというよりも、同世代の女性が周囲にいなかったおかげで、流行りから取り残されていたと表現した方が適切かもしれない。
「……あっ、ノット、終わったよ!」
ぼーっと姿見に映る自分を眺めていたマオは、扉前で寝ている仔猫に声をかけた。むくりと起き上がってからの、寝起きの伸びはお決まりの仕草だ。長いこと待たせてしまったので、マオが笑い雑じりに謝ろうとしたとき。
「ん……?」
鞄の中身を整理していると、小さな感触が指先に当たった。あの錆びた腕輪かと思ったが、それとは別にもう一つ、まるで隠れるようにして埋まっていたそれを引き抜く。現われたのは鮮やかな朱色、金色の縁、女性の横顔──繊細な彫刻が施されたカメオだった。
「おじいさんが落としたカメオ……鞄に入れたっけ……?」
記憶では確か、リンバール城でカメオを拾い、見とれていたところを後ろから殴られ気絶してしまった。つまり鞄の中に入れた覚えはなかった。もしかしたらマオを襲った人物が、このカメオを彼女の所有物であると勘違いし、鞄に突っ込んだのかもしれない。連れ去った痕跡を残さないためにも、マオに関連するものは出来るだけ回収したことだろう。
「……これも返さないと」
ただ、画家の老人──ヒャルマンは「捜しても見つからない」と言われている人物なので、カメオを届けることができるのは先になりそうな予感がした。この前はリンバール城で運良く再会できたものの、また巡り合える保証はどこにもないのだから。とにかく紛失だけは避けなければと、マオは鞄の内ポケットにカメオを収納しておいた。するとその時、タイミング良く扉がノックされる。
「はいっ、どうぞ」
「失礼いたします」
マオの返事を受け、扉を静かに開けたのはノインだった。少女はマオの姿をサッと確認すると、片腕に引っ掛けている沢山のリボンから一本だけ引き抜く。余った分を傍らのテーブルに乗せてから、おもむろにマオの肩を掴んだ。
「へ?」
「そちらにお掛けください」
小さな椅子を勧められ、マオは促されるままに腰を下ろす。するとノインはどこに隠し持っていたのか、木製の櫛とヘアピンを取り出した。髪の毛を整えるための道具を目にして、そういえばまだ結っていなかったなと、マオが考えたのも束の間。いきなり正面のテーブル上に大きな鏡が現われ、更にそれが左右に開き三面鏡となる。暗くて分からなかったが、このテーブルはドレッサーだったらしい。
「…………えっと」
「動かないでくださいませ」
「はい」
その後、ノインは黙々とマオの髪の毛を櫛で解き、側頭部に沿うように両サイドを大きく編み込んでいく。二本の毛束を紐で縛り、結び目をぐるりと裏返す。長い髪をどんどん巻き込むようにして裏返していくと、マオの首回りがスッキリとしていった。
「うわぁ、すごい! ノインさん、器用なんですね」
「いえ。……御髪を切るのは良くないことだと、教わりましたゆえ」
その返答に暫し沈黙したマオは、少女の言わんとしていることを何となく察した。怪しい連中の目を掻い潜るためには、マオの特徴でもある長い髪を切ってしまった方が良い。だがノインはそれを提言することもなく、まとめ髪にすることで印象を変えようとしたのだろう。
「……ありがとうございます。昨日からお世話になりっぱなしで」
「私は旦那様の方針に従っているだけでございます。お礼など必要ありません」
「でも、髪のことはノインさんのお気遣いですよね?」
鏡越しにマオがあっけらかんと尋ねれば、それまで滞りなく動いていた手が止まる。しかしそれも一瞬のことで、ノインはすぐに編み込みを再開した。
「……紹介状は朝食の後お渡しします。出発はいつになさいますか」
全く違う話に転換されてしまい、マオは苦笑しつつも問いに答える。
「フェルグスさんっていう人、ロンダムにずっといるわけじゃないんですよね? だから、なるべく早く行こうと思って。今日中には出ようかなと」
「さようでございますか。でしたら幻夢の庭の出口までお供いたしましょう」
「えっ! あ、ありがとうございます……!」
ノインは髪をヘアピンで固定しながら、幻夢の庭から最寄りの村までの行き方を淡々と話し始めた。幻夢の庭を東へ抜けると、大瀑布から伸びる大きな川が見えるという。水流の方向に沿って──つまり北方へ歩いて行けば、すぐに村へ辿り着けるそうだ。
「昼過ぎに到着することができれば、今日中のロンダム行きの馬車にも間に合うかと」
「分かりましたっ、北ですね」
幸い、この付近は中央階段が必ず視界に入る。プラムゾをろくに歩いたことがないマオでも、あの大きな塔と険しい山脈を目印にすれば、大体の方角を把握することが可能だろう。
「それと、ちょっと聞きたいことが……」
「何でしょうか」
「えっと、幻夢の庭みたいな場所って、いろんなところにあったり……します?」
質問の意図を測りかねたのか、ノインが鏡越しに視線を送って来た。マオは頬を掻きつつ、これまでの体験も交えて説明を試みる。
