プラムゾの架け橋

第三章

 20.

 “階段”とは、プラムゾの橋脚を歩く上で、必ず知っておかなければならない存在である。物理的な繋がりを持たぬ各層の行き来を、“階段”は可能にしてくれるからだ。太古の時代よりプラムゾの環境に異変はなく、それが原初から続く人々の移動手段であったことが推測されている。手法としては、各層にある門の向こう──深い霧を内包した空間を真っ直ぐ歩くことで、入り口と対応した門に出ることができる。


 しかしごく稀に、そのような簡単な移動にも関わらず、一本道から逸れてしまう者もいるのだとか。



 ――聞いたかい。“階段”には恐ろしい魔物が棲んでいるらしいよ。


 すやすやと眠る幼子の腹を撫でながら、彼はおもむろに語り出した。何の話かと思って耳を傾ければ、いつもより幾分か調子を下げた声が続けられる。

「お前が通った“階段”は、もう使われていなくてねぇ。下手すりゃ一生、外に出られずに死んでいたかもしれない」
「……ぅー」
「嘘だろ、さっき寝たじゃないか」

 話の途中で慌てた彼は、幼子が寝言を漏らしただけと知り、安堵の息をつく。そして撫でる手はそのままに、眠そうに欠伸を漏らした。

「……そんな、ところに……いたのに」
「ん?」
「何で、出られたんだ?」

 それは至って、自然な疑問だった。自分は赤子を抱えて“階段”を彷徨っていた。外に出る方法はもちろん、いつどうやって“階段”に迷い込んでしまったのか、それすらも分からなかったのだ。気付けばあの豪雪の中を歩き続け、体力が限界に達したところで辛くも彼に命を救われた。

「さぁ?」
「さぁ、って……」
「僕にもよく分からない。お前とこの子を見付けたのは、“階段”の外だったからねぇ。何かの拍子で出口に繋がったんだろうけど……」

 彼は言葉を途切れさせ、口を開けたまま固まる。視線を移せば、幼子が目を覚ましてしまっていた。そして短い手足を揺らし、彼を見て笑い始める。何故か顔を見るたびに笑われている彼は、溜息をつきながらも幼子を抱き上げた。

「“階段”で迷子になるのは、魔物に目を付けられたから……と言われてるんだよ」
「……魔物が、いるのか?」
「知らない。まぁ言い換えれば、“階段”で迷子になる奴は相当不運で哀れな奴だ、っていうからかい文句だからねぇ」

 迷子など滅多にならないし、少なくとも彼は聞いたことがないと言った。あの空間は、プラムゾにおける代表的な謎の一つだ。隔絶されているように見える各層を繋ぐ、唯一の移動手段。それだけでも人々が首を傾げるのに十分な機能を備えているが、橋脚に外的な損傷が生じた場合には自ら修復し、併せて同等の機能を備えた空間を出現させる……という報告もあるそうだ。

 大昔から続くプラムゾの歴史に、人々の知識は未だ追いつくことが出来ていない。いや、もしかしたら詳しく知る者がいるのかもしれないが、彼らの知り得る真実が世に浸透していないことは確かであろう。

「そろそろ寝てくれないかねぇ? 君はちょっと元気すぎる」

 無垢な幼子は何も知らずに、珊瑚珠色の目を細めて笑う。


 ――さあ、行くんだ。オング。


 残響は未だ、消えぬまま。




 ◇◇◇




 黒ずんだ扉を見上げ、そこだけ妙に磨かれた金色の取っ手を掴む。一度、大きく深呼吸をしてから、両手でほんの少しだけ押し開ける。真っ暗な廊下、微かに走る青い光、毒々しく視界を縁取る無数の花。噎せ返る香りに唾を飲み込み、恐る恐る部屋の外へと出た。コツ、と爪先に何かが当たる。咄嗟に見下ろせば、そこには拳ほどの大きさの石が置かれていた。

「──どこに、いく」
「ひゃわぁああ!?」

 それまでの隠密行動を台無しにする勢いで、マオは悲鳴と共に飛び上がった。ついでに足元の石も蹴飛ばしてから振り向くと、何処からともなく黒い人影がぬっと現れる。またもや悲鳴をあげたマオは尻もちをついて、人影とは反対方向に後ずさった。訪れた暫しの沈黙。その後で、マオは“また”見付かってしまったことに項垂れる。三度目の正直と意気込んだのはつい先ほどのことだが、ものの数秒で彼女の意思はねじ伏せられた。

