プラムゾの架け橋

第二章

09.

 規則的な揺れに身を任せ、分厚いカーテンをそっと開けてみる。煤けた赤い布が除けられれば、車内に入り込んだ陽光が腿を照らした。じんわりとした温かさを感じながら視線を巡らせると、流れる草花と広闊な空が彼女を迎える。

 青に霞む景色で初めに視界へ飛び込むのは、頂を隠された塔。次に、堅固な要塞を彷彿とさせる険しい山脈。もう少し目を凝らしてみれば、それらの向こうに何本かの柱のようなものも見えた。いずれも馬車の進行方向とは反対側に位置していながら、遠方の人々にその存在を強く主張する。近くに赴いたならば、一体どれだけ大きな景色が待ち受けているのかと、マオはゆっくりと窓から顔を離した。

「……オングさん、狭そうだね」
「う……いや……そうだな……」

 向かいの座席にいるオングは、脚や肩を少しばかり縮めて座っていた。マオやハイデリヒと比べて大柄なので仕方のないことだが、彼が足腰を痛めないことを祈っておく。

「申し訳ない、オング殿。もう一回り大きな馬車があれば良かったんだが……」
「ああ、き、気にしないでくれ」

 マオの隣でハイデリヒが謝れば、オングが慌てた様子で両手を小刻みに振る。その視線はちっとも合う気配がなく、うろうろと宙を彷徨ってから膝元に落ち着いてしまった。

 そんな大男の仕草に首を傾げながらも、マオは思い立った様子で隣を見遣る。

「そうだ、ハイデリヒさま。“天空の塔”って何ですか?」
「ん?」
「馬車に乗る前に、天空の塔の橋脚第一層、って」

 ハイデリヒは合点が行ったのか、笑顔で「あぁ」と明るく答えた。しかしすぐに困ったように眉を下げると、どこか気の進まない雰囲気で口を開く。

「プラムゾの橋脚は二本あるんだけど、知ってるかな」

 人差し指と中指を立てた彼に優しく尋ねられ、マオは少し考えてから頷いた。全貌を見たことなど無いが、プラムゾは巨大な橋の形をしていると聞く。大渦の向こうにある対の島へ繋がっていると言われており、そこにも同じような橋脚が建っていることは誰でも推測がしやすい。

「大昔……五百年ほど前に、僕らの祖先がこちらの橋脚を“天空の塔”、もう一つの橋脚を“大地の塔”と名付けたんだ」
「天空と……大地、ですか」
「そう。尤も、この呼び名は僕らが勝手に付けたんだけどね」

 その言葉に妙な違和感を覚えたものの、マオにはそれが何なのか、はっきりとした原因が分からない。とにかく今は二つの橋脚に名前があること、そしてそれが「僕ら」――恐らく貴族によって授けられた名であることを理解する。

「他に何か聞きたいことはある?」 
「あ、うーんと、そうですね……じゃあ、あの大きな塔は何ですか?」

 橋脚中央部に聳え立つ塔を指差せば、それをしっかりと視認したハイデリヒが相槌をうつ。今回は特に変わった様子も見せず、丁寧な口調で説明をしてくれた。

「あれは“中央階段”。第一層から第四層まで、あの階段で上ることが出来るらしいよ」
「か、階段なんですか、あれ……って、“らしい”?」
「うん、らしい」

 伝聞口調を繰り返し、彼は中央階段を囲む山脈を見るように促す。そこからもう少しだけ視線を下ろすと、深い森が生い茂っている。まるであの山々を守っているかのようだ、とマオが考えたときだった。

「中央階段はどの層も、険しい山や深い森に囲まれているんだ。一応、道のようなものはあるけど……崩壊が激しくて、無事に通過できるかも怪しい」
「つまり……そもそも近づけない?」
「そういうことだね」

 ハイデリヒは残念そうに告げると、あの中央階段付近について更なる情報を付け加える。曰く、あそこは数百年前から、人間を寄せ付けない聖域として認識されているのだとか。凶暴な生物も棲息しているとも言われており、動物嫌いの貴族らは「決して足を踏み入れてはならない」と徹底した教育を受けるそうだ。

 それでもごく稀に、あの山を越えて塔を拝みたいという物好きは現れる。彼らが無事に帰って来たかどうかは、残念ながら明言することが叶わない。

「とても気になるところではあるんだけどね。僕も中央階段を間近で見てみたいし、出来ることなら中に入ってみたいし……」
「……そういえばハイデリヒさまは、動物は怖くないんですか? 貴族の人は動物が苦手、って聞いてたんですけど……」

