07.
「――ぷらむぞ?」
今にも眠りかけていた少女は、もたらされた名前によって僅かに意識を覚醒させる。寝台の傍らに座っていたホーネルは、ロウソクの火を吹き消そうとして止まった。毛布を掴む小さな手を撫でて、彼は苦笑混じりに囁く。
「何だ、もう寝たのかと思ったよ」
「……ぷらむぞって、なあに?」
「んー? 何、と聞かれると……」
彼はナイトテーブルに置いた絵本を一瞥し、どう答えたものかと黙考する。少女の瞳は既に何度も閉じかけていたが、彼の答えを健気に待っていた。
やがて、彼は静かな溜息をつく。
「……僕には分からないよ」
「ん……?」
「あの橋の上に住む人達なら、分かるかもしれないねぇ。……あるいは……」
――“彼ら”が知っているかもな。
言葉に含まれるのは期待と、諦めの念だったように思う。
プラムゾという名が己の住む世界のことを指すのだと知ったのは、少女がそれから幾つか歳を重ねた後だった。
◇◇◇
プラムゾ――それは“二つ”の孤島と、それらを繋ぐ巨大な橋で構成される世界。
孤島と言ってもその面積は広大である。島を凱旋でもしようものなら、年を区切る四つの鐘のうち一つは聞かねばならないだろう。マオの住む第一層の商業区というのも、島の南部に展開された小さな地域に過ぎないのだ。つまり橋脚の円周を歩こうと思っても、それ相応の労力と時間を要するということである。徒歩ではまず無理と考えてよい。
二つの孤島を分断する海には大渦が巻き、互いの島を隠すように雲が佇む。ゆえに下層の人々は向こう岸に渡ることは愚か、対岸の橋脚をその目に映すことすら叶わない。遥か上層、すなわちプラムゾの架け橋を渡ることが出来れば……そう夢見る者が、下層には多く存在することだろう。
プラムゾは広い。しかし、かの世界に生きる者たちは、同時に閉塞感を覚えていた。
長きに渡る歴史の中、果てなき海からの来訪者は無い。全てを飲み込み寛容する藍色は、プラムゾの民を孤島に閉じ込めてしまっているかのようだった。
マオを含む下層の人々は、この広大であり狭くもある世界とは別の、どこか違う大地を夢想する。そうやって彼らが最初に興味を示す対象が、あの向こう岸にある“影”となるのは自然なことと言えるだろう。
己の住む「プラムゾの架け橋」が何なのか、考えもせずに。
「――ここ、本当に橋の中……ですかっ……?」
仔猫を抱き締めた状態で、マオはそこに現れた景色に動揺する。次第に高鳴っていく胸の鼓動は、どうにも抑えることができなかった。彼女の隣に立ったハイデリヒは、そんな彼女を横目に小さく笑う。
「“天空の塔”橋脚第一層。ここはまだ平原の入り口だよ」
洞穴を潜り抜けた先にあったのは、両脇を高い崖に囲まれた薄暗い山道のような場所だった。踏み固められた道の傍らには、小さな草花が控えめに色を添えている。崖を見上げれば、そこから微かに日の光が射し込んでいた。
歩を進めていくにつれ、山道は明るくなっていく。それにあわせて段々と緑が増えていくことを知り、マオの足は知らずのうちに速まる。そうしてハイデリヒたちより一足先に、出口――否、入り口へと辿り着いた。
「うわぁ……!!」
視界が光に照らされる。
閃光に目が眩んだのも束の間、次の瞬間には鮮やかな緑が一面に広がった。澄み渡る青空には小鳥の群れが舞い、彼らを運ぶ風はゆるやかに草木を揺らす。
マオが唖然と平原を見詰めていると、ハイデリヒたちが傍まで追い付いてきた。彼女は口を開閉させつつ、雄大な自然と彼らを交互に見詰める。再び草原を見遣れば、忘れ去っていた言葉がようやく帰ってきた。
「……ひ、広い……広いっ! ハイデリヒさま、遠くに見える大きな塔は何ですか? あっ!? 向こうにも何かある……って、何で空が見えるの!?」
「マオ、落ち着いて」
ハイデリヒは声を上げて笑うと、捲し立てる彼女の肩を軽く叩いた。
