プラムゾの架け橋

第三章

19.

 星を見た。


 雲の隙間に詰め込まれた無数の宝石は、少女の瞳に煌めきと彩りを与える。見えるはずのない紺碧に心を躍らせれば、かじかむ指先も風を厭わなかった。いつかあの白い天井を抜け、約束された自由の中を泳ぐことができたなら。そこには少女が想像もできぬほどの、美しい景色が広がっていることだろう。人はそれを残酷だとも言う。心を捕らえて離さぬ輝きは、ときに人を狂わせる。


 どこにも行けぬからこそ、人は夢想し、諦める。それが心を守る術なのだ。

「それでいいの?」

 朽ちた遺跡の中、栗毛の少女が立っている。長く細やかな髪は揺れ、珊瑚珠色の双眸が笑みを象る。夜陰に溶ける指先が開き、真紅の輝きが辺りを照らした。

「おいで、マオ。──君の運命が、動き出した」




▽▽▽





 規則的な揺れを感じ、身体の節々に走る痛みに呻く。顔を上げれば長い髪が頬にかかり、除けようとして気付く。背中で固定された自身の両手、縄でひとまとめにされた足首。拘束を受けている上、全身を麻袋か何かに入れられているようだった。しばらくもぞもぞと動いてみたものの、袋の口は固く閉じられ、状況は何も変わらなかった。

「うぅ……っ?」

 とりあえず噛まされている猿轡だけでも何とかしようと、マオは首を振ったり床に顔を押し付けたりする。その間、自分がどうしてこのような状態になっているのか、彼女は必死に記憶を遡った。リンバール城で老人──ヒャルマンと再会し、少しだけ話をしたことは覚えている。そのあと、老人の落とし物であろうカメオを拾い、ぼーっとした直後。後頭部に強い衝撃を受け、昏倒してしまったように思う。

 つまり、あの場で何者かに気絶させられ、今は……どこか分からない場所にいる。この状況を打開するには至らなかったが、マオはとにかく自分が強引に連れ去られたことは理解できた。かと言って安心できるはずもなく、湧いてきたのは途方もない恐怖だ。

 ──心当たりは? お嬢さん。

 エクトルの問いかけが不意に頭を過る。マオを攫ったのは、彼が告げた殺し屋だろうか。今のところそれしか考えられる人間はおらず、彼女の動悸は激しくなるばかりだった。

「みゃー」
「!!」

 そのとき、袋の向こう側から小さな鳴き声が聞こえてきた。次いで頬の辺りに脚が押し付けられ、何度もぽんぽんと叩いてくる。ノットがすぐそこにいると知り、マオは僅かながら安堵の息を漏らす。するとそれを聞き取った仔猫は何を思ったのか、突然、麻袋の表面を引っ掻き始めた。びりびりと繊維のほつれる音が鳴り、やがて布が小さく破れる。開いた穴から可愛らしい肉球が突っ込まれ、乱暴に引き裂いた。何とも豪快な所業にマオがびっくりしていれば、薄氷色の瞳がひょこっと中を覗いてきた。

「みー」

 嬉しそうに高く鳴いた仔猫は、マオの顔を見付けるや否や鼻を擦り付ける。そして猿轡を鋭い牙で噛むと、いとも容易く引きちぎって見せた。

「わ……っ、ノット、ありがとう……」

 お礼を言いながら、少しだけ涙声になってしまう。マオは自ら仔猫に鼻を押し付けてから、肘を立てて何とか身体を起こす。ノットが破いてくれた穴に頭を宛がい、更にびりびりと裂け目を拡大させた。えいっと頭を突きだせば、ようやく上半身が袋から出る。その反動で再び床に転がったが、ちょうど背後に座っていた仔猫が、彼女の拘束に気付いたようだった。

「あ、む、無理しなくていいよ」

 振り返ると、固く縛られた縄に仔猫が爪を立てていた。マオの言葉を無視し、仔猫は結び目以外の部分を噛みちぎる。……そんなに鋭い牙だったのかと、マオは自由になった手で思わず仔猫の口を広げてしまった。

「み゛ぃ」
「ご、ごめん。あんまり気にしたことなかったなって……ありがとうね」

 改めてお礼を告げ、マオは麻袋から這い出る。文字通り猫の手を借りつつ足首の縄をほどき、ようやく全ての拘束を解いては周りを確認した。そこは随分と狭く、四方にはまるで彼女を隠すように、沢山の荷物が堆く積まれている。がたがたと空間全体が揺れていることから、ここが馬車の荷台という可能性が浮上した。一体どこに運ばれているのだろうかと、マオが不安を露わにしたときだ。

「! ひゃっ」

 急に体のバランスを失い、荷物に背中を打ち付ける。どうやら馬車が停止したようだった。次いで微かに聞こえてきたのは、数人の話し声。どれも男性のようだが、マオの知っている声はそこに含まれていない。

「──商人か。中には何を積んでいる?」

 検問だ、とマオはすぐに気付いた。どこの町かは全く分からないが、今ここで外へ飛び出せば助けてもらえるかもしれない。いや、それは少々危険が過ぎるだろうか。彼女を攫った相手は高確率で殺し屋であり、この馬車だって普通の商人を装っているに違いない。検問を上手く騙す方法だって用意しているだろう。しかし、好機をみすみす逃すわけには──。

