プラムゾの架け橋

第二章

11.

 薄暗い林の中を進みながら、マオは何げなく額を拭う。“階段”に入る前――第一層にいたときよりも、心なしか暖かい気がした。外套の前を開き、両手を外へと晒してみれば、気持ちの良い風が入り込む。

「ノット、暑くない?」

 フードに納まっている仔猫に声を掛けると、ひょこっと黒い耳が視界に現れる。肩まで登って来たかと思えば、そのまま地面に飛び降りてしまう。やはり暑かったようだ。

「あの……おじ……」

 “おじさん”と呼びかけて、思いとどまる。

 マオよりも数歩先を行く赤毛の美丈夫は、身体も大きければ声も渋く、それでいて艶のある雰囲気を持った人物だ。ホーネルよりは若いが、マオと同年代なんてことはあるまい。かといって“おじさん”と呼んでも大丈夫だろうか……などと考えていると、美丈夫が背を向けたまま声を発した。

「何か言ったか、小娘」
「え!?」

 ひやりとしたものの、マオは一転して不満げに頬を膨らませる。この男だって自分のことを“小娘”呼ばわりしてくるのだから、“おじさん”と呼んでも差し支えない気がしたのだ。

「あの、おじさん」
「あ?」

 ――あ、呼んじゃ駄目だ。

 濁音混じりの反応が返されてしまい、マオは今度こそ頬を引き攣らせる。彼女の足元からは、呆れたような鳴き声がもたらされた。

「え、えーっと……あ、私、マオって言います。あなたのお名前は……?」

 無理やり話を続けようとすると、美丈夫がちらりと後ろを振り返る。切れ長の瞳が向けられたかと思えば、細く形のよい眉が悪戯に持ち上がった。

「俺を口説くには歳と色気が足りねぇな」
「……はい?」
「行きずりの人間に軽々しく名乗るなと言ったんだ、小娘」
「え、ああ……だっておじさんって呼ばない方が良いと思って」

 言われた意味はいまいち分からなかったが、マオは名を尋ねた理由を馬鹿正直に告げる。すると彼はそんな返答を無視して、突然マオの腕を掴み寄せた。驚く暇も与えられずに背中を抱かれれば、掠れた低い声が耳元を掠める。

「お前、はぐれた連れは何人だ?」
「ひゃっ、え、さ、三人ですけど、な、何ですか」

 マオはあまりの近さにどぎまぎしたが、肩を押してみても離れてくれる気配はない。心なしか甘い香りさえ漂ってくるような気がして、彼女は段々と頬を紅潮させつつ、少しばかり強く抵抗した。

「三人か。……武装は?」
「……? えっと、二人……剣を持ってたような……あの、離れてくださ」
「なるほどねぇ……その様子じゃ気付いてねぇみたいだが、お前、変なのに尾行されてんぞ」
「へ!?」

 羞恥は吹き飛び、マオは驚いて顔を上げる。次いで襲った恐怖に後ろを振り向こうとすれば、それを咎める動きで背中を抱き寄せられた。頑丈な拘束とは裏腹に宥める手は優しく、不思議と彼女に安心感をもたらす。

「落ち着け小娘、向こうはまだ気付いてない。何か心当たりはねぇのか?」
「な、無いですそんなの……」

 第一層でのんびりと暮らしてきたマオでも、誰かに姿を隠したまま追われるということに恐怖は覚える。というのも昔、近隣に住んでいた若い女性が、見知らぬ男に家まで尾行されたなんて話を聞いたからだ。無論その男は商業区に住む屈強な(野蛮とも言われる)住人によって制裁を下されたようだが……。

「何で私を……お金になるものとか、持ってな……」

 そこまで言ってから、マオは肩掛け鞄を両手で勢いよく押さえる。そういえばこの中には、男爵に届ける商品――指輪が入っていた。もしかして、尾行しているという人物はこれを盗むことが狙いだろうか? ホーネルの作る商品は質が良いことで有名だし、オングもそういった野盗に目を付けられることが、しばしばあったと聞いた。

「あの、もしかしたら商品が目当てかもしれないです」
「商品?」
「男爵さまに届ける指輪を持ってるんです。お、追いかけられる理由なんて、それくらいしか……」

 段々と声が震え、視点が定まらなくなる。オングやハイデリヒたちと一緒にいた時から、後をつけられていたのだろうか。それとも“階段”を出てから――? 

