プラムゾの架け橋

第二章

12.

「ハイデリヒ……? そんな御方がいらっしゃっていたら、少しは騒ぎになっているはずだろうがなぁ」
「そう、ですか」
「で? 嬢ちゃんはそんなお偉い方とどういう関係なんだ?」
「えっ、ええと、ちょっと色々あって……」

 向けられる眼差しに宿るのは、好奇心と下心。マオは笑みを浮かべつつも、慌てて男から離れるべく一歩後退する。距離を詰めようとした男は、彼女に手を伸ばしかけ、ふと動きを止めた。

「みゃあ」
「! チッ、獣臭ぇのは売れねぇんだよ」

 あからさまな嫌悪を浮かべ、男は興が失せたように立ち去っていく。マオは複雑な心境ながらも、腕の中にいる仔猫を撫でた。

「ごめんね、ノット。一旦おじいさんのところに戻ろっか……」

 足早にその場を離れつつ、段々と暮れてきた空を見遣る。老人と共にプスコスの町に到着したものの、残念なことにオングたちがここにいる気配はなかった。

 第一層のヴォストほど大きな町ではないようだが、やはりここにも貴族は暮らしている。彼らは仔猫を見るなり、マオのことも含めて嫌そうに顔を逸らすのだ。そんな反応をされてしまえば、声を掛けることすら儘ならない。ゆえに自然とマオの爪先は、その辺を歩いている商人や柄の悪い傭兵に向かう。そして怖気づきながら頑張って声を掛けたものの、結局良い情報は得られなかった上、物騒なことに巻き込まれそうになる始末。マオは疲労感を露わにして溜息をついた。

「それにしても、う、売るって……人を売るってこと?」

 何度か同じことを言われたマオは、己の知らない世界を垣間見たような気分だった。幼い頃、商売というのは物とお金を交換するもの、とホーネルから大雑把に教えてもらったが、まさか人とお金を交換する商売があるとは考えもしなかった。

「……魚屋さん、このことも言ってたのかな」

 ――……護身、と思って頂ければ。

 思い出すのは静かな忠告。傭兵曰く「獣の匂いのする娘は売れない」らしい。だから魚屋は、護身のために仔猫を連れていけと言ったのだろうか? そもそも貴族は動物を視界にも入れないのだから、匂いなど識別出来るのかは甚だ疑問だが。

 しかし、もしかしたら不用意にハイデリヒの名を出したことで、傭兵から要らぬ興味を買ってしまったのかもしれない。彼らの反応を見るに、どうやらあの青年は貴族の中でも非常に有名かつ、位の高い人間のようだから。

 人身売買の他にも良からぬことを考える輩が多いので、不特定多数の人間がいる場所では、ハイデリヒの名前を軽々しく口にしないことをマオは決めた。

「……今更かもしれないけど」
「連れは見付かったかの?」
「あ。おじいさん」

 プスコスの町の正門付近へ戻ると、門前広場の隅っこに老人がのんびりと腰を下ろしていた。呑気に扇子を揺らす姿に、不思議と安堵を覚えたマオは苦笑する。

「ううん、やっぱり来てないみたい」
「ふむ、そうか……ならここで待っておけば、いずれは合流できるじゃろうて」
「だと良いんだけど……おじいさんはどうするの? もうそろそろ日が暮れちゃうよ」

 取り敢えず老人の隣に腰を下ろし、赤く滲み始めた夕焼け空を仰ぐ。昼間よりも風は冷たくなり、大きかった雲は小さく千切れて黄昏を彩った。

 心なしか、第一層よりも空の色がはっきりと見えるような気がする。単純な高度の問題なのか、それともプラムゾの橋脚内部が創り出す特殊な空間ゆえなのか、あいにくマオには分からない。

「ほれ」

 ひょい、と眼前に木製の器が差し出される。そこには丸いパンといくつかの果物が入っていた。目を丸くして凝視すること数秒、マオは隣の老人を見遣る。同時に笑いがもたらされ、真っ白な髭が併せて揺れた。

「何も食べてないじゃろ」

 そういえば、と頷こうとすれば、マオのお腹がぐぅと鳴る。恥ずかしさに赤面しつつ、そろそろと器を受け取った。

「ありがとう……でもこれ、おじいさんの食料じゃ……」
「んん? そこの宿屋から分けてもらったものじゃよ」
「え」
「ほっほ、この歳にもなると、なにかと顔見知りが増えてのう。お前さんも人脈は広く持っておくことじゃ」

 つまり、善意で食料を譲ってもらったということだった。マオは老人が指差した宿屋を振り返る。すると、ちょうど宿屋の扉を閉めようとする若い女性と目が合った。彼女はにこりと微笑むと、膝を軽く曲げてこちらにお辞儀をする。マオも慌てて頭を下げてから、呟く。

