プラムゾの架け橋

第二章

17.

 長椅子の下を覗き込んだマオは、真っ青な顔で硬直していた。さらさらと流れる清流も、暑さを紛らわせる涼風も、今のマオを落ち着かせるには至らない。うろうろと視線を巡らせ、四つん這いのまま木の裏側へと回る。ふわふわと揺れる花を凝視すること数秒、ようやく彼女は呟いた。

「ノットがいない……」

 言葉にしてみて更に焦りを覚えたマオは、慌てて立ち上がった。仔猫を包んでおいた外套ごと無くなっていることから、誰かが持ち去ってしまった可能性が高い。もしそれが動物嫌いの人間だったらどうなることか。獣だ何だと騒ぎになるか、最悪城の外に捨てられてしまうかもしれない。絶望的な表情で顔を覆ったマオは、息も整わないうちに再び走り出した。

 城内の廊下を通る際、数人の貴族を発見する。しかしプスコスの町であまり好反応を貰えなかったことを思い出し、マオは彼らに声をかける気にはなれなかった。廊下の脇に寄り、彼らが通り過ぎるのを逸る気持ちで待つ。その間、他に誰か尋ねやすそうな人はいないかと、マオが他所を見遣ったとき。

「きゃああー!? ね、ネズミ!! 誰か退治して!!」

 きらびやかな服を身に纏った女性が、使用人の後ろに隠れながら叫ぶ。彼女の足元には手のひらより少し小さいネズミが、女性の叫び声にびっくりして走り回る姿。近くにいた貴族の男性が追い払うかと思いきや、彼らも同じように叫び声をあげる始末。驚きを通り越して呆れてしまったマオは、小走りにそちらへと向かい、両手でひょいとネズミを拾い上げた。各々の「えっ」という戸惑いの声を聞きながら、マオは近くの窓硝子を開け放ち、そこからネズミを外へと投げる。ぴしゃりと硝子戸を閉め、何事もなかったかのようにその場を去った。

「……ま、全く!! あなたも殿方も頼りになりませんわね!!」

 その後、みっともなく叫んでいた女性は我に返り、大きな声で吐き捨てる。廊下には気まずそうな咳払いと、汚れてもない衣服を払う音が響いたのだった。




 マオはうろうろと城内を歩き回りながら、今しがた起きた騒ぎに溜息をつく。ネズミは確かに害獣として嫌がられているものの、あれくらいの大きさならマオにだって捕まえられる。幼い頃は自分でひょいひょい捕まえては逃がしていたが、そういえばノットを拾ってからはネズミを見なくなったような。ホーネルの証言通り、仔猫がネズミを退治してくれていたのかもしれない。

「……猫ってネズミ食べるのかな」 
「食べるよ」
「ひゃあ!?」

 ぽつりと独り言を漏らせば、あらぬ方向から返答がもたらされる。マオは後ろを振り返ったり上を見たりしてから、進行方向にある廊下の曲がり角を見詰めた。くすくすと静かな笑い声が聞こえ、マオはそっとそこを覗き込んでみる。

「やあ、こんにちは」

 壁に寄りかかっていたその人は、屋内にも関わらず外套を身に着けていた。目深に被ったフードからは、男性にしては白い肌と、そこに走る大きな傷跡が見える。マオは暫し彼を見上げてから、「こんにちは」と小さく挨拶を返した。

「……独り言、聞こえてましたか?」
「ばっちり。……城を走り回っているようだけど、誰か捜してるのかい?」

 彼は壁から背中を離すと、その薄い唇に笑みを刻む。頭が軽く傾けられた拍子に、彼の青い瞳が露わになった。そこでマオはようやく、この青年を一度だけ目撃したことを思い出した。

「あっ!」
「んー?」
「い、いえ、何でもないです」

 “階段”で第二層へ上がり、エクトルに逃がしてもらった直後のことだ。マオが林を抜ける際にすれ違った人物と、よく似ている気がした。だが彼の方はマオのことを覚えていない様子だったので、これといった確証は得られない。別に深い関係でもなければ、言葉を交わしたのも今日が初めてだ。つまり、ほぼ初対面のようなものだろう。マオは取り敢えずその気持ちで接することを決め、改めて事情を説明する。

「中庭に置いてた外套がなくなって……それを捜してるんです」
「ふうん。それと何か大切なものも一緒に置いていたとか?」
「えっ」
「外套だけならそんなに必死に捜さないでしょ。で?」

 仔猫のことは伏せておこうとしたのだが、残念なことにマオの隠し事はよく他人に見抜かれる。そんなに分かりやすいのかと若干の落ち込みを表しつつ、マオは極力小さな声で告げた。

