プラムゾの架け橋

第二章

13.

「――マオ!?」

 繋いでいた手がするりと抜ける。否、手そのものが質感を失い、この白い霧に同化してしまったかのようだった。

 離れた手はおろか、こちらの声にも気付かない栗毛の少女は、ぼんやりと虚空を見詰めたまま。しかしてその足はゆっくりと前に進み、あっという間に霧の向こうへと消えてしまった。

 追いかける手が空を切り、ハイデリヒは急いで周囲を確認する。だが、あの少女はおろか、グレンデルとオングの姿もそこにはない。“階段”が異変を来していると、彼は本能的に悟った。このままでは霧の中でさまようことも有り得るだろう、そんな危機感を抱いた瞬間。

「置いてきぼり、置いてきぼり」
「ひどい、ひどい」

 幼い子どもの声が聞こえてきた。声そのものは無邪気ながら、発した言葉は彼の心を深く抉る。指先がびくりと震え、四方から苛める声にハイデリヒは恐怖した。

「待って、待って」
「私を置いて行かないで」

 悲痛な懇願に混ざる啜り泣き。聞き覚えのあるそれに顔を歪め、思わず一歩後退すれば、ばらばらだった囁きが収束する。音はやがて肉体を形成し、彼の視界に具現化した。そうして彼の前方に現れたのは、暗い金髪をもつ少女。顔を両手で覆ったまま、ずっと悲しげに泣いている。

「一人にしないで」

 胸中に雪崩れ込んできたのは、焦りや恐怖すら飲み込んでしまう虚無感。置いて行かれることに対する、強い拒絶の感情だった。ハイデリヒは耐え切れず屈しかけ――咄嗟に己の左手を掴んだ。甲に爪を立て、皮膚に赤が滲もうとも、彼は力を抜くことをしない。

 やがて霧が濃くなり、少女の姿もそこに紛れていく。完全に白く塗り潰される寸前、小さな手の隙間から、淀んだ瞳がちらりと覗く。交わされた視線に臆することなく、ハイデリヒは掠れた声で告げた。

「……僕はまだ、諦めてないよ」

 少女の瞳が僅かに細められる。哀れみか、それとも怒りか。様々な感情を宿した眼差しは、その後すぐに霧に掻き消されてしまった。



「……さま、ハイデリヒ様!?」

 呼び掛ける声に、ハッとする。いつの間にか白い霧は消え、薄暗い林が視界に広がっていた。すぐ隣には、いつも傍で仕えてくれている大柄な騎士の姿がある。彼は仏頂面を僅かに歪ませていたが、ようやく視線が合ったことに安堵したのか、小さく息を吐き出した。

「グレンデル、マオは……?」
「分かりません。私共も、彼女が姿を消す瞬間は見ましたが……」

 グレンデルは首を左右に振り、後方にある“階段”を見遣る。そこには愕然とした面持ちで立ち尽くす、オングの姿があった。

「オング殿、申し訳ない。僕が近くにいたのに……」
「あ、いや、あんたは悪くない! “階段”の方に何か異変があったのかもしれないし……!」

 そわそわと“階段”を見ながらも、オングはハイデリヒに気を落とさぬよう言葉をかける。今すぐにでも引き返したい様子だったが、彼はふと青年を見て、訝しげに口を開いた。

「……ど、どうしたんだ? 顔色が……」

 その言葉を受け、グレンデルも心配そうに頷く。彼らの反応から、自身の顔色が優れないらしいことをハイデリヒは悟った。

 原因は言わずもがな、先程“階段”で見たものだろう。いつもならば、白い霧の中をただただ突き進むだけの“階段”で、まさかあのようなものを見せられるとは。頭の内で未だ木霊する声を、ハイデリヒは溜息をつくことで掻き消した。

「マオがいきなり消えたからね。少し動揺してしまったみたいだ」

 自らが爪を立てた左手の甲は、赤く変色したままだった。グレンデルに見付かると要らぬ心配を掛けてしまうと考え、ハイデリヒは袖でそっと痕を隠しておく。そうして幾分かマシになった気分で、改めて状況を確認した。

