プラムゾの架け橋

第三章

 21.

 プラムゾの橋脚第二層、“中央階段”より南東方面に広がる森林地帯──その中に「幻夢の庭」と呼ばれる場所がある。多層ではまず見ることの出来ない、世にも珍しい七色の植物が繁茂すると言われ、昔から多くの興味を惹き付けてきた。幻夢の庭が発見された当初は、貴族がこぞって調査隊を派遣したり別荘建築を計画したりと、誰もが新しい観光地としての発展を望んでいた。

 しかし──。


「幻夢の庭は“階段”と似た構造をしております。幻想的な景色に惑わされているうちに、進路も退路も塞がれてしまうのです」
「え……じゃあ、帰れなくなっちゃう人も……?」
「はい。酷い場合は、遺体で発見された者もいたそうです」

 その特異な性質のおかげで、幻夢の庭では行方不明者が続出したという。それから暫くの月日が経ち、学者から「かの森は“階段”よりも不安定な空間を内包しているため、不用意に近付いてはならない」との注意喚起がなされた。美しいものに目がない貴族らであったが、そのような恐ろしい報告を受けるや否や、幻夢の庭を「化物の森」と蔑み忌避するようになった。

「“階段”には明確な目的地が存在していますが、幻夢の庭にはそれが無い。ゆえに大抵の人間は出入り口を失い、森の中を延々とさまよい続けます。……この付近に人が寄り付かぬ理由としては、それがまず第一かと」

 灰色の髪の少女──ノインはそこで話を中断し、その半開きの大きな瞳をマオの方へ向ける。二人は暗い部屋の真ん中で、蝋燭を立てた丸テーブルを挟んで座っているのだが、如何せん光が小さいので顔の距離が近い。怪談話でもしているかのような緊張感と共に、マオは内容の理解を示すべく頷いた。反応を確かめたノインは、再び蝋燭の火に視線を戻す。

「第二の理由は、旦那様ご自身にあります」
「サイラムさん自身?」
「はい。旦那様の噂を、貴女もお聞きになったことがあるのではないでしょうか」

 サイラムの噂。まず彼の名前を知ったのは、つい先ほどのことである。ついでに言えば幻夢の庭に関しても、マオはたった今初めて耳にした。恐らく自分は噂を聞いたことがない、と彼女が伝えようとした矢先のこと。

「人間の剥製を欲しがる貴族がいる、という話でございます」
「げほぉっ!!」

 聞き覚えのありすぎる噂に思い切り噎せれば、あらかじめ用意していたのか、ノインは素早く水を差し出す。マオが苦しさに悶えつつ水を流し込む傍ら、少女は淡々とした口調で噂の真相を口にした。

「初めに申しておきますと、旦那様にそのような趣味はございません。この噂は、世間から幻夢の庭と旦那様の双方を切り離すためのものですので」
「……っき、切り離す、とは」
「言葉通りでございます。旦那様は世間との関わりを望んでおられない。ゆえに、人が忌み嫌うような噂をわざと流していただいています」

 ノイン曰く、サイラムが幻夢の庭で暮らしているという事実は、ある程度知られているらしい。その上で「人間を買い取って剥製にする」という噂をばらまき、幻夢の庭周辺に誰も近寄らせないようにしているのだ。マオは溢れ出しそうになった怯えを水で流し込みつつ、ふと湧いた疑問に眉を下げる。

「えっと……どうしてそこまでするんですか? 人と関わりたくないだけなら、そんな怖い噂を流さなくても……」

 プラムゾは広く、いまだ各層に未開拓地を多く残している。人知れず暮らしたいというだけの話なら、その辺りを狙って隠れ住むことも可能だっただろうに。加え、確かに幻夢の庭は危険地帯であるがゆえ、元から人が寄り付かぬ場所だ。そこに住むサイラムとて、いつ自然の迷宮に惑わされてしまうか分からない。己が身を危険に晒してまで、幻夢の庭にこだわる必要があったのだろうか? そのような疑問をぽつぽつと挙げていくと、ノインは全て聞き終えてから答えを寄越した。

「見付かってはならない、誰にも知られたくない──そう願う者が、この砦に集まるからでございます。……もちろん、私もその一人」

 ノインは左腕を持ち上げ、袖を捲って見せる。病的にも思える白い肌には、鬱血痕が満遍なく散らされていた。既に色は薄くなっているものの、痛々しい状態であることに違いはない。これは一体どうしたのかとマオが言外に見詰めれば、ノインの指先がそっと痣に触れる。

