プラムゾの架け橋

第二章

10.

 プラムゾには“階段”というものが各層に存在する。全ての層を繋ぐ“階段”は中央階段のみで、その他は二つの層を行き来することしか出来ない。ヴォストの町は第一層と第二層を繋ぐ唯一の場所であり、非常に多くの人間から利用されていた。

 そしてこの町に限ったことではないが、“階段”は大抵の場合、その使用を領主によって管理されている。謂わば“階段”は関所のようなもので、許可なく通行をしていいものではないのだ。無論、通行に際して、貴族や旅人の間に区別は存在しない。


「――ねぇ、オングさん。その“階段”は何処にあるの?」

 朝、やわらかな香りに包まれて目を覚ましたマオは、オングと共に領主の館へと向かっていた。

 “階段”を利用できる日程と時間が細かく定められていることや、それに合わせて旅人たちが領主の館へ向かうことなど、ざっくりとした説明を彼から聞いたものの、肝心の“階段”が未だに見当たらないのだ。マオは中央階段のような巨大な柱型を想像しているのだが、それらしい影を空に見つけることは出来ない。

「領主が住む邸の庭園にあるんだよ。ほら、もううじゃうじゃ集まって……」

 前半は穏やかに、後半はちょっとばかし嫌そうに。オングが指差した先には、立派な豪邸が構えていた。手前にある広々とした庭園には、傭兵や商人たちが朝早くから集まっている。

 彼らがぞろぞろと足を踏み入れているのは、美しい庭園には些か不似合いな林だった。領主の私兵と思しき者達が入口に立っているので、辛うじてそこが私有地であることは窺える。しかしながら周囲の華やかな景色から一転、鬱蒼とした林が影を作っていた。

「……?」

 マオはその薄暗い林を見詰め、ゆっくりと視線を上げてみる。昨日と同様、のどかな空には千切れた雲がふわふわと流れていた。やはりそこにも、第二層へ繋がっていそうな通路や塔などは見当たらず。

「マオ、オング殿!」

 するとそこへ凛とした声が掛けられ、二人は庭園の入口を振り返った。こちらへ向かって来るハイデリヒとグレンデルの姿を確認し、マオは笑顔でそれに応じる。

「おはようございます」
「うん、おはよう。何を見ていたんだい?」

 彼はマオが見ていた先を追うように、林の上空を見遣った。その横顔には曇り一つなく、昨日の寂しげな色を窺うことは叶わない。何も答えない彼女を不思議に思ってか、再び視線が寄越される。マオは取り繕うように笑い、空を指差した。

「ええっと、階段って言うわりには、それらしいものが無いなあと思って……」

 彼女の返答を聞いたハイデリヒは、納得した様子で微笑む。自然な動作で左手を差し出しては、林の入口へ向かうよう促したのだった。



 昼間にも関わらず、林の中はとても暗かった。奥へ進むたびに影は濃くなり、道の脇には点々と松明が灯されていた。

 躓かないように、とハイデリヒが手を繋いでくれたものの、マオは既に何度か爪先を引っ掛けてしまっている。それくらい視界が頼りない中で、足元の小石や剥き出しになった木の根を探るのは、なかなかに難しいことだった。

「ご、ごめんなさい、ハイデリヒさま。何回も躓いて」
「構わないよ。もう少し明るくなってくれればいいのにね」

 ハイデリヒは同意を求めるように、後ろを歩くオングとグレンデルを振り返る。二人はちらりと顔を見合わせ、小さく頷いた。似たような反応を寄越した彼らに笑い、ハイデリヒは進行方向に向き直る。

「“階段”の周りはどこも暗いんだ。ここはまだ歩きやすい方かな……あ、見えてきたよ」

 彼がそう告げると同時に、地面を踏みしめる感触が硬質なものへと変わった。見れば道順を示す石畳が点々と埋め込まれており、先程よりは格段に歩きやすくなっている。

「あ……あれは……」

 その先に佇む、真っ黒な穴。

 マオは思わず立ち止まり、ハイデリヒの手を強く握る。歪な円形を象ったそれは、木枠で補強された洞窟のようだった。一寸先も見通せない闇を前にして、マオは不安が湧き起こるのを感じた。