「……随分、若い人とお知り合いなんだね」
「ほっほっほ」

 どういった関係なのか、何故か尋ねることが出来ないマオであった。



 パンと果物をありがたく頂戴したマオは、宿屋の娘にも改めて礼を告げに向かった。嫌な顔一つせずに「気にしないで」と笑った娘は、外でのんびりとしている老人を見遣る。

「あのおじいちゃん、私のパパと知り合いなの。ずーっと前、宿屋に来た酔っ払いの傭兵が暴れて……それを追い払ってくれたらしいわ」
「お、追い払ったんですか?」
「ええ。それ以降、パパの中では恩人さんってわけ。だからパンの一つくらいどうってことないわ」 

 図らずも老人の武勇伝を聞くことになったマオは、一体どうやって酔っ払いを追い払ったのか非常に気になってしまった。しかし宿屋の娘も当時の詳しい状況は知らないらしく、「実は武術家だったりしてね」と悪戯に笑う。

「あ、そういえば貴女、今夜の宿はあるの? 部屋、まだ空いてるわよ」

 マオと歳が近いせいか、娘はとても好意的な態度だった。プスコスに着いてから怖い傭兵ばかりと話さざるを得なかったマオは、感謝にも似た安心感を覚えつつ首を横に振る。

「今日は野宿しようかなって」
「え!? 本気で言ってるの!?」
「あッ、その、お金をあんまり持ってなくて……」

 オングに旅の資金の大半を預けてしまったので、マオの手持ちに宿屋の代金を支払う余裕はない。幸い第二層は暖かく、夜になっても外が凍えるように寒くなるということはなさそうだった。問題は、怪しい輩に目を付けられないようにすることだ。

「大丈夫です。それに、ノットもいるし」

 あまり言いたくはなかったが、この宿屋には傭兵や商人だけでなく、ハイデリヒのように遠征へ向かう貴族も利用するはずだ。もしも本当に貴族の鼻が利くというのなら、仔猫を部屋に連れ込んだことで、「獣臭い」だ何だと宿屋に文句を言われてしまうかもしれない。既にこの宿屋から一食を恵んでもらった手前、そのような迷惑を掛けるわけにはいかなかった。

 そこで初めて仔猫の存在を知った娘は、渋々だったがマオの発言に納得してくれた。

「でも危ない奴が来たら、ここに駆け込んできなさいよ。いいわね」
「あ……ありがとうございます。えっと、宿屋さん」

 マオの呼び方におかしげに笑うと、娘は快活な笑みと共に告げる。

「エイナでいいわよ。貴女は?」
「マオです」
「マオ……? そう、次来るときは泊まって行ってよね」
「はいっ、エイナさん」

 一瞬、どこか不思議そうな表情を浮かべたエイナだったが、すぐに元の笑顔に戻っては手を振る。些細な反応に首を傾げつつも、マオは自然と心を弾ませながら返事をしたのだった。

 宿屋の外に出てから、マオは仔猫を抱き締めて笑みをこぼす。

「ねぇねぇノット、久しぶりに同い年くらいの女の子と話したよ」
「みー」
「また来れたら良いなぁ」

 幼い頃は同年代の少女と話したり遊んだりしたものだが、十の歳を超えると彼女らは次々と上層へ出稼ぎに行ってしまった。それ以降、マオは同性の友人というものに恵まれなかったのだ。そのため少しだったがエイナと話せたことで、彼女は嬉しさを表情に滲ませていた。