 マオが怯えて黙り込めば、不意にその顎を掬われる。まるで口付けるかのように顔を近づけた美丈夫は、紅蓮の眼差しを不敵に細めて見せた。

「小娘。俺に偶然会えたことに感謝しておけ」
「……? ぅわっ!?」

 呆けたのも束の間、マオは彼と位置を変えるようにして体を離される。たたらを踏みつつ振り返れば、美丈夫が外套の内側から短剣を引き抜く姿があった。

「このまま真っ直ぐ走れ。林の出口はすぐ見えてくる」
「えっ、で、でも」
「みー」
「ふげっ」

 顔面に真っ黒な影が飛びつき、マオは慌ててそれを引き剥がす。仔猫は林の出口とおぼしき方向へ飛び降りると、そそくさと走り出してしまった。

「ええっ!! ノット!?」
「ほら、さっさと行くんだな」

 再び逞しい背中を見遣れば、ちょうどこちらを振り返った美丈夫と目が合う。マオは迷ったものの、勢いよく頭を下げてから仔猫のあとを追った。彼女も手伝いとはいえ商人の端くれであり、ホーネルの名に泥を塗らないためにも、荷物を盗られるなんて失態を犯してはならないのだ。

「いやノットっ……速い!!」

 既に豆粒程度にしか見えない黒い影に歎きながら、彼女は自身の竦んでいた両足を無理やり動かしたのだった。

 ――薄暗い林に静寂が戻り、美丈夫は溜息をつく。そして、第二層に獣を連れてくるなどという、世間知らずな少女が逃げたことを確認した。

「……さて、尻の青いガキなんざ追い回してる奴ぁ、どこのどいつだ?」

 抜き身のそれは、美麗でありながら飾りすぎない短剣。しっかりと手入れされているのは刃だけでなく、柄や鍔も隅々まで磨かれていた。松明の灯をゆらゆらと反射しながら、短剣の切っ先が“階段”の方へと向けられる。

 一瞬の沈黙が通り過ぎ、やがてやって来たのは鋭い剣戟。

 視界の端から襲い掛かって来た刃を難なく受け止め、美丈夫は唇の端を釣り上げた。闇に潜んでいたのは、それに溶け込むように黒い衣装を身に纏った人物。外套を目深に被っている上に、口元まで布で覆い隠している。

「ほう、そのナリはもしや……」

 美丈夫は何かを悟り、わざと含みを持たせるかのように呟いた。すると黒い刺客は剣を薙ぐことで、続く言葉を遮る。身軽な動きで後方へ跳躍しては、着地と同時に大きく片足を踏み出した。

 再び剣が交わったのも束の間、刺客は懐からもう一本のナイフを引き抜き、美丈夫の空いた脇腹を狙う。

「く……ッ!?」

 呻き声を漏らしたのは美丈夫ではなく。

 予期せぬ方向――背後からの攻撃に、刺客は崩れ落ちた。美丈夫は特に驚いた様子も見せずに、つまらなさそうに鼻を鳴らす。

「よう、迎えに来たのか。珍しい」

 刺客の後ろを取った人物に声を掛ければ、応じるように細身の剣が軽く振られる。付着した血が小さく跳ねたところで、その人物はにこりと笑った。

「うん、さっき可愛らしい女の子とすれ違って。あぁ、また格好付けて喧嘩でも買っちまったのかなぁ、馬鹿じゃねぇのとか思いながらも来てあげたよ」
「真正面からよくそんな暴言を吐けるな貴様は」

 美丈夫が容赦なく短剣を振り抜いても、その人物は平然と躱して見せた。そうして優雅な動きで一礼し、告げる。

「ご無事で何よりですよ、首領殿」




▽▽▽




 林の出口へと辿り着いたとき、美しい人とちょうど入れ違いになった。

 顔もまともに見れなかったというのに、マオは「美しい人だ」と直感的に思った。外套で隠れた白い肌はもちろん、一瞬だけ寄越された瞳は……――誰かに似ていたような気がする。

「……誰だろ、知らない人なんだけどな……」

 ぽつりと呟き、マオは射し込んだ光に目を細める。照り付ける日差しの中に見えたのは、青空の下に漂う大きな雲だった。視界の端から端まで一続きになった雲海は、風と共にゆっくりと形を変えていく。

「わ……」

 左側――北方を見遣ると、中央階段付近から伸びた立派な山脈が横たわっていた。こちらの道は通るなと言わんばかりに、自然の壁はマオを圧倒する。ならばと反対側を振り向けば、案内看板が立てられていることに気付いた。

「みゃあ」
「ノット!」

 看板に近づくと、その傍らで一足先に休憩していた仔猫を発見する。ノットは大きな欠伸をしてから、再びその場で丸くなってしまう。呑気な態度を目の当たりにして、一気に緊張が解けたマオは、溜息をついてそこに座った。

「……外には出られたけど、ここからどうしよっか。オングさんたち、先に行っちゃったのかなぁ……」

 まさかオングとはぐれてしまうなど、出発する前は考えもしなかった。橋脚内部を一人で歩いたことなどないマオにとって、広大な空と草原は心細い気持ちを加速させる要因にしかならない。第一層に入ったときは、そんなこともなかったのだが。