だがそう言われて、呑気に落ち着いていられる状況ではない。橋脚の中に入った筈なのに、そこで待ち構えていたのは広過ぎる平原だったのだ。頭上には第二層を支えるべき天井など見当たらず、外と相違ない美しい空が広がっている。その青に馴染むようにして佇むのは、大きく隆起した丘――いや、絵本に出てくる“山”だろうか。
そして連なる山脈の向こう側、塔とおぼしき輪郭をうっすらと捉える。マオたちが通ってきた南の入口から見るに、あれはプラムゾの橋脚中心部に聳え立っているようだ。その頂上は空の青に吸い込まれ、人の眼に映すことを許しはしない。
「プラムゾの内部は何処もこんな感じだよ。屋内なのに空は見えるし、天気だって毎日変わる。広さは……島の面積より大きいとも言われているらしいね」
「へ!?」
「新鮮な反応ありがとう」
マオが勢いよく振り返れば、ハイデリヒはくつくつと笑いながら肩を揺らしていた。
彼女が想像していた橋脚内部というものは、もっと狭くてゴチャゴチャしていて、それでも文明を感じさせる町並みがあって……少なくとも彼女は、こんな平原があるなんて思ってもみなかった。ゆえにハイデリヒの言葉を俄に信じることはできなかったが、反面で深く納得してしまう自分がいることに気付く。
――これが、プラムゾなんだ。
まるで別世界に来てしまったかのような感覚を抱きながら、マオは仔猫をきつめに抱き締めた。
「……? そういえばハイデリヒさま、さっき……」
不意にマオは、ハイデリヒが何やら聞き慣れない単語を話していたことを思い出す。それについて尋ねようと、彼女が振り返ろうとしたときだった。
「ああ……やっぱり来てくれたみたいだね」
彼の言葉を合図に、後ろに控えていたグレンデルが歩み出る。視線を追えば、こちらに向かってくる馬車を発見した。景色ばかりに気を取られていたが、足元には緑の剥げた地面――人や馬が通れる程度の道が整えられている。がらがらと音を立てながら、やがて馬車は彼らの前に停まった。
「ハイデリヒ様、お迎えに上がりました」
馬車の後方から蹄の音が鳴ったかと思えば、騎馬に跨った男がそこへ現れる。男の身なりはグレンデルと似ており、全身を鎧で固めていた。
「ありがとう。けど、大丈夫だと伝えたのに」
「道中、貴方様に何かあってはなりませんので。……どうかご容赦を」
男は騎馬から降りて、生真面目そうな口調で告げる。ハイデリヒは「分かった」と苦笑混じりに応えてから、マオとオングをそれぞれ手で示した。
「この二人も乗せてくれるかな? リンバール城に品物を届けに行くらしいんだ」
「は……品物……」
何のことだと言わんばかりに呆けた男は、始めにオングへと視線を遣る。彼は特に強面というわけでもないのだが、その褐色の肌と大きな身体のせいで、男は少しばかり気圧されたようだった。慌ててマオの方に視線を移しては、咳払いをしつつ口を開く。
「詳細を尋ねても?」
「えっと……男爵様の御依頼で、リンバール城へ指輪を届けに……」
「とりあえず、僕の友人として扱ってくれて構わないよ。もちろん、そちらのオング殿も」
「えっ!?」
ハイデリヒが笑顔で告げれば、男は「なるほど」と相槌を打つ。友人という言葉にマオが驚いている間に、おもむろに馬車の扉は開かれた。
「そういうことであれば、どうぞお乗りください。ハイデリヒ様のご友人を歩かせるわけには参りませぬ」
マオとオングが戸惑い気味に顔を見合わせる手前で、ハイデリヒは「さぁ」と双方の背中を押す。
「でもハイデリヒさま、この馬車……四人も乗れそうにないですし」
「あぁ、グレンデルは馬に乗るから大丈夫だよ」
ね、と確認されたグレンデルは、相変わらず無愛想な声で「はい」と答えた。何だか彼を外に追い出してしまったような気がして申し訳なくなったマオは、小さくお礼と謝罪を述べたのだった。