 マオは尋ねつつ、窓際で丸くなっている仔猫の背を撫でる。先程、騎士とおぼしき男や馭者は、仔猫を見ても特に反応しなかった。彼らはきっと貴族ではなく、その下に仕える身ゆえ、動物に対する嫌悪感も薄いのかもしれない。

 しかしながら、ハイデリヒは身分ある人間であるはずなのに、仔猫を怖がるどころか触ってみたいと言ったのだ。更には動物が多く棲息する中央階段付近にも行ってみたい、と。マオがその点を疑問に思っていると、それを見抜いた彼は気まずそうに頬を掻く。

「あぁ……僕は昔から、こっそりと近くの森に遊びに行っていたからね。可愛らしい仔猫はいなかったけど、それなりに生き物とは触れ合ってきたよ」
「わぁ、そうだったんですね。でもそれなら、やっぱりノットは隠しておいた方が良いかなぁ……」
「気を悪くしないでね。彼らは臆病なだけさ」

 ハイデリヒに動物への苦手意識が無かったとしても、彼が貴族の中でも少数派であることは間違いないだろう。これから赴く第二層のリンバール城には、結婚披露宴に招待された貴族が大勢集まると聞いている。機嫌は悪くなりそうだが、なるべく仔猫にはフードの中に入っておいてもらおう。

「そうだっ、最後にもう一個だけ聞いてもいいですか?」
「いくつでもどうぞ」

 マオが人差し指を立てて尋ねれば、ハイデリヒが質問を促すように右手を差し出す。今更だが、紳士的な振る舞いが様になる人だ。マオは彼の白く細い指先についつい見とれてしまい、少しの間を置いてハッと我に返る。

「中央階段よりも、もっと向こうにある……柱みたいな、あれは何ですか……?」
「柱……“滝”のことかな?」
「え」

 彼の言葉がよく理解出来ず、マオは首を傾げてしまう。滝は幼い頃に読んだ絵本にも書かれていたので、その存在自体は知っている。しかし挿絵に描かれていたのは、鬱蒼とした森林の中にひっそりと佇むものや、高い崖から轟々と音を立てて落ちていくものだった。あの何本かの柱が滝だったとして、自身の知識には何一つ当てはまらないのだ。

「あれはプラムゾで一番大きな滝でね。最上層からずーっと此処まで流れ落ちてるんだ」
「最上層から!?」

 マオは驚愕の声を上げ、うっすらと見える柱――改め、滝を確認する。何本もの流身を上へ上へと辿っていけば、空の青が少しばかり濃くなっていることに気付いた。恐らくあそこが滝の落ち口となっているのだろう。橋脚内部であればどこからでも視認出来ることから、とんでもない規模であることが窺えた。

「確か、何だったかな……シチ……何とかって名前があったはずなんだけど」

 忘れてしまったな、とハイデリヒは恥ずかしげに謝った。あの巨大な滝には昔から名前が伝わっているというのだが、如何せん聞きなれない響きで構成されており憶えづらいとのこと。そのため、一般的には「滝」や「大瀑布」と単純な呼び方が普及しているそうだ。

「凄い……あ」

 そこでマオはようやく、自らが今まで口にしてきた水が、何処からやって来ていたのかを知る。商業区に張り巡らされた水路は、あの大瀑布から引かれていたのだろう。不思議なことに最上層から水が湧き出ているようなので、すんなり納得……というわけにはいかなかったが。

「ねぇオングさん、どうして中央階段と滝のお話はしてくれなかったの?」
「えっ」

 ふと気になって、向かいのオングに声を掛ける。彼からは貴族の住む町や美しい森林の話をよく聞かせてもらった。しかしながらマオにとって最も身近であろう、第一層の景色を教えてくれる機会は少なかったように思う。オングは「あー」と濁すような声を発してから、情けない笑みを浮かべた。

「……実は俺も今、あれが何なのかを初めて聞いたよ。近くに行くことがなかったから、詳しい説明ができなくて」
「そうだったの?」

 マオには少しばかり意外な返答だった。それというのも、オングやホーネルは彼女の周りにいる身近な大人であり、その知識や経験は言わずもがな多いであろう。そういった認識を土台にして、無意識のうちに彼らは何でも知っていると思い込んでいたのかもしれない。