「うう、それにさっきの人も大丈夫かな」

 結局、名前も素性も分からずじまいだったが、あの赤毛の美丈夫は無事なのだろうか。もしもマオを尾行していた者が野盗だったのなら、少なからず怪我をしてしまう可能性だって……。

「ふむ、迷子かの?」
「わあ!?」

 考え込んでいると、嗄れた声がすぐ近くから掛けられた。思わず驚いたマオに、いつの間にか彼女の隣に座っていた人物が笑う。真っ白な髪と髭が特徴的な、何処か可愛らしい小柄な老人だった。丸まった背中を揺らしながら、老人は柔らかそうな髭を撫でる。

「ほほっ、元気じゃのう。お前さんぐらいの娘っ子は、みんなお日様の下に出てこんのじゃが」

 老人は懐から、年季の入った小さな扇子を取り出す。繊細な模様が描かれたそれで、ぱたぱたとマオの顔を扇ぐ。緩やかな風が額に滲む汗を冷やし、細い栗毛を揺らした。

「……どうしてですか?」

 取り敢えず、見るからにマイペースな老人に話を合わせることにしたマオは、のどかな草原を眺めつつ尋ねる。

「日焼けするからじゃよ。特に二層はじりじりするからのう」
「……? あの、やっぱり二層って暑い……ですよね」
「どの層よりも暑いのう」

 のんびりとした返答に、マオはちらりと空を見上げる。やはりプラムゾの橋脚は、層ごとに空間の質が異なっているのだろうか。第一層は暑くもなく寒くもなく、過ごしやすい環境であったように思う。それと比較して第二層は気温が高く、汗が滲むほどの蒸し暑さを感じた。

「不思議……同じ橋脚の中なのに」
「そうじゃのう……ほっ?」

 そこで老人は、マオのすぐ傍で丸まっている仔猫に気付く。じっと黒い毛並みを見詰めては、先ほどと同じように扇子で扇ぎ始めた。

「珍しいの、こんなところに」
「おじいさん、猫を見たことあるの?」
「わしゃ貴族じゃないからのう。お前さんの飼い猫か?」
「飼い猫……ううん、お友達」
「ほほっ、そうかそうか」

 嬉しそうに笑った老人は、「どれ」と言ってその場に立ち上がる。小柄であるにも関わらず、大きな荷物を軽々と背負っては扇子を閉じた。

「お前さん、迷子なら近くの町まで来るかの? ここにいると不埒な輩が近寄ってくるぞ」

 老人が指した方向は、北方に聳える山脈。彼曰く、あの山を根城とする賊が、しばしば下りてきて旅人を襲うという。護衛を雇える貴族ならまだしも、マオのような丸腰の人間は格好の餌食とまで告げられてしまった。

「町って、プスコスの町?」
「そうじゃ、ここからすぐじゃよ」

 プスコスの町で待っていれば、オングたちと合流が可能かもしれない。もし日が暮れても彼らと会うことが叶わなければ、リンバール城への行き方を誰かに尋ねてみるのもいいだろう。一人は心細いが、どうにかして商品だけは期日までに届けなければ。

「みゃっ」

 よし、と考えをまとめると、タイミング良く仔猫が肩によじ登って来た。彼女は薄氷色の瞳を見遣っては、小さな顎を指先で擽ってやった。

「一人じゃなかったね」

 ごろごろと喉を鳴らした仔猫は、気が済んだのか再び草むらに降り立つ。まるで彼女を先導するように、既にゆっくりと歩き始めていた老人の方へと向かっていった。

「ほっ、決まったのか?」
「みー」
「そうかそうか、じゃあのんびり行こうかの」

 珍しいこともあるもので、仔猫が初対面の人間に懐いている。オングのことは未だに嫌っている様子なのだが……と、少しだけ哀れみの気持ちを抱きつつ、マオは老人の後を小走りに追いかけた。



 林を南方面へ抜けると、次第に草の禿げた細い道が現れ始めた。それと併せて周りの景色も変化を見せ、草原の緑に点々と灰色が混ざる。草花に侵食された大小さまざまな岩は、道を進むにつれて増えていった。

「岩がたくさん……」
「気になるかの?」

 小さな呟きを聞き取った老人が、持っていた扇子で南方を指す。第一層では入口があった方向なのだが、マオはそちらを見遣っては目を丸くした。

「……!? おじいさん、あそこ……」
「何が見える?」

 尋ねられ、マオは暫し黙考する。

 南方にあったのは大きな……否、歪んだ樹海だ。水面を通して見ているのかと思うほど、木々はその幹や葉を曲がりくねらせている。一般的な高さの木もあれば、空まで届く巨大な植物も見えた。