「私は二度、売られた身にございます。この傷は前の屋敷で付けられたものです」
「!」
「旦那様は……私のような身寄りのない子どもを、買い取っていらっしゃるのです」

 サイラムに引き取られたのは、なにもノインだけではないという。彼はこれまでに何人もの子どもを買い取り、彼らに自由な暮らしを与えてきたのだ。そして殆どの者は自立できる年頃になると、幻夢の庭を出て新たな人生を歩む。それまでの名を捨て、全くの別人として。

「……幻夢の庭は旦那様にとっても、私たちにとっても都合が良い。ここは、外の世界から我々を守ってくれる森なのです」

 袖を戻すと、ノインは静かに立ち上がった。部屋の暗さなどもろともせずに、辿り着いた先で扉を掴む。うっすらと射し込んだ光が頬を照らし、少女の瞳の奥で煌めいた。

「そろそろ就寝の時間でございます。お話はまた明日」
「あ……あの、ノインさん。最後にひとつだけ」
「はい」
「噂を“流していただいた”って……?」

 その質問に、ほんの少しだけ、ノインの表情に嫌悪が走った。マオが思わず硬直したのも束の間、元の無表情に戻った少女はひとつ溜息をつく。

「旦那様のお得意先──大商人エクトル様でございます」
「え゛」
「あの方は顔が広い。顧客の願いならと、すぐに噂を広めてくださいました」

 回答の後、これで満足かと言わんばかりの視線を送られ、マオは小刻みに頷きながら「なるほど」と返した。どうやらノインはあの美丈夫のことがそれほど好きではない──どころか嫌いなようだ。理由は何となく予想がつく。それはともかく、エクトルがお得意先ということは、すなわち彼こそがサイラムに子どもを売り渡している張本人なのだろう。様々な事情はあるだろうが、やはり人身売買から悪い印象は拭えない。マオのエクトルに対する不信感がまたひとつ増えたところで、ノインが綺麗に一礼する。

「何かお困りのことがあれば、私にお申し付けください。それでは」

 静かに扉が閉められ、足音が完全に消えたことを確認してから、マオは大きく息を吐きだした。ノインのおかげで、大体の状況は把握できた。ここは第二層の南東部で、リンバール城から馬で数日ほどかかる場所だそうだ。サイラムの不穏な噂と幻夢の庭に付き纏う危険性から、森には人が寄り付かない。ゆえにマオを拉致した者たちも、そう簡単には追って来れないだろうとのこと。

 ──ただ、油断はなさらぬよう。

 幻夢の庭は侵入者を奥へ奥へと飲み込む習性があるが、迷い込んだ者に明確な「目的」があれば、比較的安全に歩くことが可能だという。つまり拉致した者の「マオを捜し出し、森を抜ける」という意思が、幻夢の庭に打ち勝つようなことが起きる場合もあるのだ。ノインはそのような事態にも備え、既に手を打っていると冷静に付け加えたが……。

「……そもそも何で私、こんなことになったんだろう?」

 追究すべきはサイラムたちや幻夢の庭ではなく、自身に起きた事柄についてではなかろうか。物騒な空間ながらも平穏を維持していたこの森に、意図せず厄介事を持ち込んでしまったような気がしたマオは、途端に申し訳なさを感じてしまう。サイラムもノインも、森に迷い込んだマオのことを心配し、食事と部屋まで与えてくれた。万が一彼らに何らかの被害が及ぼうものなら、その責任はマオにも降りかかるだろう。

「みぃ」

 ずぶずぶと思考が沈みかけていたところへ、のんびりとした鳴き声がマオの肩に飛び乗る。ノインとの会話の間、仔猫はずっと寝台でゴロゴロしていたのだが、マオの様子に気付いてここまでやって来たようだ。蝋燭の心許ない灯りが、薄氷色の瞳に揺らめく。仔猫はマオの栗毛に顔を擦り付けると、再び寝台の方へ飛び移った。そして堂々と枕元で丸まったので、マオは相変わらずの態度に小さく笑う。