「……って」

 腰を浮かせようとした瞬間、マオは大事なことを思い出す。彼女が所持していた肩掛け鞄が、どこにも見当たらないのだ。あの中には僅かな金銭や衣類、携帯食、それとホーネルから預かった古びた腕輪が入っている。

「ノット、私の鞄、知らない?」

 声を極力抑えながら、マオは仔猫に顔を近付けた。ノットは青い鈴を揺らし、小首を傾げてから歩き出す。荷物の山を軽々と飛び移った先で、薄氷色の瞳がちらりと彼女の方を振り向いた。何かを見付けた様子だったため、マオも物音を立てぬようにしてそちらへ向かう。荷物は不安定に積まれており、ちょっとでも体重をかければ崩れてしまいそうだ。ときに爪先立ちで身体の幅を縮め、ときに軽そうな荷物を下に降ろして、冷や汗をかきつつノットの元まで辿り着いた。

 梱包された荷物とは異なる、適当に布を掛けただけの箱がある。その隙間から見慣れたベルトが覗いていることに気付き、マオはそっと布を持ち上げた。自身が持ち歩いていた鞄であることを確認し、中に手を突っ込む。金銭を入れた袋、衣類、携帯食──奥底に埋まっている、布に覆われた硬質な感触を確かめ、マオは手早く鞄をたすき掛けにする。

「ノット、ここから出よ──ぅわぶっ」

 怯えつつも腹を決めたというのに、顔面に飛びついた仔猫によって発言は遮られた。しかも仔猫はマオの頭を踏み台に、出口へ素早く跳躍したではないか。ぎょっとしたマオが振り返れば、ちょうど荷台の幕を開けた人物が、顔面を仔猫にタックルされ、大の字に倒れていく姿が。

「うぅ!?」
「の、ノット!」

 落ちてきた仔猫を受け止め、マオは倒れた人物を見下ろす。彼は顔を引っ掻かれたのか、痛みに悶えてのたうち回っていた。罪悪感はあったものの、これは逃げるチャンスである。彼女は小さく謝ってから、急いで馬車から飛び降りる。月明りに照らされた草原が視界に広がり、左手には大きな川が見えた。右を見れば、身を隠せそうな深い森がある。そちらへ向かおうとして、あまりにも真っ暗な闇に逡巡。しかして背後から呻き声が聞こえてきては、弾かれるようにして走り出した。

「ちょっ……ま、待て!!」

 想像していたものよりも、随分と若い声が夜空に木霊した。





 ──夜中だというのに、その森は明るかった。どこからか光が射し込んでいるわけではなく、植物自体がぼんやりと発光しているようなのだ。加え、マオの顔くらいはある大きな胞子がふわふわと漂い、彼女の視界を色鮮やかに照らしていた。

「……真っ暗に見えたのに」

 外から見たときは、一寸の光すら許さぬ闇が、木々の向こうに収まっていたはずだ。だが一歩踏み入ればその姿は幻であったことを知らされ、マオの恐怖心をいくらか和らげてくれた。しばらくマオは無心に七色の森を駆けていたが、果たしてこの先に進んでも大丈夫なのかという不安が生まれる。このまま森を抜けるつもりで入ったのだが、如何せん、どんどん奥まったところへ向かっている気がするのだ。七色の光が彼女の心を和ませてくれたのは最初だけで、まとまりのない色は次第に胸をざわつかせる。

「みー」

 抱き締めていた仔猫が、腕から抜け出して肩へ登ってきた。肉球がぷにっと右頬に埋められ、マオは促されるまま左を向く。呼吸を落ちつけながら静寂の森を見渡し、誰も後を追いかけてきていないことを知った。ホッと息をつき、彼女は近くの岩に腰を下ろす。

「どこなんだろう、ここ。また迷子になっちゃっ……」

 迷子という単語を発してから、はたと気付く。マオが何者かに馬車で連れ去られてしまったことは確かだが、それは“正式な道を通ってきた”という証でもある。何が言いたいかというと、“階段”のような不可解な空間は、恐らく介していないということだ。あの空間はマオが迷子になった、謂わばトラウマばりの場所なので、今度また通過する際にはオングとはぐれないようにしようと、決めていたのだが……。

「…………ここ、“階段”、みたい」

 外側からは真っ暗な闇。されど中に入れば白い霧が充満し、星空と朽ちた遺跡が出現した。見えるものは違えど、この森も似たような構造をしていることに気付いたのだ。マオは慌ただしく立ち上がり、ノットを肩から引き摺り下ろして抱き締める。“階段”で迷子になったとき、彼女があそこから脱出できたのは恐らく、仔猫のおかげである。仔猫が導いてくれなければ、マオはずっとあの遺跡に留まっていたかもしれない。ゆえに今、道標となりえる仔猫と、間違ってもはぐれるわけにはいかなかった。

「みぅ……」

 窮屈そうに呻く仔猫を宥めつつ、マオは辺りに目を凝らす。どこもかしこも色鮮やかなせいで分かりづらいが、一応、人が踏み固めたであろう道らしきものが伸びている。まだ森が“階段”であると決まったわけではないが、美しい景色に気を取られぬよう、マオは顔を左右に振った。そうして大きく一歩を踏み出した直後、彼女の視界が陰る。

「へ?」

 振り返った先で、一つの影がマオを見下ろしていた。

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