プラムゾの架け橋

第二章

14.

 “天空の塔”第二層、リンバール城。プスコスの町から東へ五日ほど、中央階段を囲む山脈からは、半日ほどかけて南下した場所にある古城だ。四方を大きな湖に囲まれ、その外側にはなだらかな山々が連なっている。大自然の中に悠然と佇む姿から、いつしか湖上の城と呼ばれるようになった。

 かの城は貴族の催しによく利用されるほか、その美しい景観から観光地としても非常に有名な場所だ。また青空と白い雲、瑞々しい木々の緑、それらを淀みなく映す湖──この景色を題材とする画家も多いのだとか。

 ゆっくりと息を吸い込めば、ほのかに冷たい空気が胸に浸透する。併せて瞼を押し開けると、石造りの橋がすぐそこまで迫っていた。それは今日の結婚披露宴のために調達したであろう、白色や桃色、それから水色を基調とした花々に飾られている。透き通った水面は綺麗にその橋を映し返し、更なる華やかさを添えていた。

「すごい……」

 マオにはこの景色が、ひとつの芸術作品に見えた。忘れぬよう、いつまでも記憶に残していたいと――それと同時に、世の画家がどうして景色を描くのか、その気持ちを少しだけ感じ取った。

「今日は晴れて良かったね。彼女も喜ぶだろう」

 ぽーっと景色を眺めていたマオは、後ろからかけられた声に振り返る。そこには数日前、無事に合流を果たすことができたオングとハイデリヒ、それからグレンデルの姿があった。青年は脱いだ外套を軽く畳んでから、やはり自然な動作でマオに手を差し出す。

「さてと、行こうか」
「はい。あの、ハイデリヒさま、彼女って……?」 
「ああ、今日の主役だよ」 

 彼はにこりと笑った。主役、というと花嫁のことだろうか。マオはここに招待されている男爵のもとへ商品を届けることが第一の目的であり、実は今回の結婚披露宴で誰が祝されるのかも知らずに来た。恐らく自分は会場内に入ることを許されないだろうし、他人の結婚披露宴に対してそれほど興味を持っていなかったのもある。

 プラムゾの、とりわけ第一層に住む平民は、婚儀に大勢の人を呼ぶ形を取らない。町にある古びた建物――“ヒェルフ”という公共の集会場で、大抵の者は親族のみでひっそりと婚儀を執り行う。親しい友人をその場に呼ぶことも勿論あるが、互いが遠くに居を構えている場合は、結婚したことを文で連絡するのだ。

 それに対し、貴族はなるべく各層に婚儀の知らせを届ける。どの家の誰と誰が結婚したのかという情報は、貴族社会にとって非常に重要な意味を持つからだ。有力な家同士が結びつきを強固にすれば、それだけ他の家にとって脅威になることがある……と、ハイデリヒがそこまで説明してくれたところで、マオは疑問符を浮かべる。

「ハイデリヒさま。私、そもそも貴族の人たちが何を、その……どんなお仕事をしてるのか知らなくて」

 貴族が何をもって貴族と呼ばれるのか。それすらもよく知らないマオにとって、家同士の結びつきが強固になったところで何か変わるのか、といった感じである。よもや仲良しになるだけ、なんてことはないだろうが。

「貴族の仕事かい? 僕らは階級に応じた領地を与えられていてね。そこの管理運営とか、未開拓地の……って」

 ハイデリヒはふと言葉を途切れさせ、隣を歩くマオに視線を寄越した。

「マオ、もしかしてプラムゾに“王”がいることも知らない?」
「おう……?」

 瞳を逡巡させ、しばし沈黙。そういえば、幼い頃に読んだ絵本に「お姫様」が出てくるものが多かったのだが、その父親が「王様」と表記されていたことをマオは思い出す。当時は父親のことを「王様」と呼ぶのかと勘違いし、ホーネルのことをそう呼んだこともあった。ちなみに彼が露骨に嫌そうな顔をして、強めに訂正してきたこともマオは覚えている。