 そこへハイデリヒが、フォローというわけでもないが、やんわりと口を開いた。

「中央階段も滝も、上層に行くだけなら立寄る必要がないからね。二層に繋がっているのは、今から向かうヴォストの町だけなんだよ」

「ヴォストの町……」
「そろそろ見えるんじゃないかな?」

 ハイデリヒに促され、マオは再びカーテンを開ける。今度は仔猫も一緒に窓に貼り付いて、馬車の進行方向を見遣ったのだった。



 “天空の塔”橋脚第一層において、第二層へ上がる手段は限られている。

 各層には中央階段を除いた四つの“階段”が設けられているが、現在使用できるものは一つずつしかない。永い時を経て崩壊が進んでしまったものは、使用を控えるよう決められているそうだ。

 そんな中でマオが向かう西方の町ヴォストは、第二層と繋がる唯一の“階段”を有していた。中央階段と同様、“階段”というものは神聖視される風潮があり、かの町もそれ相応の品位と風格を備えた景観を誇る。

 ヴォストの町――またの名を「光風の都市」と人は言う。


「こうふう?」

 難しげな表情を浮かべたマオに、一通りの説明を終えたハイデリヒが笑う。つい先ほど走行を止めた馬車の扉を開け、一足先に外へと降りた。勿論その後、彼は振り返ってマオに片手を差し出す。

「ここはいつも優しい風が吹いているから、そう呼ばれるようになったんだ」

 眩しくも柔らかな光の中、ハイデリヒの金髪も淡く輝いた。外の明るさに目を細めつつ、マオは戸惑い気味に差し出された手を見遣る。「これが噂に聞くエスコート……」と半ば感動めいたものを覚え、恐る恐る手を重ねた。

「ありがとうございます」

 彼女が気恥ずかしさを感じながら礼を告げれば、ハイデリヒはきょとんと目を丸くする。少しの沈黙の後、彼はやはり穏やかな笑みで頷いた。

「どういたしまして。足元、気を付けてね」

 思わず、マオは片手で顔を覆った。十六年ほど生きてきたが、こんな丁寧な扱いをされたのは初めてだ。ホーネルやオングは保護者だし、マリーは乙女(仮)だし、ヒューゴは弟みたいなものだし……いわゆる淑女のような扱いなど、受けたことがない。耳や背中がムズムズとするような気持ちを抱えて、マオは馬車から地面へと降り立つ。

 ふわり、甘やかな香りが彼女を包んだ。

 羞恥に俯いていた顔を上げれば、暖かな風が栗毛を揺らす。珊瑚珠色の瞳はゆっくりと開かれ、頬は徐々に紅潮していった。

 迎えたのは一面の花野。蜜に誘われたのは色とりどりの蝶。華やかな絨毯を辿った先に、人々の出入りする門を見つける。そこもまた草花が絡みついており、訪れる者を包み込むかのようだ。

「花がいっぱい……!」

 マオは思わずハイデリヒの手を強く握ってしまう。門の向こうに建ち並ぶ煉瓦調の家屋にも、必ず花が飾られているようだ。そこで彼女はようやく思い出したが、オングの土産話でこのような町があると聞いたことがあった。だが人伝に聞いた景色と、実際に見る景色は比にならない。町の中に収まりきらないほどの花々を見詰め、マオは暫し立ち尽くす。

 そんな彼女の傍らで、ハイデリヒは近くへやって来たグレンデルの方を振り返った。

「ハイデリヒ様、開門は明日とのことですが」
「なら今日はここで休ませてもらおうか。後ほど領主殿に挨拶に向かうよ」
「はっ」
「マオ?」

 優しく呼びかけられ、マオは軽く飛び上がって我に返る。慌ただしく振り返れば、ハイデリヒは町の方を指差した。

「少しだけ散歩に付き合ってくれるかな?」
「え、お散歩……ですか?」
「僕の暇潰し」

 彼はそう言ったが、単なる暇潰しではないことくらいマオにも分かった。初めてこの町へ来た彼女への、純粋な思い遣りだろう。彼のお言葉に甘えてもいいのかと、マオがちょっとばかし挙動不審になっていると。