「こ、仔猫を……見付からないように包んでおいたんです」
「うわあ。貴族がうじゃうじゃいるのに、凄い度胸だね」

 彼は可笑しげに肩を揺らし、マオの行為を咎めるどころか褒めたではないか。てっきり怒られると思っていたので、彼の反応にはついポカンとしてしまう。するとそんなマオの手を恭しく引き、彼はおもむろに廊下を進み始めた。

「実はさっき、畳んだ外套を大事そうに抱えている人を見かけてねぇ」
「え!?」
「今から連れて行ってあげる。にしても、あの中に仔猫が入ってるんだ」

 思わぬところで手がかりを得たマオは喜んだものの、引っ掛かりを覚えて首を傾げる。マオが「外套を捜している」と答えたとき、既に彼は見当がついていたのではないだろうか。しかし外套を持ち去った人物が、どうして「大事そうに」抱えているのかが気になった。仔猫のことを隠そうとした自分も自分だが、彼はちょっぴり底意地の悪い人間なのかもしれない。

 ──それにしても。

 マオは彼の背中から視線を下ろし、ごく自然に取られた手を見遣った。先程の会話を鑑みると、彼は動物嫌いというわけではないらしい。服装もそれほど華美なものでないことから、披露宴に招待された貴族ではなさそうだ。使用人……にしては雰囲気がとても砕けているし、護衛の私兵という線が濃いだろうか。けれど歩く姿勢が美しかったり、所作もどこか洗練されていたり。マオは素性のよく分からない青年を、困惑気味に仰いだ。

 すると突然、彼はマオの手を前に引く。隣に並んで歩くような形になり、反応しきれなかったマオはきょとんとしたまま彼を振り返る。ちょうど廊下から屋外に出る扉をくぐったところで、彼の外套がふわりと風に煽られた。覗いた青い瞳は笑みを湛えながら、鋭い光をそこに宿していた。

「君、上層に興味はある?」
「はい……?」
「まあ、何て言うか……憧れるかい?」

 唐突に投げかけられた問いに、マオは咄嗟に答えることができなかった。そもそも何故、彼がそのようなことを尋ねるのか。何とも答えられずにいれば、彼は肩を竦めて笑った。

「いや、忘れていいよ」
「え、あのっ興味はあります!」

 自分だけが日の下に出たせいか、彼の姿がひどく暗く見えた。表情なんてひとつも分かりやしない。けれど彼女の返答を聞いて、それまでどこか剣呑だった眼差しが和らいだ気がした。

「君が呆れるくらい、クソみたいな貴族がぐうたら過ごしていても?」
「く……いや、私は貴族の人たちより、プラムゾそのものに興味があるというか……だって、不思議なことが沢山あるんですよ。橋脚の中なのにこんなに広かったり、“階段”の中にも変な空間があったり」
「!」

 マオが今までに見聞きしたものを指折り数える傍ら、彼が相槌とは異なる反応を示す。何か大事なことを思い出して、息を呑むような──ほんの僅かな驚愕。それに気付かぬままマオが話を続けようとすれば、急にその口を片手で塞がれてしまった。

「ふぁッ」
「なるほど、よく分かった。でも今の話はしない方がいい」
「いふぁお?」
「うん。“階段”の下りね。それは怪しい奴に喋っちゃ駄目。いいね?」

 怪しい奴と訊いて即座に思い浮かぶのは、先ほど逃げてきたエクトル。一応マオの恩人であるはずなのだが、後ろ暗い噂が絶えないことから十分に「怪しい奴」と言える。しかし今、目の前の彼が想定している「怪しい奴」とは、エクトル以外を含む広範囲を指しているようだった。有無を言わさぬ視線にたじろぎ、マオは口を塞がれたまま素直に頷く。彼はにっこりと笑い、手を離してくれた。

「いい子だね。また会う機会があったら……そうだな。“階段”について話してあげるよ」
「え……あの、“階段”の……見たんですか?」
「いや? 見てないよ。でも君と似たような証言をした人なら知ってる」
「!!」
「今はちょっと時間がないから、また今度ね」

 途端に目を輝かせたマオの「聞きたい!!」という思念が伝わったのか、彼は制止するような動きで片手をあげる。その延長でマオの肩を掴み、くるりと体を反転させた。そして軽く背中を押すと同時に、その言葉がマオの耳に届けられる。


「──俺も見てみたいよ、“君たち”だけが見れる景色を」


 優しく、それでいて哀れむような声色だった。意味を理解しかねたマオが振り返ってみても、既に彼は背を向けてしまっていた。こちらを気にも留めぬ足取りで遠ざかる影を、しばらくじっと見詰めていたが、やがてマオも踵を返す。また今度、会える日が訪れるならば、今の言葉の真意も尋ねてみよう。そんな日が本当に来るのかは、彼女の知るところではないのだが。