「王さま……えっと、偉い人ですか?」

 何となくのイメージで尋ねてみれば、ハイデリヒは曖昧な笑みで頷く。彼は段々と近づいて来たリンバール城を見上げ、その細い人差し指を立てて見せた。

「まあ、そうだね。この“天空の塔”を治める立場にある人だよ。簡単に言えば、貴族の中でも一番偉い人、になるのかな」

 なるほど、とマオは大雑把な括りを理解する。あまりしっかりとは覚えていないが、男爵から公爵までの貴族階級があることは彼女も知っていた。つまり公爵の更に上――貴族社会の最高位に立つのが“王”ということだろう。

「へえー……王さま……全然知りませんでした。もしかして王さまって、最上層に暮らしているんですか?」
「うん。最上層に大きなお城があって、そこでね。マオと同い年くらいの姫君もいるんだ」

 いよいよ御伽噺のようになってきた、とマオは思わず瞳を輝かせる。プラムゾには“王”なるものが存在し、その娘である姫や臣下などもいるという。最下層に住んでいるマオにその実態は一切伝わってこないが、さぞ贅沢で豊かな暮らしを送っていることであろう。

 と、そんなことを考えていたマオは、すぐそこにある古城を見詰めては、まばたきを繰り返す。

 幼い頃は沢山の絵本をホーネルに読んでもらったが、その中にはプラムゾで実際に起きた話もきっと混ざっていただろう。「お姫様」の物語だって、最上層に暮らす姫君をモデルにして書かれたのかもしれない。しかし。

 ――さぁ、分からないな。

 御伽噺の真偽を問うたとき、ホーネルは決まって答えを濁した。普段から少しだらしがなかったり、平気で暴言を垂れ流したりする彼だが、プラムゾに関する知識は豊富であるようにマオには見えていた。それは、配達のために上層へ赴くことの多いオングよりも、はるかに。

 けれどホーネルは上層の話をしてこなかった。絵本を読み終えても、「おしまい」の一言だけ。今になって考えると、そこに彼の意図のようなものを感じた。敢えて上層の話を――“王”の話を、マオから遠ざけていたのではないかと。

 ――マオ、僕はね。

 まどろむ幼い娘に、彼は静かに語りかける。額を撫ぜる手は優しく、それでいて虚ろな冷たさを感じさせた。


 ――君を拾ったことを……たまに、後悔するんだ。


「マオ? 着いたよ?」
「! あっ」

 意識を過去の記憶へ飛ばしていたマオは、ハイデリヒの声で我に返った。隣を見遣れば、駱駝色の瞳が少しばかり心配そうに曇っている。

「大丈夫かい? 少し休んだ方が」
「ええ、二層は陽射しが厳しいですもの。日陰に入った方が気分も回復すると思いますわ」
「そうそ……はっ?」

 彼とは反対側から、鈴を転がしたような声が聞こえた。ハイデリヒが間の抜けた声をあげれば、マオもつられて体を反転させる。

 まず彼女の目に留まったのは、ゆるやかなカーブを描いた美しい銀髪だ。艶やかな毛束は、湖が反射した光を受け、時折ちらちらと輝きを放つ。真っ直ぐに切り揃えられた前髪からは、淡い緑色の大きな瞳が覗いていた。うっすらと色づく桃色の頬と唇は、それぞれの形で笑みを象る。



「セレスティナ!?」


「久しぶりね、ハイデリヒ。こちらのお嬢さんはだあれ? 私と同じ歳ぐらい? 意地悪ね、私にもちゃんと紹介してちょうだい」
「まだ何も言ってないよ……」

 セレスティナと呼ばれた少女は、いつの間にかマオの片腕にしがみついており、ハイデリヒに対してぷりぷりと怒っている。自身よりも幾分か小柄な少女を見詰め、マオはたじろぎながらも口を開いた。

「あの、あなたは……?」
「初めまして、私はセレスティナと申しますの。今日の主役、と言えば分かりやすいかしら?」
「……えっ!? じゃあ、えっと、花嫁……さん?」
「正解ですわ」

 ふわりと微笑まれ、同性ながら思わず照れてしまう。視線を泳がせれば、すぐに白緑の瞳が覗き込んでくる。

「ねえ、あなたのお名前は?」
「ま、マオです」
「歳は?」
「十六……」
「まあ! やっぱり同じ歳ですわ! 私のことは何とでもお呼びになって? セシィでもティナでも構いませんわ!」

