22.
朝とも夜とも区別のつかぬ廊下を見詰め、ついに立ち尽くす。そもそも一人で歩こうとしたのが間違いだったのだ。この砦は広い。下手をすればリンバール城と同じくらいの面積を誇るのではないだろうか。いや、もしかしたらこの砦内も幻夢の庭のように「目的」がなければ空間が繋がらない、といった法則が適用されているのでは?
そのような疑問にまで至ったマオは、仔猫を抱えたまま、控えめに目的の人物の名を呼んでみた。
「……さ、サイラムさーん……ノインさーん……」
頼りない声が小さく木霊し、それがまた彼女の不安を更に煽る。もしや昨日あった出来事は夢で、サイラムやノインという人物も幻で、自分は何か人でないものに勾引かされたのでは……幻夢の庭が“階段”と似た構造を持つというのなら、充分に有り得る話だ。
「じゃ、じゃあここは、お、おばけや」
「どう、した」
「わぁーッ!?」
悲鳴をあげて振り返れば、ちょうど通りがかった扉からサイラムが顔を出している。暫しの沈黙を経て、マオは自分が突飛な想像を練り上げてしまっていたことに気付く。ぽかんとしている彼の姿を見てホッと胸を撫で下ろし、慌てて我に返った。
「す、すみません、大きな声出して。サイラムさんたちを捜してたんです」
サイラムは扉を閉めると、ふと廊下の先を指差す。釣られてそちらを見れば、別の通路へ繋がる石造りのアーチが見えた。促されるままにアーチへ歩み寄れば、螺旋状の階段が上に伸びている。マオはこれが階段室だと知り、思わず小走りに中へ入った。大きな城や砦には、こういった螺旋階段を備えた円筒状の部屋が備えられているのだ。戸建ての家屋が建ち並ぶ第一層では、なかなかお目にかかれない代物である。
「わあ……初めて見たね、ノット」
「みゃあ」
リンバール城では庭くらいしかまともに見れなかったので、マオはサイラムの後を付いて行きながら、緩やかな弧を描く空間をまじまじと眺めた。外の光を取り込む射眼が規則的に階段を照らし、映し出された葉の影が動く。幻夢の庭が色を変化させるたびに、この階段室も控えめに華やいだ。ところどころ欠けている階段を上っていくと、一階と同様のアーチが現れる。しかしその先は屋内の廊下ではなく、空を臨むことが可能な歩廊だった。
「……!!」
マオは左手を見下ろし、その絶景に息を呑んだ。中を彷徨い歩いているときは些か不気味だった幻夢の庭が、朝日を浴びて煌めいている。葉が風に揺れるたび白く輝き、次々と鮮やかな色が流れていった。ついつい足を止めて森を眺めていたら、歩廊の先でサイラムがこちらを振り返る。彼の背後には砦の角に当たるであろう、城壁塔が聳え立っていた。その頂部は歩廊よりも更に高く、幻夢の庭を完全に見下ろせるほどだ。
「うえ」
サイラムは一言だけ告げると、木製の扉を開け放ち、階段を上っていった。後を追うべく塔に向かえば、壁にびっしりと蔦が絡みついていることに気付く。そのどれもが真っ赤な花を咲かせており、マオは妙な統一感を覚えた。これは幻夢の庭の植物ではなく、外部から持ち込まれた種なのかもしれない。
中には木造の階段が壁に沿って伸びており、それを支える柱が何重にも交差している。肩がぶつかるほどではないが、先程の階段室より随分と狭い。軋む音を響かせながら、マオはゆっくりと塔の頂上を目指した。やがて朝の眩しい光が彼女の栗毛を透かせれば、じっと遠くを眺めるサイラムの姿を捉える。マオが階段を上り切ると同時に、彼は傍らに置いてある椅子を勧めた。何度か彼の顔を目で窺ってから、そこに腰を下ろす。
「ありがとうございます。……ここ、物見台ですか?」
「そう。よく、みえる」
サイラムの見詰める方向を追えば、澄み渡った青空の下、鮮やかな緑色が広がる。あの特徴的な七色がどこにも見当たらないことから、どうやらこの物見台は幻夢の庭の外として高度のようだ。
「なに、ようじ」
ぼうっと森を眺めていると、サイラムが静かに尋ねてきた。自分の用事は何だったかと、森の向こうにうっすらと見えた流身に目を留める。ここから大瀑布が見えたのかと驚きつつ、マオはど忘れしていた用事をゆっくりと思い出していった。