「……へや、もどる。いま、きけん」
「あ、あのっ、だから! 何が危険なんですか?」
「きけん」
「う……」

 たどたどしい言葉で告げ、人影は扉を開く。「入れ」と促され、マオは渋々立ち上がる。このやり取りも三度目になるわけだが、大人しく言うことを聞くしかないように思えてきた。黒い人影──マオを七色の森にある小さな砦に連れてきた、片言で喋る男。何かと意思の疎通が難しく、砦に連れて来るや否や「きけん」と言ってマオを部屋に閉じ込めてしまったのだ。……と言っても鍵は掛けられておらず、こうして何度も脱出を試みている次第である。

 砦は森の景色に同化しており、すぐ近くまで寄らないとそれと分からぬほど。鬱蒼と茂る植物に侵された外壁、同様に塞がれた射眼、ゆえに暗すぎる屋内。ここは一体何なのかと男に尋ねても、返ってくるのは沈黙か「きけん」の一言だけ。不気味な砦はもちろん、彼が危害を加えるような素振りを一切見せないことも、マオを困惑させる要因の一つだった。

「……あの、じゃあ」
「き」
「こ、仔猫! 黒い仔猫を返して!」
「ひつよう?」
「!」

 初めて会話が成立した。マオは小さな感動を覚えつつ、全力で首を振る。

「必要です!」
「でも、きけん」
「と、友達なんですっ、それにあの子は危険じゃないから、その」
「さびしい?」

 彼は首を傾げた。目深に被った外套の奥、ひび割れた唇が迷いを露わに歪められる。ようやく彼の表情を窺えるまでにマオが落ち着いたのか、それとも彼は初めからこのような態度だったのだろうか。いずれにせよマオは目を丸くしてしまう。

「……えっと、はい。寂しいです。だから、一緒にいさせて欲しいです」
「わかった。でも、へや、はいる」

 申し出は案外、すんなりと受け入れられた。ただマオには早く部屋に入って欲しいらしく、マオに向かって両手を左右に動かしている。これが他の人間──失礼ながらエクトルのような男だったなら、容赦なくマオの肩やら腕やらを掴んで、部屋に押し込んでいたことだろう。だが目の前の彼は決してマオに触れてこない。恐らく苦手なのであろう不自由な言葉で、懸命にマオを部屋に押し留めようとしている。その真意はまだ分からないが、取り敢えず悪い人ではなさそうだという結論に至り、マオは素直に部屋へ戻ることにした。

「そと、きけん。でる、いけない」
「はい……」

 戒めのように告げられ、マオは頷きつつ理解する。彼はどうやら、マオと仔猫を別々の部屋に置くことで、外に逃げ出すことを防ごうとしたようだ。だが彼女がお構いなしに部屋から出ようとするので、彼も扱いに困ってしまったのだろう。

「……」
「……?」

 彼は扉を閉めようとしたのだが、ふと動きを止める。まだ何か言いたいことがあるのかと、マオは静かに待ってみた。が、視界はすぐに遮られ、黒い扉が彼女の行く手を阻んだ。ちらりと部屋を振り返ってみても、薄闇の中には簡素な寝台と丸テーブル、それから些か多すぎる木椅子が無造作に置かれているだけだ。燭台の灯りが一つでもあれば、腰を落ち着けることができたかもしれない。不気味なほど静かな部屋を一瞥し、マオは再び扉に向き直った。

「……にしても、本当にここ、どこなんだろう」

 途端、襲ってくる不安。この砦から脱出することは、あの男が許してはくれない。彼曰く外は危険な状況らしいが、特にそういった雰囲気を感じさせる騒音や声なども聞こえてこなかった。とにかく、彼が戻ってきたら言葉を交わさなければならない。全く話が通じないというわけでもないのだから、聞き出せることは幾つかあるだろう。まず尋ねるべきは、この砦もとい七色の森が、何層のどこにあるのか。それから危険な状況とはマオに関係のあることなのか。そして──できれば、彼の素性も聞いておきたいところだ。

 今のところ、砦の中で彼以外の人間は見ていない。どれほどの大きさなのかは知らないが、一人で暮らすには広すぎるし……いや、そもそも住居ではないのかもしれない。誰かの別荘と言うよりは、森の中に放置された廃墟、と言われた方がしっくり来る。試しに部屋の天井を仰げば、輝きを失った黒いシャンデリアが揺れている。今にも鎖が切れそうだったので、マオはさりげなく部屋の隅っこに身体を寄せた。

「わあ!?」

 ちょうど背にした扉が開かれ、マオは必要以上の声をあげて振り返る。目の前に薄氷色の双眸がでかでかと映し出され、更なる悲鳴をあげようとして、ふと冷静になった。寄り目になったまま仔猫の脇を抱えれば、「みゃあ」という呑気な鳴き声が鼻先を擽る。