「グニャグニャした森が見えるよ」
「不気味かの?」
「え?」

 前に視線を戻すと、老人は髭を撫でながら樹海を見詰めていた。

「ううん。あそこ、どうしてグニャグニャなの? 近付いても同じように見えるのかな」

 好奇心を惜しげもなく晒しつつ尋ねれば、老人は楽しそうに笑う。

「行ってみたいかの?」

 勢いで頷きかけ、マオは胸中で膨れる興味を慌てて抑え込む。プスコスの町に着くまでは、寄り道は控えた方が良いと思ったのだ。あの不思議な樹海は物凄く気になる、気になるのだが……。

「分かりやすいのう」
「あっ、おじいさん」
「行かんのか?」

 樹海の方へ進み始めた老人は、問い掛けながらも歩みを止めない。マオが樹海に興味津々ということは、既にお見通しのようだ。

「なに、樹海の近くまで行くだけじゃ。……中には入らん方が良いからのう」

 最後に聞こえた呟きは、随分と小さかった。

 ――歪んだ樹海は近付くに連れて、その姿を徐々に変化させていく。背の高い植物は折れ曲がり、果実は急激に熟して枯れていった。

 遠くからでは分からなかったが、この樹海は常に動いて……いや、生と死を繰り返しているようだ。それも、非常に短い時間の中で。

「ここはのう」

 じっと樹海を見上げていると、隣で扇子をぱたぱたと動かしていた老人が、静かに口を開く。

「昔……わしがまだ幼子だった頃、二層の壁が壊れたことで出来た樹海じゃ」
「壁が壊れた……?」
「ほれ、ここからちょうど見えるじゃろ?」

 手招きをされ、マオは老人と同じ目線になるように背を屈めた。すると視界の中央に丸い穴が現れ、樹海の向こう側がぼんやりと窺える。暗い木々の合間を貫く光に目を細めれば、遠くで淡い青色が揺れていることに気付いた。

「……空……」
「橋脚の外じゃよ」

 老人が事もなげに告げ、マオは一拍遅れて驚愕する。この樹海の奥には橋脚の壁が無く、外の景色がそのまま見えてしまっているのだ。

「余程凄まじい衝撃だったのか、壁に穴が空いてしまったようでなぁ……まあ、それでも微々たる傷じゃ。付近にあった樹海がちょっと歪んだだけで、他にはなんも影響はない」
「……ゆ、歪む?」
「ほほ、ここが普通の空間だとは、よもや思うわけあるまい」

 ここ、とは言わずもがな、プラムゾの橋脚内部を指しているのだろう。老人曰く、島の面積よりもずっと広大な空間をその中に有する橋は、たとえ外部から衝撃を加えられても、自ら「修復」を行うという。プラムゾの橋脚は人の手を借りることなく、損傷した箇所をゆっくりと塞ぐのだ。

 それだけでもマオは驚いたのだが、続いてもたらされた言葉にまたもや動揺することとなった。

「修復に巻き込まれた空間……つまりはこの樹海なんじゃが、どうにも“階段”と似たような空間になってしまうらしいのう」
「“階段”と? じゃあ、この中に入ったら」
「迷子になるのう」

 つい先ほど“階段”で迷子になったマオにとっては、全く嬉しくない情報である。引き攣った笑いをこぼしつつ、彼女は改めて歪んだ樹海を見遣った。樹海の中には、やはり岩が転がっていた。恐らくこの近辺に見られる巨岩は、プラムゾの橋脚に穴が空いたとき、勢いよく飛び散った瓦礫なのだろう。マオの瞳は岩を伝うようにして、樹海から平原へと巡っていく。

「……ねえ、おじいさん」
「んん?」
「どうして穴が空いちゃったの? ……外側から……ってことだよね?」

 原因として真っ先に思い浮かぶのは、海の向こうに佇む影――“大地の塔”と呼ばれる対の橋脚。あそこから、何か大きな物でも飛んできたのだろうか。マオがそんなことを考えた時だった。

「ここは南側じゃよ。“大地の塔”からじゃあ、何も飛んでこんわ」
「あ……そっか……え?」

 確かに“大地の塔”は、“天空の塔”から見て東側に位置する。そこから何かが飛来したと仮定しても、損傷するのは南側ではなく東側の壁だろう。

 それは、すぐに納得できたが――。




「何が飛んできたのか、わしには分からんかったよ。覚えておるのは……ひどく、恐ろしかったことだけじゃ」




 老人は静かに述べると、扇子を閉じて歩き始める。その背を見送るマオの足元で、仔猫が小さくひと鳴きした。

inserted by FC2 system