「あ、そういえばおじいさんは何処に」
「……みッ」

 その時、仔猫が尻尾をピンと上向かせる。もぞもぞと方向転換したかと思えば、マオの腕から飛び出してしまった。

「え? ノット」

 彼女が反射的に仔猫へ手を伸ばし、背を屈めた瞬間のことだった。

「いたっ!?」

 束ねた髪を後ろから掴まれ、マオは思わず身体を逸らす。仔猫の威嚇するような鳴き声と、それに対する忌々しげな舌打ちが彼女の耳に届いた。

「うるせぇなあ……おい嬢ちゃん、ハイデリヒの知り合いってぇのはお前か?」
「え、あ、あの」

 酒の匂いを纏った声に、マオは堪らず顔を顰める。その反応にまたもや舌を打った男は、髪を掴んだまま、無遠慮に彼女の全身に視線を巡らせた。

「……見たところ貴族じゃねえみたいだな。はっ、まあどっちでもいい」

 ぼそぼそと呟いてから、男はマオの左腕を掴む。そしてそのまま暗い路地へと進み始めたので、マオは慌てて声を上げた。

「は、放してください!! 何なんですか、いきなり……!」
「ああ? 黙って付いてきな、そうすりゃ痛い目には合わさねぇからよ」
「行きませんっ」

 勢い任せに、自由な右手を後ろに振る。すると握り締めた拳が男の頬にヒットし、低い呻き声が聞こえた。

「っこの……大人しくしろって言ってんだろうが!! 今すぐその辺の奴らに声掛けて、遊んでもらっても良いんだぜ?」
「!!」

 全身に悪寒が走り、血の気が引いていくのを感じる。抵抗しなければならないのに、その脅し文句を聞いて、恐怖で身体が動かなくなってしまった。

「そうそう、良い子にしてな。ハイデリヒの囲い女とか何とか適当に言っときゃあ、高く買い取ってもらえるからよォ」

 男が愉快げに笑うのを聞きながら、マオは焦る気持ちのまま周囲に視線を走らせた。傭兵らしき男は目が合うなり楽しげに笑い、貴族らしき女性は素知らぬ顔をして立ち去る。

 明らかに危ない状況と分かりながら、誰も助けてくれそうにないことを悟り、彼女の絶望は順調に肥大していった。


「――い、嫌っ! 助けて!!」


 強く目を瞑った瞬間、髪を引っ張られる感覚が消え失せる。唐突に訪れた解放にマオが驚けば、背後から大きな悲鳴が上がった。続いて聞こえたのは、悲鳴を引き摺ったまま発せられる、しゃっくりにも似た意味のない音。

「ひっ……今の……!? ど、何処に消えやがった!?」

 慌てて振り返ると、顔面蒼白の男が腰を抜かした状態で喚いていた。携帯している短剣を引き抜こうとしているようだが、恐怖に支配された指先は柄の表面を滑るばかり。その尋常ではない怯えように、危機的状況にいたはずのマオは思わず心配してしまった。

「あ、あの」
「うぅうッ」

 男は短剣を抜くことを諦め、裏返った声を漏らしながら地面を這う。そしてまともに立ち上がることも出来ないまま、不格好な姿勢でその場から逃げ去ってしまった。

 わけが分からなかったマオは、呆然とその背中を見送る。一体あの男は何を見て、あんなにも怯えていたのだろうか。彼女は恐る恐る周囲を見渡してみたが、気になるものは何もない。

「みゃあ」
「うわっ、びっくりした」

 そこへ、黒い仔猫が肩に飛び乗って来た。必要以上に驚いてしまったマオは、頬に擦り寄るノットを暫し見詰める。まさか先程の男は仔猫に怯えたのか、という考えが脳裏を過ったが、マオは溜息混じりに首を横に振った。

「ほほっ、大丈夫かの?」
「おじいさん!」

 のんびりとした声に振り向けば、老人がこちらへ歩いてくる姿を認める。マオはようやく安堵の表情を浮かべ、自身も老人の方へ歩み寄った。

「すまんのう。そこら辺を散歩するつもりじゃったが、ちょいと遠くまで行き過ぎてしもうた。怪我はしとらんか?」
「うん、よく分からなかったけど……何ともないよ」
「そうかそうか。どれ、それじゃあ今日はもう休もうかの」

 そう言って老人は何かを差し出してきた。マオが勢いで受け取ってみれば、それは赤く染色された長方形の板だった。これは何だと視線で問うと、老人は後方にある宿屋を指差す。

「あそこの部屋札じゃ。エイナにはもう言っておる」
「へやふだ……え!? おじいさんがお金払ってくれたの!?」
「ほほ、おなごは野宿なんぞするもんじゃなかろう?」

 ころころと笑った老人は、宿屋とは違う方向へ歩き始める。どこへ行くのかと尋ねるより先に、小さな背中が夜空を仰ぐために反らされた。

「じじいは今から夜の散歩じゃ。おやすみ、マオ」



 その後マオは、老人の厚意に感謝しつつエイナの宿屋へと向かった。彼女からは「だから野宿は駄目なのよ」とこっぴどく叱られてしまったが、萎縮するマオに向けてこうも告げた。

「まあ、怪我がなくて良かったわ。今日はゆっくり休みなさいよね」
「は、はい。……あの、お金ってやっぱり、おじいさんが?」
「ん? ええ。大丈夫よ、あのおじいちゃん何でか知らないけどお金は持ってるし。一回ぐらい……いや、十回くらい甘えても大丈夫よ」