 マオは“階段”の中で忽然と姿を消し、出口付近にもそれらしい人影は見当たらない。となると、彼女は“階段”内に取り残されているか、ハイデリヒたちよりも先にプスコスまで行ってしまったかの二つだろう。出来れば後者であって欲しいところだが、些か希望的観測が過ぎるのも確かだった。

 “階段”は、その仕組みはおろか、どのような物質で構成されているのかも不明である。分かっていることと言えば、それは大昔から“天空の塔”で使用されてきた、各層を繋ぐ通路であること。そして通過には一定の時間を要し、その長さに大きな個人差は見られないと一般的には言われている。ゆえに通過における時間が極端に長かったり短かったり、そういう事例が全くと言っていいほど報告されないのだ。

 しかし今、その「異常事態」に遭遇してしまっているハイデリヒは、どうしたものかと眉間を寄せた。

「……一旦、プスコスの町に向かおう。“階段”の中を闇雲に歩き回るのは危険だ」

 目的地が各層の出入り口なら問題ないが、内部をさまよっている人間の元へ向かうなど、少なくともこの場にいる者はしたことがないだろう。

 ヴォストとプスコスには、こうした異常事態に備えて捜索隊というものが配備されているはずだ。と言っても実際は、“階段”で落とし物をしたから捜してくれだとか、一人じゃ怖いから一緒に行ってくれだとか、そういう依頼しか来ないそうだ。本当に人間が見当たらなくなる事態など、彼らは想定していないかもしれない。

 それでも、頼んでみる価値はある。そう考えて、ハイデリヒが林の出口方面を見遣ったときだった。

「あれは……?」

 松明の火がぼんやりと照らす茂み。その下に不自然な影が出来ていることに気付いた。目を細めつつ、ハイデリヒはそちらへ向かおうとしたのだが、それを引き止める形でグレンデルに腕を掴まれる。

「……ハイデリヒ様。なりません」
「!」
「どうか、あれは見なかったことに」

 静かに告げられ、ハイデリヒは怪訝な表情で騎士を振り返る。グレンデルはすぐに手を離したが、念を押すような視線を向けてきた。

「……何故だい?」
「ハイデリヒ様のためです。ご理解を」

 そのやり取りはごく小さく、速やかに行われた。そして返答を待つことなく、騎士は先に林の出口へと歩き始めてしまう。幼い頃から長く付き合ってきたが、あのような態度を取られたのは初めてだった。怒りなどは湧いてこないものの、ハイデリヒは困惑した表情で立ち尽くす。

 ちらり、見るなと言われた方向を窺う。

 自身の目に狂いがなければ、あれは人間だ。呼吸を忘れ、地に横たわることしか出来ない――人間の死体。思わず顔を引き攣らせてしまうが、見ること自体は初めてではなかった。今回の遠征途上でも、行き倒れた人間や野盗に襲われてしまった者などを見てきた。

 だと言うのに、どうして今になってグレンデルは「見るな」と咎めたのだろうか?

「……黒衣……」

 そう呟いたのは、ハイデリヒではなかった。

 小さく聞こえた声に振り返ると、そこには青ざめた大男が立っていた。彼は茂みの中に倒れている黒衣の人物を見詰めて、微かな怯えと共に後ずさる。

「オング殿……?」

 そっと呼び掛けてみると、オングは我に返った様子でこちらを見遣った。彼は何かを言いかけたものの、ぎこちない笑みを浮かべて林の出口を指差す。

「な、何でもない。取り敢えず外に出よう」

 ――何も見なかったことにしよう。

 言葉にはせずとも、その意図は汲み取れた。自身よりも長く生き、多くの知識を持ちながらも、語ることをしてくれない。そんな二人の背を、ハイデリヒは複雑な面持ちで追いかけたのだった。

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