「えっと……あ、そうだ。リンバール城までの道程を聞きたかったんです」
「……すいじょう」
「すい?」
サイラムはぼそりと呟くと、太く骨ばった指先で大瀑布の流身を指す。そこから腕を右側──中央階段の方へとずらした。険しい山脈の麓あたりを指差し、彼は途切れ途切れに説明してくれた。
「にわ、ぬける、きた。ちかい」
「……幻夢の庭を北から出れば、近い?」
確認すれば、サイラムが頷く。しかし彼は少々不安げな様子で指先を折り曲げ、ついでに首も傾げてしまう。マオが中央階段の方角と彼を交互に見詰めると、ようやく頭を整理し終えた彼が再び口を開いた。
「……ノイン、いった。マオ、さがす、だれか」
「え?」
「そと、たくさん、いる、きっと」
マオの背筋が冷えた。失念していたわけではなかったが、彼女は何者かに拉致されてここまで来たのだ。標的だった彼女がひとり脱走したとなれば、この付近を捜索するのは当然だろう。もし幻夢の庭を北から出たとして、そこであの者たちがマオを待ち構えている可能性は十分にあるのだ。一晩経てば諦める、などという生易しい考えが、マオの心のどこかにあったことは否めない。
それと同時に、サイラムが昨晩「きけん」の一点張りだった理由を知った。彼はあの時点ですでに、マオが誰かに追われていることを知っていたのだろう。ゆえに彼は自ら砦を出て、迷子だった彼女を助けてくれた。──己の暮らしが脅かされることも厭わずに。
「……マオ」
知らずのうちに俯いていたマオの頭に、大きな手が乗せられる。見上げれば、一瞬だけ彼の顔がはっきりと見えた。白とも銀とも区別が付かぬ長めの髪、片方だけ他所を向いた緑色の双眸。彼が外套でずっと顔を隠しているのは、きっとその右目が大きな原因となっているのだろう。ほんの数秒、マオがじっと見つめてしまったせいか、彼は片目を見開くや否や顔を隠してしまった。そのままどんどん後ずさっていくので、マオは慌てて椅子から立ち上がる。
「め、きもち、わるい」
「ご、ごめんなさい、サイラムさん。気持ち悪いなんて、思ってないですよ」
彼女がそう告げた瞬間、幼い頃の記憶がふと蘇る。
──プラムゾにはいろんな奴がいるからねぇ。マオや僕と全く同じ人間がいないのと一緒で。
思い出すのはホーネルの言葉だ。自身と異なる部分を持つ者を、決して蔑んではならない。いいや、そもそも己と他者に「同じ」など無い。況してや、そこに優劣などあってはならないとも彼は言っていた。彼が誰に対しても態度を一切変えないのは、こういった考えが起因していたのだろう。
──猫と友達になれる君は、そんなことしないとは思うけど。ほら、保護者として一応ね。
ホーネルの冗談めいた言葉が風に乗って消えれば、マオの口が自然と動いていた。
「人なんて沢山いるんだから、みんな違って当たり前だって、私の……家族が言ってました」
「……」
「なので私、サイラムさんのこと気持ち悪いなんて言いません。……あっ、でも、だから顔を見せろとか、そういうことじゃなくて」
思わず力を込めたおかげで、腕の中で仔猫が呻き声を漏らす。尻尾で抗議されたマオは、急いで謝りつつ仔猫を解放した。
「えっと……だから、そのままでいてください。サイラムさんが嫌がることしたくないし、させたくもないです」
「……ちがう、いい?」
「はい。違って良いんです」
笑顔で肯定すれば、サイラムは少しの間を置いてから、何度か頷いて見せた。このまま話してくれなくなってしまうのではと危惧していたマオは、ほっと胸を撫で下ろす。次いで、何の話をしていたんだっけと視線を宙に飛ばせば、答えは目の前の彼が先に提示してくれた。
「フェルグス」
「……へ? フェルグス……?」
唐突に出された名前に、マオはまばたきを繰り返す。響きから察するに男性の名前なのだろうが、彼女には聞き覚えがなかった。それは一体誰なのかと問えば、サイラムがまた物見台の外を指差す。今度はリンバール城や大瀑布とは真逆の方角で、広い草原が一望できた。
「ようへい、ひがし……ロンダム」