 そうして視線を前へ向けた瞬間、珊瑚珠色の瞳は真ん丸に見開かれることとなる。

 人気のない裏庭で、一人のんびりと花壇に腰掛ける影。傍らには綺麗に畳まれた外套と、その上で丸まっている黒い仔猫。ゆらゆらと揺れる扇子をあんぐりと凝視していれば、軽やかな笑い声がもたらされた。

「ほほ、待ち人来たれり」
「……お、おじいさん!?」

 プスコスで忽然と姿を消した老人が、そこで優雅に冷たい茶を啜っていた。マオは少しのあいだ硬直していたが、ようやっと状況を把握し、老人の方へ歩み寄る。すると彼女の気配でも悟ったのか、仔猫が不意に目を覚まし、軽い足取りで寄って来た。再会を喜ぶというよりは、「何処に行ってたお前」と言わんばかりに、そそくさと肩に飛び乗る。

「ノット、ごめんね。置いて行っちゃって……おじいさんが見ててくれたんだね」
「中庭に見覚えのある仔猫が寝ておったからのう。お前さんも来とるじゃろうと思って、連れてきてしもうたわい」

 老人は茶を置くと、それと入れ替わりに大きな板を膝に乗せた。マオがそっと覗き込むと、そこには丈夫そうな白い紙が張られている。羊皮紙よりももっと硬質に見える画面に、老人は色鮮やかな絵の具をゆっくりと乗せていった。

「おじいさん、絵を描けるの?」
「そうじゃよ」
「すごい……お花?」
「いんや、人じゃよ?」
「人? ふうん…………じゃなくて」

 ついつい感心して見入ってしまったマオは、ハッと我に返る。老人が誰を描いているかは知らないが、取り敢えず視界の邪魔にならないところに腰を下ろした。そして、花壇に群がる数匹の蝶を後目に口を開く。

「まさかおじいさんがいるとは思わなかったや」
「んん?」
「セレスティナさんの結婚披露宴に呼ばれてたの?」
「そんなところじゃな。あれはいくつになっても、おてんば娘じゃのう」

 セレスティナとも知り合いらしく、マオは改めて老人の顔の広さに慄く。と同時に、ずっと靄のかかっていた老人の素性が、唐突に晴れたようだった。彼はこの結婚披露宴に招待されており、城内を自由に歩き回ることを許され、おまけにその大きな荷物には沢山の画材が詰め込まれている。ホーネルが出発前に告げた「画家」というのが、この老人のことだったのではないか、と。

「……おじいさん、もしかして絵のモデルを探して旅をしてたりする?」
「ほっ? お前さんにそんなこと言ったかの?」
「ううん。リンバール城に招待された絵描きさんがいるって聞いたの。おじいさんのことでしょ?」

 老人は真っ白な髭を撫でつけ、ころころと笑う。そして絵筆を動かしながら、マオに悪戯な笑みを向けた。

「ばれたなら仕方ないのう。まぁ隠してたつもりもないが……ほれ、おかげで良い絵が描けそうじゃよ」

 画板をこちらに向けられ、マオは促されるままに絵を見る。つい先ほどまでは絵の具が乗っているだけだったのだが、描き加えられた色のおかげで、ぼんやりと輪郭が分かるようになっていた。中心に立つのっぺりとした人物は、頭部に長い栗毛が靡き、胴には青い衣を纏っていた。その足元には真っ黒な小さい塊がある。じっと見つめること数秒、マオは恐る恐る老人の顔を窺った。

「……私?」
「ほほ、正解じゃ」
「えっ!! 何で? 絵のモデルって、もっとあの……綺麗な人じゃないと駄目なんじゃないの?」
「そんなことはないぞい。描きたいものなら何でも良いのじゃ」

 意図せずに老人──もとい有名な画家のモデルとなってしまい、慌てふためくマオに「それに」としわがれた声が続けられる。

「お前さんは真っ直ぐじゃ。その珊瑚珠色の瞳は、いつだって素直な光で満ちておる。禁忌の扉を開いた若者のように、時に勇ましく、時に愚かしくもある」

 記憶を遡る素振りで、老人は歌うように言葉を紡いだ。画家でありながら吟遊詩人でもあるのかと思わせる調子だったが、マオは「禁忌の扉」という単語に首を傾げる。一体どういう意味なのだろうと考えるよりも先に、皴だらけの手が彼女の頭に乗せられた。