 甘えすぎである。マオが思わず笑えば、エイナはやはり快活な笑みでそれに応えた。そうして会話もほどほどに切り上げ、互いに就寝の挨拶を交わした時だった。

 宿屋の正面扉がノックされ、からころとベルが鳴る。マオとエイナが振り返った先にいたのは、とんでもなく悲壮感の漂う大男。

「あら、いらっしゃい。お客さ……」

「お……オングさん!!」

 現れたのは灰色の髪に褐色の肌、オングその人だった。彼はマオの声を聞き、弾かれたように顔を上げる。そして彼女の姿を認めては、次第に生気を取り戻していった。

「マオ! あああ、良かった、“階段”ではぐれたときはどうしようかと……!!」

 うおお、とオングは男泣きを始める。その姿にエイナが引いていることを知りつつ、マオは彼の元へと駆け寄った。本当は彼女も心の底から安堵し、嬉しい気持ちでいっぱいなのだが……それ以上に感情を昂らせている者を見ると、不思議と気分が落ち着くものらしい。

「オングさん、今まで何処にいたの? 私、お昼頃にプスコスに着いたんだけど……」

 マオが大きな背中を擦りながら尋ねると、彼は驚いた様子で視線を寄越す。

「ひ、昼っ? 俺はついさっき此処に着いたんだよ」

 彼曰く、ハイデリヒたちと共に“階段”を抜けたのが、昼を過ぎた頃だったという。“階段”内で忽然とマオが姿を消してしまい、オングは慌てて引き返そうとしたのだとか。

 しかしハイデリヒがそれを引き止めた。一般的に“階段”は決められた道――すなわちヴォストとプスコスを繋ぐ道筋しか、自由に動き回ることが出来ない。言い換えれば、彼らはその道筋しか知らないため、そこから逸れて歩くことが叶わないのだ。

 もしも「マオのいる場所」を目的地として想定し、“階段”が上手く機能してくれたとしよう。空間内にいる彼女を捜し出すことは可能かもしれないが、彼女が道筋から大きく離れたところをさまよっていたならば、本来の道筋に帰ってくることは容易ではないかもしれない。

 最悪の場合、二人揃って“階段”で迷子になる可能性を、ハイデリヒは指摘したのだ。

「……彼の提案で、一先ずプスコスを目指すことになったんだ。ここの役人に、“階段”内を捜索して欲しい旨を伝えるから、と」

 オングは随分と疲れた笑顔でそう語った。ずっとマオの身を案じていたことが言わずとも伝わり、彼女は途端に申し訳なさを感じてしまう。

「そうだったの……ごめんなさい、心配かけて」
「いや、いいんだ。まさか誰も、マオだけはぐれるなんて思ってもいなかったんだし……それにほら、こうして無事に会えたんだ。謝ることじゃないよ」

 良かった、と改めて溜息をついたオングは、マオの頭を優しく撫でた。彼女は大きな手を甘受して笑ったものの、オングの様子が何処か上の空であることに気付く。

「……マオは」
「ん?」
「……迷子になったんじゃなくて、一瞬で“階段”を抜けた……みたいだな」

 彼自身も確信はしていない。そんな様子だった。

 “階段”を通る際、ある程度の時間を要するということは前もって知らされていた。しかしながら、マオはハイデリヒと手を繋いでいたにも関わらず、一人で“階段”をさっさと抜けてしまった。彼女とオングたちがプスコスの町へ到着するのに大きな時間差が発生したのは、言わずもがなそれが原因なのだろう。

 しかし、今まで何度も“階段”を利用してきたオングは、このような不可解な現象に遭遇したことがないという。

「いつもと何か違ったか……?」

 彼はぼそぼそと呟いては、難しげに唸る。そんな大男をじっと見上げていたマオは、不意にあることを思い出した。

「私、“階段”で綺麗な星空を見たのっ」
「え? 星?」
「あと、ぼろぼろの遺跡もあったよ」
「い、遺跡っ? “階段”の中に?」
「……やっぱり夢かな」

 オングの呆けた反応を受けて、マオはがっくりと項垂れる。あの赤毛の美丈夫の言う通り、彼女が見た景色は単なる夢か幻想だったのだろう。何せ自分以外の誰にも確認が取れないのだ。そう納得せざるを得なかった。

 マオは短く息を吐き出し、切り換えるように笑顔を浮かべる。

「まぁ良いや! オングさん、今日は疲れたからもう寝よ!」
「え、あ、ああ」

 腑に落ちない様子のオングを引っ張り、マオは宿屋の扉を閉める。取り敢えず、分からないことをうんうん考えていても仕方が無い。何とか合流も出来たことだし、明日からまたリンバール城への旅路に戻ることが出来る。

「どうなることかと思ったね、ノット」

 受付のエイナと言葉を交わす中で、マオは肩の仔猫に向けて笑いかける。薄氷色の瞳はちらりと彼女を見遣ってから、その鼻を栗毛に擦り付けたのだった。

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