マオの呆けた顔を見て、彼は伝わりづらいと判断したようだった。彼女に手招きをしてから、物見台の階段を下りていく。いつの間にか手摺をよじ登っていた仔猫を抱え上げ、マオもその後を追いかけた。歩廊を経由して階段室へ向かえば、そこでサイラムの背中を見付ける。少しだけ身体を横に逸らしてみると、彼の向こうに小柄な影──ノインの姿があった。
「あっ、ノインさん! おはようございます」
「マオ様」
少女は一礼すると、マオが近くに来るのに合わせて口を開く。
「旦那様よりお話を伺いました。ロンダムに滞在しておられるフェルグス様の元を訪ねよ、とのことですが」
ノインのおかげですんなりと内容を理解できたマオは、サイラムの薦める人物の素性を尋ねた。少女曰く、幻夢の庭から北東へ向かったところに、ロンダムという大きな町があるという。例のごとく貴族が暮らす町だが、その規模はヴォストやプスコスなどの数倍に及ぶ。フェルグスとは一時的にそこに滞在している、サイラムの親しい知人であると少女は話した。
「フェルグス様は、有名な傭兵団の団長を務めておられる方です。そこらの野蛮な傭兵や下衆な商人とは違いますので、マオ様のご相談にも対応してくださるかもしれません。……マオ様、お部屋にご案内します」
「は、はい」
途中、物凄い毒が挟まれたような気がしたが、ノインは相変わらずの無表情だった。
少女の話では、ロンダムまで徒歩で向かうには少々骨が折れるとのことだ。幻夢の庭から東へ行くと、ロンダム行きの馬車が出る小さな村があるという。そこを経由すれば、比較的安全に移動することが可能だとノインは述べた。
「──しかしながら、マオ様は妙な集団に付け狙われているご様子ですので、どこを歩くにも常に警戒せねばなりません」
初めて入る部屋の扉を見上げ、マオは少女の話に相槌を打つ。てっきり昨晩の部屋に案内されると思っていたのだが、連れてこられたのは砦二階の片隅だった。ノインが扉を開くと同時に、マオは思わず驚きの声を漏らす。現われたのは服、服、服。それらは部屋を埋め尽くすほどの膨大な量だ。更に、首と手足のない人形が多く置かれていることから、ここが衣裳部屋であることが分かる。
「この中からお好きなものをお選びください」
「へ!?」
「ただし、青い衣は避けた方がよろしいかと。一見してマオ様であることが分からぬよう、姿を変えてくださいませ」
つまり大袈裟に言えば、変装して目を欺けということだ。ロンダムへ向かう間、またあの危険な集団に襲われても何らおかしくはない。彼らはきっと、最後に見たマオの姿を頼りに行方を捜す。長い栗毛、青い衣服、珊瑚珠色の瞳──それらを出来るだけ隠すことで、彼らの魔の手から逃れられる可能性は格段に上がるだろう。
「私はフェルグス様宛の紹介状をご用意いたしますので、また後ほど」
「分かりました……」
てきぱきと説明を終えたノインは、一礼してから部屋の扉を閉じた。
「……」
さて、とマオは仔猫と顔を見合わせる。とりあえずやるべきことは、傭兵団長のフェルグスを訪ねるため、ロンダムへ向かうこと。このままリンバール城へ戻ろうとしても、あの集団と鉢合わせてしまう可能性はおろか、オングやハイデリヒにも被害が及ぶことも考えられる。マオが安心を得るためには、まず根を絶たねばならないのだ。すなわち彼女を狙う集団──エクトルの読みでは、貴族お抱えの殺し屋らしい──彼らをどうにかして抑えなければならなかった。残念ながらマオ自身にはその力がないので、サイラムの知人でもあるフェルグスを頼り、解決の糸口を捜そうという次第だ。
「そのフェルグスさんっていう人の方が……エクトルさんより、信頼できそうだし」
「みゃあ」
マオの偏見たっぷりな独り言に、仔猫が同意の鳴き声をあげる。彼女はちょっと失礼かなと思いつつも苦笑いをして、仔猫をそっと床に降ろした。
「よし、じゃあ服を選ばせてもらおっか」
「みぃ」
「ってあれ? どこ行くの?」
ひょこひょこと仔猫は扉前に戻ると、そのまま丸まってしまう。「勝手に選べ」といったところか。小さな黒い背中を一瞥し、マオは無数の服の中へと進んだのだった。