「ノット」

 寝台に腰を下ろし、仔猫をそっと抱き上げた。温かい身体を膝に乗せ、優しく撫でる。暫くの間そうしていたのだが、不意に彼女は仔猫の両脇を支え、額を突き合わせた。

「……ありがとう。ノットがいなかったら、あの馬車から逃げられなかった」

 いいや、まず手足の拘束も解けなければ、麻袋から脱出することさえ出来なかっただろう。もしもそれらの難関を突破したとしても、恐怖で足が竦んでいたに違いない。「一人じゃなかった」からこそ、マオはこの砦に行き着くことができているのだ。

「──みゃ」
「うぁ」

 じっと目を瞑っていると、おもむろに仔猫が頬を舐める。驚いて声を漏らせば、続けて彼女の目尻や鼻先を探る仔猫の姿があった。

「わ、だ、大丈夫、泣いてないよ」

 幼い頃からマオが怪我をして泣くと、仔猫はこうして涙を拭おうとしてくれるのだ。十代に入ってからは滅多に泣かなくなったので、この行為は随分と久しぶりに思える。懐かしさと少しの安堵を抱えつつ、マオはシーツに寝転がった。

 そこで彼女は初めて、自分の髪の毛が下ろされていることに気付いた。青色の髪飾りも見当たらないので、きっと気絶したときに外れてしまったのだろう。

「……明日、リンバール城までの道程を聞こっか」
「みー」
「オングさんに心配かけちゃってるもの。早く戻らなきゃ」

 と言ってみたものの、マオはそれで本当に良いのだろうかと唸る。運良くオングの元へ帰ることが出来たとしても、拉致された理由を明らかにしなければ、これからも同じ連中から狙われるに違いない。どうしたものかとマオは瞑目し、仔猫を控えめに抱き締めたのだった。



 ▽▽▽



「ノイン」

 正面玄関の扉を開けると同時に、背後から低い声がかけられる。振り返れば、何やら慌てて駆け寄ってくるサイラムの姿。じっとその場で待機していると、やがて近くまでやって来た彼が背中を丸めた。

「どこ、へ」
「外でございます」
「きけん」
「承知しております」

 サイラムが戸惑いを露わに、両手を泳がせる。少女を引き留めるべく追いかけてきたが、うまく言葉が出てこないのだろう。ノインは片手で砦の奥を指し、平然とした面持ちで告げる。

「先にお休みください。明朝には戻りますゆえ」

 扉を閉める間際、心配そうに歪められた唇を捉える。ノインはそれに笑みを向けるわけでもなく、ただその無表情を返すのみ。これが今生の別れならば、もう少し愛想のある態度を心がけるところだが、生憎そのようなつもりは毛頭ない。明朝に戻るという言葉は予想ではなく、決定事項の連絡なのだから。


 ノインは七色の草を踏みしめながら、迷いのない足取りで森を進む。痕跡を丁寧に消していくが如く、既に少女の進んだ道は塞がれ始めていた。砦が七色の景色の向こうに完全に消えてしまっても、ノインに焦りや恐怖などという感情は湧いてこない。

 滞ることなく変わる景色の中を、黙々と歩き続けた。誘う体で枝は退き、退路を断つ葉は渦を巻く。波にも似た音がふと、その間隔を乱した瞬間のこと。ノインは片手を前へ突き出すと、そこで掴んだ襟首を勢いよく引き倒した。

「っ!? な、何者だ……っわあ!?」

 想像以上に華奢な肩を掴み、俯せに組み敷く。ノインは体重を掛けたまま、暴れる両腕を背中へ折りたたみ、更に力を込めて押さえつけた。

「離せこの……」

 拘束を力づくで振り払おうとじたばたしながら、少年が仰向けになる。そこで彼は自身に襲い掛かった影が、同い年くらいの少女であることに初めて気付いたようだった。呆けた隙を突き、ノインは隠し持っていたナイフで少年の首筋を捉える。

「うっ」
「名と目的を」

 鋭い刃が皮膚を薄く裂けば、我に返った少年が息を吸い込む。だがいつまで経っても質問の答えを寄越そうとしないので、ノインは彼の顔を隠している暗色のフードを引っ張った。現われたのは、幻夢の庭では久しく見ていない、鮮やかな緑色の髪。幼げな顔立ちを戸惑いと焦りに彩りながら、気丈にも少女を睨みつけていた。