「あれが“オルトアの門”。二層に続く“階段”だよ」

 彼女の不安を払拭するように、ハイデリヒは優しく手を握り返してくれた。近付くにつれて見えてきたのは、穴を囲む岩壁。どうやら林はここで行き止まりになっているようだ。

「さて。ここをどうやって通るか、オング殿に聞いたかい?」
「え? いや、まだ何も……」
「そうか。じゃあ軽く教えておくね、少しだけコツが必要なんだ」

 その言葉を聞いて、やはりこの穴が普通の洞窟ではないことを悟る。穴をくぐれば階段があるのかと思えば、やはりそういうことでもないらしい。

「“階段”に入ったら、足は止めないこと。必ず歩き続けるように」
「は、はいっ」
「それから、その間は“行きたい場所”を強く思い描いておくこと。ここの出口は第二層のプスコスの町。はい繰り返して」
「だ、第二層のプルプルの町」
「落ち着いて」

 笑いながら背中を軽く叩かれたものの、マオは自身の言い間違いにすら気付かぬほど緊張していた。どうして足を止めてはならないのか、立ち止まったら何が起きるのか、何故こんなにも“階段”の中は暗いのか……色々と考えていたら、柄でもないが怖くなってきたのだ。

 そのとき、後ろから肩を優しく掴まれる。振り返れば、いつもの頼りなさそうな笑顔があった。

「マオ、大丈夫だよ。歩き続ければ出口に着くから」
「オングさん、本当に?」
「本当だ」

 ふっ、と強ばっていた身体から力が抜ける。不思議なことに、オングの言葉はいつだって心を落ち着かせてくれるのだ。幾らか冷静になれたマオは、恐る恐る“階段”へ向き直った。

 橋脚内部へ入るときのような風はなく、ただ佇むだけの暗い穴。何の音も聞こえてこない黒を見詰め、マオは小さく口を動かす。

「第二層の、プスコスの、町……って、あれ? あの、これって手を繋いでおけば、はぐれたりしないんじゃ……?」
「……うん、まぁ」

 手を繋いでいるハイデリヒを見上げれば、彼は笑い混じりに頷いた。一人で無駄に怖がってしまったことを知り、マオは羞恥を隠すように項垂れる。

「最初に言ってくださいよぉ……私、一人でこの中に入らなきゃ駄目なのかと……」
「もしかしたら、一人になるかもしれないよ」
「へ」

 ぼそりと告げられた言葉に顔を上げれば、彼はにこりと笑う。その爽やかな笑顔に、マオが頬を引き攣らせたのも束の間。

「“階段”は不思議な空間でね。見ての通り第二層と物理的に繋がっている様子がない。……つまり、どうやって僕らが層を行き来しているのか、今もよく分かってない」
「え……えっ」
「層の移動には暫く時間が掛かるんだけど、その間、僕らの身に何が起こっているのか分からないんだ」

 話しながら、ハイデリヒは“階段”へと近付いていく。もちろん手を繋いでいるマオも、否応なしにそちらへと向かうことになる。穴まであと一歩というところで彼は立ち止まり、しっかりと繋いだ手を持ち上げた。

「……けど、この中で迷子になった、なんて話は聞いたことないよ。安心して? じゃあ行こうか」
「ええ!? 待っ」

 心の準備が、などと言う暇もなく、彼女は手を引かれるままに“階段”へと足を踏み入れる。

 生温い水の中に、頭から突っ込んだような感触。指の先から順に浸透する温度は、しだいに冷たくなっていくような気がした。

 怯えと共に閉じてしまっていた瞼を開けば、眼前に広がるのは濁り。想像していたような暗闇は訪れず、不鮮明な白い景色がマオの周囲でうねっている。繋いでいたはずの手は空となり、一人むなしく指先を握り締めた。

「霧……? オングさん?」

 呼びかけても返事はない。ハイデリヒやグレンデルの姿も見当たらず、マオは思わず後ずさろうとして、思い出す。“階段”の中では足を止めてはならないこと、目的地を明確にすること――とにかく立ち止まってはならないことを。