「…………ノットだぁ~……」

 そして安堵の息をつき、仔猫に頬擦りを開始。じたばたと脚を動かす仔猫を抱え直し、マオは改めて男を見上げた。

「あの、ありがとうございます。返してくれて」
「……さびしい?」
「いいえ!」

 ──ぐぅう。

 慌てて否定した直後、マオの腹から珍妙な音が鳴った。男にじっと凝視されてしまい、マオは恥ずかしげに仔猫で顔を隠す。

「……はら、へる」
「うっ……そ、その、そういえば、何も食べてなかったような……」
「──“旦那様”」

 するとそこへ、ひとつの高い声が飛んできた。マオが驚いて仔猫を下ろせば、廊下に小柄な少女が立っている。大きな灰色の瞳は半開きで、一見して眠いのかと思ってしまうような顔つきだ。しかしながら身を包む黒いワンピースはもちろん、その立ち姿は毅然としていた。

「お食事のご用意ができました。そちらのお客様もどうぞ」
「そと」
「ご安心を。哨戒も済ませております」

 きっちりと二本に編み込んだ灰色の髪を揺らし、少女は一礼する。他にも人間がいたのかとマオが驚く手前、男はぼりぼりと後頭部を掻きつつ歩き出した。数歩進んだところでマオを振り返り、控えめに手招きをする。不思議と緊張感や不安が消え去り、マオは仔猫と顔を見合わせてから後を追ったのだった。




 砦のどこに行っても暗いおかげで、段々とマオの目は暗闇に慣れ始めていた。男と少女の足取りがしっかりしていることもあるが、胸中に居座っていた恐怖も殆ど消えている。二人の後を付いて行くと、やがて突き当りに大きな扉が現れた。右側には同じ形をした扉が三つ、定間隔に並んでいることから、この先にある部屋は随分と広いことが窺える。

「どうぞ」

 灰色の髪の少女に促され、マオは扉をくぐった。橙色の暖かな光がふわりと視界を彩り、真っ白なテーブルクロスが奥へと伸びる。その上には二人分の食事が並べられ、テーブル中央には果物の盛り合わせまで用意されていた。男が奥の席に着いたので、マオは自然と手前の椅子に着席する。それと同時に、少女が床に小皿を置いた。仔猫用のミルクと小魚だ。

「あ、あの、ありがとうございます」
「いえ。ごゆっくり」

 少女はまだ仕事が残っているのか、そのまま扉を閉めて去ってしまった。視線を前に戻せば、既に男が食事を始めている。マオは改めて料理を確認しては、その贅沢な品書きに目を瞬かせた。焼きたてであろう小麦のパン、これまた柔らかそうな肉の角煮が入ったシチュー。小さく「いただきます」と言ってから、マオは恐る恐るスプーンを口に運ぶ。何とも濃厚な味わいに舌を巻けば、向かいに座っている男がこちらを見ていることに気が付いた。

「……お、美味しいです」

 率直な感想を伝えると、彼は何度か頷いて食事に戻る。……今は無駄口を利かずに、食事に集中した方がいいだろうか。その後で時間が許せば、彼にいろいろと尋ねてみよう。そう決めてからは黙々と食べ進めていたのだが、時折ちらちらとマオの様子を窺ってくる彼には、思わず笑みをこぼしてしまっていた。

 ──案外、可愛らしい人なのかな。

 屋内でも外套で全身を隠しているせいで、てっきり危険で怖い人物なのかと思い込んでいた。しかし彼をちゃんと観察してみると、姿勢こそ悪いが不健康そうな体ではなく、仕草も不審というよりは単純に臆病であるように感じる。もっと言えば、エクトルというとても分かりやすい比較対象がいるおかげで、彼がマオに対して怪しい下心を持っていないことも読み取れた。

「──ごちそうさまでした」
「みゃ」

 マオが食べ終わると、ちょうどノットも完食できたようだった。彼女の膝元に飛び乗っては、いつものように小さく丸まる。黒い背中を撫でてやりながら、マオはようやく向かいの彼に話しかけた。

「……あの。お聞きしてもいいですか?」
「なに、を」
「えっと……ここは」

 と、言いかけて、マオは首を横に振る。

「私、マオって言います。あなたは?」

 胸に片手を当て、友好的な笑みでマオは名乗った。下から薄氷色の瞳がちらりと寄越されたが、それも一瞬の出来事。仔猫は静かに会話を傍聴する姿勢を取る。そんな二人の姿を見詰めた男は、少しだけ背中を丸め、骨ばった指先でテーブルクロスを掻いた。



「……サイラム」



 

inserted by FC2 system