 セレスティナは瞳をきらきらと輝かせ、矢継ぎ早にマオへと言葉を投げていく。儚い外見とは裏腹に、これほどまでにお喋り好きな少女とは予想しておらず、マオはその勢いに圧倒されてしまっていた。

 そこでようやく、少女に気圧されていたハイデリヒが溜息混じりに片手を挙げる。セレスティナからやんわりとマオを引き剥がすと、リンバール城の入口を指差した。

「セレスティナ、お喋りは後でも良いかい? みんなが困ってる」
「みんな?」

 少女が振り返ると、そこには大勢の貴族らが立ち往生している。本日の主役である花嫁が城の真ん前ではしゃいでいるのだ。会話を割って挨拶をすべきか否か、どちらにせよ素通りしづらいのだろう。

「それにほら、マオを休ませないと」
「あら! 私としたことが……ごめんなさい、マオ。城の中に涼しいお庭がありますのよ、ぜひ私が案内」
「ああっ、こんなところに!! セレスティナ様!!」

 城から飛んできた声を受け、途端にセレスティナの喜色が失せる。不貞腐れたように唇を尖らせた少女は、ムスッとしたまま振り返った。

「ちぃッ……見付かってしまいましたわ」
「慣れない舌打ちしない」

 白々しい舌打ちを聞き取り、ハイデリヒがぼそりと注意する。そうこうしている間に、数人の男女がマオたちの元へと駆け付けた。見たところ兵士と侍女のようだが……とマオが様子を窺っていると。

「全くもう! 早く控え室にお戻りください! 時間がないのですから」
「旦那様が心配されていますので、お嬢様」
「嫌よ。私のことを心配ですって? 嘘も休み休み言いなさいな」

 彼らの催促を一蹴し、セレスティナはツンとそっぽを向く。

「──ほとんど他人ではありませんの。夫婦だなんて形だけですわ」

 空気がピシリと凍った。

 あまり状況が理解できていないマオでも、結婚披露宴当日における今の発言が、如何に不味かったのかは分かる。周囲の貴族は顔を引き攣らせているし、ハイデリヒに関しては片手で顔を覆ってしまっていた。そして何より困ったのは、セレスティナが再びマオの腕を抱きしめていることだった。

 場違いにも程がある。マオは冷や汗をかきつつ、できるだけ目立たぬよう無意識のうちに縮こまる。

「っ……お嬢様、いい加減に」
「セレスティナ」

 気まずい雰囲気の中、侍女が声を荒らげようとしたときだった。柔和な音が場を鎮め、皆が反射的に口を閉ざす。先程とは異なる形で、この場にいる者達に緊張が走ったようだった。

「何ですの。……ハイデリヒ」

 セレスティナが不服げな面持ちを維持したまま、彼を見遣る。ハイデリヒは少しばかり眉を下げたが、口許にはいつもの笑みを刻んだ。

「披露宴が終わったら、僕とお茶会をしようか。そうだな、せっかくだからマオも一緒に」
「!」
「ああ勿論、それはセレスティナがしっかり役目を果たした場合に限るけど」

 ごく自然に巻き込まれた気がしたマオは、咄嗟に「いや、私は」と首を振ろうとする。だが。

「くぅっ……仕方ありませんわね……!」
「え」
「でしたらマオ、あなたはすぐに顔色を良くしてきてちょうだいっ! お茶会までに体調を戻すんですの!」
「えっ」
「ほら、あなたたち! こちらは私の新しい友人ですわ!! さっさとお庭に案内なさい!!」
「ええ!?」

 最後はマオだけでなく、呆気に取られていた侍女たちも驚きの声をあげていた。それまでの話は既に、セレスティナとハイデリヒの間で決着がついてしまったらしい。幼い花嫁が大股に城の中へ戻っていく姿を見送り、マオはそっと傍らの彼を見遣った。

「……あ、あの」
「ごめんね、マオ。あの子については……庭の方でのんびり説明しようか」

 ハイデリヒは苦笑混じりに告げると、混乱を極めている彼女の背を押したのだった。

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