 慌てて足を前へと踏み出しつつ、ちらりと後ろを振り返ってみる。予想通りと言うべきか、そこに入り口は無かった。ごくりと唾を飲み込み、マオは顔の向きを元に戻す。

「え? ここ……」

 いつの間にか霧は晴れ、靴底は朽ちた石畳を捉えた。

 そこで彼女を待ち構えていたのは、崩壊した夜の遺跡。冷たい風が吹き抜け、至る所で無遠慮に伸びた雑草が揺れる。急に冷えた空気に驚き、マオは外套を両手で引っ張った。

「ど、どこなの、これ? 皆もいないし……」

 マオは半分ほど崩れた大きなアーチをくぐり、豪快に倒れている柱を飛び越え、ぼろぼろの遺跡を見回す。打ち捨てられた扉も、粉々に砕け散った燭台も、何もかもが大きく感じた。いや、実際大きいのだろう。まるで自分がミニチュアの人形になって、持ち主の家を眺めているかのようだ。

 きょろきょろと周りを窺いながら歩いていると、遺跡の建物内に足を踏み入れる。ここは比較的、崩壊が抑えられているようだ。それでも妙に視界が明るいことに気付き、マオは頭をもたげてみる。口を開けた天井から、美しい星空が覗いていた。第一層からでは見られない、青や紫、緑など多彩な色が折り重なる夜空だ。

「うわ……綺麗……」

 先程まであった恐怖心は何処へやら、美しい絵画の空を眺める。

 次第に遅くなっていく足。いつまでも空を眺めていたい衝動に駆られれば、爪先が段差に引っかかる。見下ろすと、幅の広い階段がゆるやかに伸びていた。その先に見えたのは、かすかな光。早朝に昇る暁光に似たソレを見詰め、マオの足は完全に止まってしまった。

 あそこが出口であると直感的に分かった。だからこそ前に進むことを躊躇ってしまう。もう少しだけ、ここにいたい。幻の夜にまどろみ、そのまま眠りにつきたいとさえ――。




「みゃあ」




「!!」

 ハッと目を見開き、暁光を見遣る。その奥に小さな影が動いていることを知り、マオは弾かれたように走り出した。刹那、彼女を引き留めるかのように遺跡が姿を変える。夜空は黒く滲み、石畳は奈落の底へと崩れ落ちた。後ろから迫りくる崩壊に怯えながらも、マオは平坦な階段を駆け上った。

「――ノット!」

 そこで静かに待っていた仔猫を、走る勢いのままに抱き上げる。拍子に躓き、肩から地面に飛び込んでは転がった。瞬時に視界が白く染まり、全身を浮遊感が包む。まるで崖の下へと突き落とされてしまったかのようだ。

 ぎゅっと目を瞑った直後、マオの顔面は硬い壁に打ち付けられた。

「痛ぁ!?」

「うっ!?」

 仔猫を解放し、痛む顔を押さえる。その場に座り込んだマオは、今しがた聞こえた低い声の正体を探るべく視線を上げた。

 そこは朽ちた遺跡などではなく、ヴォストの町にあった薄暗い林と酷似している。松明の炎がゆらゆらと煌めく傍らに、今しがた激突したであろう人物がこちらを見下ろしていた。

 オングほどではないにしろ、なかなかに逞しい体躯。薄闇の中でも分かる艶やかな赤毛。眉間に皴を寄せてもなお保たれる、野性的でありながら色香を漂わせる顔立ち。

 自分の周囲にはいないタイプの男性を前にして、マオは思わず硬直する。

「……いきなり頭突きたぁ、随分とご挨拶じゃねぇか。なぁ、お嬢さん?」
「ひっ!? ご、ごめんなさい! 殺さないで!」

 そして傍にいた仔猫を抱き寄せ、何とも失礼なことを口走った。



「――つまり、お前は“階段”で迷子になったってわけだな?」
「そ、そういうことになるんですか」

 四人でオルトアの門をくぐった後、何故か一人で“階段”を抜けてきたことを告げれば、簡潔にまとめられてしまった。美丈夫と言うに相応しい男は、座り込んだままのマオを見下ろし、形の良い眉を片方だけ上げて見せる。