「マオ、せっかくだから行っておいで」
「オングさん」

 荷物を背負ったオングが、彼女の背中をそっと押す。

「一緒に行かないの?」
「はは、俺はもう何度も来ているしな。先に宿屋を探しておくから、後で合流しよう」

 この門の辺りで、と告げたオングはそのまま立ち去ってしまう。薄々感じてはいたものの、やはり彼はハイデリヒに……否、貴族に苦手意識を持っているようだ。理由を尋ねたことはないが、例えそれが善良な青年であっても、彼の中にある悪印象を拭うことは出来ないらしい。

 とは言っても彼も大人だ。ハイデリヒに対して悪態をつくことなどしない。ゆえに自らが離れることで、互いに不快な気持ちを残さぬよう配慮したのだろう。オングは昔から、そういった控えめな言動を取ることが殆どなのだ。

「……えっと、じゃあ付いていっても良いですか?」
「勿論。まあ、お願いしたのは僕だけど」

 一連のやり取りを特に気にした様子もなく、ハイデリヒは「行こうか」と笑った。

 ヴォストの町は城郭に囲まれており、町そのものが一つの花壇のようだった。円形の中央広場は憩いの場として親しまれており、第二層へ赴く旅人たちがよく集まっているのだとか。貴族の住まう町ではあるものの、傭兵や商人が羽根を休めることに関しては、誰も不満を唱えない。寧ろ、町の活性化を支援する要素として歓迎されていることだろう。

「わぁ……ここも綺麗……」

 暖かみのある赤茶色の煉瓦は、随所に咲く花を際立たせる。噴水の周囲は憩いの場となっており、大勢の人々で賑わっていた。見慣れた装いの商人たちが荷物を下ろす一方、広場の隅にいる集団――武装したままの傭兵たちは、昼間から酒を飲んでいるようだ。

「どの層にもいるものだね」

 マオの視線を追ったハイデリヒが、苦笑混じりに呟く。呆れているような声色だったが、嫌悪感はそれほど感じられなかった。同意を示すために頷こうとしたマオは、「そういえば」と自身より少しだけ背の高い彼を見上げる。

「ハイデリヒさま、どうして第一層に来ていたんですか? リンバール城の他に、何処か行く場所でも……?」

 初めての橋脚内部に興奮して、彼自身のことを全く聞いていなかったことに気付いたのだ。分かっていることは彼が身分ある人間で、リンバール城で開かれる結婚披露宴に招待されていることぐらい。今更ながら自分の浮かれ具合を恥ずかしく思いつつ、マオは控えめに質問を投げかけてみた。

「あぁ、ええっと……そうだな」

 ハイデリヒは不意を突かれた様子で、視線を泳がせる。

「……人を、捜しているんだ。もう何年も前から」
「え……」
「まぁ、やっぱり見つからなかったよ」

 彼は笑ったが、逸らされた横顔は寂しげだった。



 その後、また暫く散歩を続けてから、マオはハイデリヒと共に門へと戻った。「また明日」と気さくに告げた彼の背を見送り、オングが手続きを済ませてくれた宿屋へと向かう。夕陽に染まる花の道を眺めながら、マオは部屋に着くまで終始ぼんやりとしていた。

「うぅーん」

 唸りながら簡素なベッドに倒れ込むと、ずっと大人しくしていた仔猫がフードから這い出てくる。毛布に顔を埋めていたら、彼女の後頭部に小さな脚が乗せられた。柔らかな肉球がぽんぽんと押し付けられ、マオはゆっくりと顔を横に向ける。

「……聞いちゃ駄目だったかなぁ」

 持ち上げた手で黒い耳を撫でてやると、薄氷色の瞳が気持ちよさそうに細められた。

「何年も捜してるのに見付からないんだって」

 それが彼にとって大切な人であることは、詳しく聞かずとも分かることだった。もしもマオにとって身近な存在――例えばオングやホーネルが、ある日突然いなくなってしまったら……そう考えるだけでも悲しい気持ちが込み上げてくる。

「会えると良いですね、とか……何か明るいこと、言えばよかった……」
「みー」

 うだうだと後悔するマオを置いて、ノットは呑気な鳴き声を上げて丸まってしまう。「寝ろ」と言外に告げられたような気がしたマオは、ならばと仔猫を抱き締めた。

「ノットの薄情者。……おやすみ」

 オングは明日、第二層に向かうと言っていた。寝不足は体調不良の元だと、常にホーネルに言い聞かせていたマオは、無理やり瞼を閉じたのだった。

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