「……名と、目的を」

 ノインが改めて返答を促すと、少年は首を左右に振った。

「だ……っ誰が言うもんか、僕は急いで……」
「答えないのならば構いません。この場で死んでいただきます」
「ええ!? ちょっ、ちょっと待て!!」

 押し付けたナイフを勢いよく引こうとすれば、少年は強気な態度から一転、青褪めた表情で制止の叫びをあげる。恐らくこのナイフを単なる脅し程度に思っていたのだろう。しかしながらノインはそういった曖昧な言動は嫌いだ。「明朝に砦に戻る」のも「死んでもらう」のも、全て決定事項として相手に伝えている。そんな少女の本気がようやく、痛いほど理解できた少年は、いつ喉を掻き切られるのかとひやひやしつつ口を開いた。

「名前はメド。この森に女が一人駆け込んでいったから、そいつを捜してる」

 その返答に、ノインは微かに瞳を細める。この少年が、マオをリンバール城から連れ去った人物だろうか、と。それにしては随分と若く、下手をすればマオよりも弱弱しそうな印象を受けた。いや──その考えは間違いだと、ノインはすぐさま否定した。少女が幻夢の庭に侵入者を感知したのは数刻前、マオとの話を終えた頃だ。大抵の人間は暫く彷徨い続けたあとで、この森の異様さに圧倒されて足を止める。しかしメドの気配は止まることなく、黙々と森の中を探索していたようだった。目的を達成する意思が固かったか、はたまた迷子に気付かないほどの鈍感か……どちらにせよ、長いこと歩き続けていたわりには疲労が見えない。体力は相当にあるようだと分析しつつ、ノインは少年の拘束を強めた。

「あなたの元へ来る間、そのような者は見かけませんでした。森を抜けたことも考えられます」
「そ、そんなはずはない! ここは幻夢の庭だぞ? そう簡単に抜けられるわけ」
「目的の人物がこの森の中にいないから、あなたは延々と歩き続けていた。違いますか」
「!」

 メドは言葉を詰まらせ、「確かに」と言わんばかりに目を伏せる。するとそれに併せて森が動き出し、出口に向かう道が形成されていく。──少年が「目的を取り下げようとしている」ことを悟り、ノインはもう一押しと言葉を紡いだ。

「目的もなく、この森に入ってはなりません」
「……」
「空を強く念じなさい。そうすればすぐに外へ出られます」

 ナイフをゆっくりと離しても、少年が暴れることはなかった。中身は歳相応のようで扱いやすいな、とノインが薄情にもそんなことを考えた瞬間のことだった。メドは勢いよく上体を起こし、何を思ったのか少女の両手を掴む。

「お前はっ?」
「はい?」
「この森から出なくていいのか?」

 何の話だろうと硬直し、ノインは一拍遅れて理解した。メドは少女のことも迷子だと勘違いしているのだろう。今まで何度もこういった怪しい人物を外に追い出してきたが、この反応は初めてだ。大抵の場合は、不気味な森で不気味な少女に導かれて全力で外へ脱出した、という流ればかりだから。彼らにはそもそもノインを人間として認識できるほど、精神的な余裕がなかったのだろう。ゆえに、この少年は至って健康な状態ということも窺える。

 しかしこれは面倒だと、少女は若干の呆れを覚えた。

「私はやることを終え次第、外へ出ますのでご心配なく」
「でも、ここには“人喰い公”が──」

 “人喰い公”。

 その単語を聞いた直後、ノインは急激に怒りを露わにした。あまりの変貌に驚いたメドが手を離せば、少女に強く肩を突き飛ばされる。

「いっ」
「出て行け、今すぐに」

 刹那、七色の森が黒く染まった。全ての植物が毒に侵されたように、腐臭を放ち枯れ果てる。腐った花をぼとりと落としては、再び新たな芽吹きが起こり、また死んでゆく。少年が恐怖に満ちた顔でこちらを見上げたとき、その瞳が大きく見開かれた。

「お前」

 言葉は最後まで届くことなく、少年の姿ごと消してしまった。“異物”を外に追い出したことで、次第に森も色を取り戻し、また七色の輝きを放ち始める。静寂の訪れた庭で、ノインはふと自身の頬に触れた。


「……」


 硬質な感触を親指で擦り取れば、ごく小さな欠片が付着する。

 少女の頬に浮き出ていたのは、真紅に輝く──ミグスの石だった。

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