「私、“階段”で一度迷子になっちゃって。幻夢の庭も同じような空間なんですよね? だから、また知らずに迷い込んだらって思うと不安で……」
「……なるほど」
少女は相槌を打ったが、何やら思案げな様子で瞳を伏せていた。きゅ、と淡い黄色のリボンを結び、マオの髪から手を離す。
「幻夢の庭は外側からでは普通の森にしか見えません。ですがこれは極めて稀だと言われております」
「そうなんですか? ……あ、でもあのぐにゃぐにゃした森は確かに……」
「ええ。第二層の南西にある樹海のように、大抵の場合は空間が歪んでいることが一目で分かるのです」
“階段”を抜けてすぐ、老人と共に見た不気味な樹海。植物が尋常でない速さで再生と死を繰り返しているおかげで、樹海そのものが蠢いているかのようだった。ノイン曰く、空間が歪むとあれぐらい妙な景色になるのが一般的だという。
「あのような樹海はプラムゾの“歪み”と認識していただければ」
「歪み……」
「はい。幻夢の庭もその一種でございますが……ここは“歪み”よりも、“階段”にほど近い稀少例でございます」
それでも“階段”とは性質が異なる、とも少女は述べた。“歪み”と比べて格段に安定した空間を内包しているが、“階段”のように移動手段として機能できるほどの能力は持たない。その幻想的な景色ゆえに「人を誘い込む森」などと言われているが、実際はそのような習性も無いという。空間が歪んでいく過程で、たまたま人間の感性に合う景色が生まれただけだろう、と。
「つまり、そんなに心配しなくても大丈夫?」
「はい。ここが特殊だっただけのことでございます。ロンダムまでの道程で、立入を控えるべき場所は特に思い当たりません」
「そっかぁ、良かった……」
ほっと息をついたマオは、同時に背中を優しく押され、鏡に映った自分の姿を見遣る。胸元や背中にかかっていた栗毛は全て纏められ、スカートと同じ黄色のリボンが後頭部で揺れていた。
「わあっ、髪が短くなったみたい! ノインさん、ありがとうございます」
「いえ。……マオ様」
「はい?」
くるりと上半身だけで振り返ったマオは、少しばかり陰って見える灰色の瞳に気付き、きょとんと笑顔を引っ込める。ノインはちらりと彼女の視線を受け止めると、その場から一歩下がった。
「……朝食が終わりましたら、準備が整い次第、お部屋の前でお待ちください。私が迎えに参ります」
「え? あ……はい、お願いします」
「それでは、食堂の方へご案内いたします」
ノインはそう告げるや否や、手早く道具を片付けていく。その姿を目で追いながら、マオは近くにやって来た仔猫を見遣った。
──あのとき少女は、他に言いたいことがあったのではないだろうか。如何せん表情の変化が乏しいので、確信は得られない。加えて食堂へ向かう間も、朝食を出した後も、ノインが自ら何かを語ることはなかった。単なる思い過ごしかと首を傾げつつも、幻夢の庭を出るときにそれとなく聞いてみようかとも考えた。その前に、だ。
「サイラムさん」
料理を完食したマオは、向かいに座っているサイラムに声を掛ける。彼が会話に応じる姿勢を見せたので、マオはそのまま話そうとして、止まった。そしてすぐに椅子から立ち上がり、小走りにテーブルを迂回。サイラムの椅子の傍までやって来ては、深々と頭を下げた。
「マオ」
「あの、ありがとうございました。改めて、ちゃんと言っておかないとと思って」
顔を上げると、サイラムがどこか慌てた様子で両手をさまよわせている。何か言おうと口を動かしたり、隣の椅子を指差したり。昨晩サイラムと初めて対面したとき、マオはそれまでの恐怖が干渉してか、砦の暗さも相まって非常に恐ろしい人物に見えていた。しかし勇気を持って言葉を交わしてみれば、全くそんなことはなく、寧ろとても心優しい人なのだと気付くことができた。できることならお礼を形あるものとして贈るべきなのだろうが、残念ながら今のマオには手持ちも余裕もない。
「今はちょっと、ごたごたしてて無理だけど……またここに来ます! そのときにお礼をしますっ」
「いら、ない」
「いいえ! 私も大人……とは言い切れないけど……小さな子どもじゃないし、礼節は守らないと」
これでも商人の端の端くれだから、とマオが付け足せば、サイラムが少しの間を置いてから息を吐きだす。呆れられたのかとマオは思ったが、どうやら笑っているようだった。彼はおもむろに片手を挙げると、マオの額にそっと手のひらを翳す。
「……マオ、いいこ。また、おいで」
「! はいっ」
「みゃあ」
元気よく返事をすると、それに併せて仔猫も鳴く。サイラムはマオから手を離すついでに、足元に来ていた仔猫の頭も撫でたのだった。
▽▽▽
別れの挨拶を終え、栗毛の少女は出発の準備に向かった。しんと静まり返った食堂で、サイラムは一人、深い息を吐きだす。先程まで彼女が座っていた椅子を一瞥し、その背後にある壁を見遣った。金色の四角い額縁には、穏やかに微笑む女性が描かれていた。
「──きり、はれる。……すぐに」