「連れとはぐれて、取り敢えず“階段”を突き進んでみたら、出口まで来れたってだけの話だろう」
「出口……あっ、ここがプスコスの町なんですか?」

 林を見渡せば、呆れたような溜息が聞こえてきた。赤毛の美丈夫は気だるげな様子で膝を折ると、おもむろにマオの方へ手を伸ばす。彼女は反射的に体を縮こまらせたものの、無骨な手が触れたのは腕や肩ではなく。

「ったく、年頃の女の癖して、髪もろくに結えねぇのか?」
「はい?」
「おら、後ろ向け小娘」
「こ、小娘、わわっ」

 走ったり転んだりしたおかげで、マオの髪は少しばかり乱れていた。……ほんのちょっとだけ。本人ですら気にしない程度の乱れだったのだが、美丈夫は苛立った様子で髪留めを外していく。その髪留めに対しても「飾り気がない」だの「結び方が汚い」など、ぐちぐちと文句を言われる始末。

 その文句を何となく正座で聞いていたマオは、全く理解できない状況にまばたきを繰り返すのみ。腕の中にいる仔猫は、眠そうに欠伸をかましていた。

「……あの、ちょっとお聞きしてもいいですか?」
「何だ? 結い方の文句なら受け付けんぞ」
「い、いえ、“階段”のことで聞きたいことがあって」

 見なくても分かる。この男が彼女よりも器用に髪を編み込んでいることなど。自分でやるよりも綺麗な仕上がりになることは確実なので、マオには文句を言うつもりなど毛頭なかった。年頃の娘としては非常に複雑な思いを抱えてはいるものの。

「“階段”の中にあった、不思議な遺跡は何ですか?」
「……ん?」
「それと綺麗な星空があって、つい見とれちゃって」
「おい、小娘。幻覚でも見てきたのか?」

 あんまりである。マオが不服げに振り返ったのも束の間、そこで待ち構えていた彼の険しい表情に閉口した。

「“階段”は白い霧が充満した空間だ。そんなものは見えん」
「え……でも、私……」

 確かに“階段”に入った直後、彼の言う白い霧を見た。だがそれは一瞬のことで、気付けばあの朽ちた遺跡に一人で立っていたのだ。それを幻覚と称されて腑に落ちないところはあるが、そもそも“階段”はそれ自体が妙な空間である。単純にマオがおかしな夢を見ていた、という説を否定することは叶わない。

「……そっか。すみません、変なこと言って」

 マオが小さく謝ると、彼もちょうど髪を結い終えたようだった。そうっと頭に触れてみれば、はっきりとした編み目を指先で感じ取る。心なしか、いつもよりシルエットも整っているような。

「うわぁ、凄い! ありがとうございます! どうしてこんなに上手なんですかっ? 男の人なのに……」
「それくらい造作もない。んなことより、お前は連れを捜しに行かんのか?」
「はっ、そうだった」

 マオは忙しなく立ち上がると、“階段”の出入り口を見遣った。黙ること数秒。再び美丈夫を見上げては、勢いよく頭を下げた。

「あの、林の出口まで一緒に行ってくれませんかっ」
「は?」
「ああっ、えっと、ぶつかったり髪を直してもらったり、迷惑しか掛けてないので何かお礼が必要なら……」

 今ここで独りぼっちにされると、オングたちと合流できずに夜になってしまいそうだ。いや、そもそも今は昼間なのかすら、この暗い林の中では分からない。初めて第二層を訪れたマオが頼れるのは、威圧感のある赤毛の美丈夫だけだった。

「お願いしま」
「ならさっさと付いて来い。置いていくぞ」
「あれ!? ちょっ……待ってくださいー!」

 既に歩き始めていた男の背中は遠い。マオは意外にもあっさりと承諾してくれたことに驚きつつ、急いで後を追いかけたのだった。

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