「──……お前さんは綺麗じゃよ。“母親”によく似ておる」


「……え」

 表情を固まらせたマオとは対照的に、老人は穏やかな態度を崩さない。暫しの静寂が通り過ぎた後、彼女はようやく渇いた喉を震わせた。

「お母さん……? 私の?」
「そうじゃよ」
「……会ったこと、あるの?」
「もう随分と昔じゃがのう。お前さんとおんなじ瞳をした、元気なおなごじゃった」

 両親の顔すら知らないマオにとって、それは相当な衝撃だった。母親のことを知っている人物が、今、目の前にいる。聞きたいことが沢山あるはずなのに、言葉は象られることなく、意識は唇を開閉させるだけに留めてしまう。そんな彼女の様子を知ってか、肩に乗っている仔猫が小さく一鳴きし、栗毛の束を前脚で揺らした。背中を押されたような気がしたマオは、ハッとして前のめりになる。

「あっ……あの、おじいさん、お母さんのこと──」
「ああ、ヒャルマン殿! こんなところにいらっしゃったのですか!」

 しかし、そこでタイミングよく大きな声が問いかけを遮る。振り返れば、身なりの整った中年男性と、これまたきらびやかな出で立ちの女性が、こちらに向かって歩いて来た。二人の姿を認めた瞬間、仔猫はそそくさと外套の中に潜り込む。これにはマオも慌てて、ぐちゃっとした外套を抱え上げた。

「ほお、伯爵家のクストンブじゃったかの」
「クスタヴィでございますよ。それよりもヒャルマン殿、そろそろ披露宴が始まりますぞ。お迎えに上がりました」
「何じゃ、もうそんな時間か」

 老人──ヒャルマンは残念そうに呟く。ゆっくりとした動きで画材を片付け始める横で、不意に貴族の娘がマオの方を振り向いた。じろじろと値踏みするような視線をぶつけられ、マオがたじろいでいると。

「あなたは?」
「え、あ……」
「どこかの使用人かしら? 油を売ってる暇はないのではなくて?」

「その子は商人じゃよ。初対面で喧嘩を売るのは感心せんな」

「!!」

 貴族の娘はびくりと肩を震わせ、構わずに片付けを続行する老人を見遣った。いつもの穏やかな音はどこへやら、鋭く突き刺すような冷たい声だった。途端に空気が緊張し、伯爵が頬を引き攣らせて娘を宥める。

「こ……こら、ヒャルマン殿の仰るとおりだぞ。ははは、ほら、落ち着きなさい」
「クスタヴィ、もしやその娘をモデルに連れてきたのかの?」
「え!? そ、その、ええ、ヒャルマン殿の御眼鏡にかなえばと」
「まずは教育をしっかりせい。心がまるで育っておらん」

 ピシャリと言い放ったヒャルマンは、それまでのやり取りを何ら気にも留めない様子で、「よっこらせ」と花壇から立ち上がる。そして扇子を広げては、のんびりと歩き始めた。

「さて、行こうかの。遅れるとセレスティナに怒られてしまいそうじゃ」

 一人で先に行ってしまった老人を、貴族の親子が慌てて追いかける。娘の方は腹立たしいと言わんばかりに、マオをひと睨みしてから、だが。

 ぽつんと取り残されたマオは、次第に視線を落としていく。結局、ヒャルマンに母のことを聞くことは叶わなかった。この披露宴が終わったら、探して聞き出すこともできるかもしれないが……あの老人は、「捜すと見付からない」という厄介な性質の持ち主らしい。今日を逃せば、一生こんな機会は訪れないのではなかろうか。いや、さすがにそれは……などとマオが悶々としていると、不意に抱えていた外套がもぞもぞと動き出す。

「うわっ、ノット、駄目だよ出てきたら」
「みー」

 じたばたと外套の中から這い出した仔猫は、マオの手を逃れて花壇に飛び移る。そして、その小さな前脚で何かを突いていた。不思議に思ったマオは、またネズミでも出てきたのかと、そっと覗き込んでみる。

「これ……おじいさんの忘れ物かな」
「みっ」

 花壇の縁に置かれていたのは、楕円形の宝石。ネックレスやブローチなど、様々な装身具に使用されるカメオだ。ふっくらと立体感のあるそれを拾い、細やかな金色の額縁を摘まむ。中心には真紅の背景に、真っ白な女性の横顔が彫刻されていた。

「誰だろ……」

 こういったカメオに彫刻を残すことは権力の象徴でもある、とホーネルから聞いたことがある。ゆえに貴族はカメオだったり肖像画だったり、自身の姿を切り取って残せるものが大好きだそうだ。あまり理解はできないが、マオは美しい横顔についつい見入ってしまっていた。


 ──背後から忍び寄る影に、ひとつも気付かぬまま。

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