プラムゾの架け橋

第一章

08.

 ――この子は何だい?

 赤子を抱いた経験などなかった。腕の中で眠っている小さな物体に、彼は若干の恐れを覚えながら問う。良い歳した男が赤子にビビっている姿は滑稽極まりないだろうが、仕方ないことだと己に言い聞かせる。たとえ「子どもの抱き方すら分からないの」と、過去の人の嘲笑が脳裏を掠めても。

「……聞いているかい? この子、お前の赤ん坊ってわけでもないんだろう」

 さっきから何度も同じ質問をしているのだが、この大男は何も答えない。そりゃあ、あの吹雪の中を歩き続けていたのだから、肉体も精神も衰弱していることだろう。だがしかし。こちらとて警戒を解いたわけではないのだ。

「あぁ、面倒くさい。僕、急いでるんだけどな」

 苛立った雰囲気を装ってみる。すると大男が虚ろな視線を動かして、何かを言おうと口を歪めた。効果があったらしい。外はまだ大雪なので、急いだところで死ぬだけなのだが。それを悟られぬうちに、彼は更に言葉を重ねる。

「素性の分からない男が、素性の分からない赤子を抱えて……怪しいよねぇ。駐屯兵に引き渡した方が良いかな――うっ!?」

 また赤子が目を覚まし、けたたましい泣き声を上げる。彼は思わず呻くと、慣れない動きで両腕を揺すった。居心地は最悪であろうに、赤子はそれだけで少し落ち着いてくれる。ぐすぐすと不機嫌さを引きずりはしたものの、再び泣き叫ぶことはなく。

「ひ……ひきわたす、のは……やめて、くれ」

 そのとき、ようやく大男が言葉を発した。

 掛けてやった毛布は肩からずり落ちており、あまり役目を果たせていない。これ以上その身体を冷やしてしまえば、取り返しのつかないことになるだろうに。……いや、そもそも生きる気がないのかと、彼は思わず眉を顰めた。

「その子を……遠くへ」
「……遠く、ねぇ。それは上かい? それとも下かい?」

 両腕は塞がっていたので、代わりに頭を動かして方向を示す。彼の顎が下を向くのに合わせて、大男が小さく頷いた。

「ふうん……でも、下りる方法が分からないんだろう、お前」

 静かに問えば、視線が逸らされる。図星のようだ。あんな雪原をさまよっていたのだし、当然と言えば当然だろう。この赤子も、よく死なずに生きていたものだ。

 生え揃っていないブラウンの髪に、滲むような赤い――珊瑚朱色の瞳。気付けば赤子はこちらの顔をまじまじと眺めており、視線が合うや否や、きゃっきゃと笑い始める。大男とは対照的に、こちらは生命力に満ち満ちているようだ。

「……はあ」

 知らずのうちに、溜息が漏れる。ようやく安定した抱き方を覚えた彼は、赤子をあやしながら大男の傍まで歩み寄る。すぐ目の前で屈めば、大きな肩が僅かに震えた。

 ――僕に怯えているのか?

 まさかと彼は呆れる。これでも自分は優男だし、男性にしては少しばかり細身だし、顔面も柔和に出来ている。そんな見た目だけは善良な自分に、丸太のような逞しい両腕と強靭な脚を持つ大男が怯えるなど……。

「……!」

 大男が後ずさった。

 怯えられていることを確信した彼は、その行動を咎めることはせずに、取り敢えずその場に腰を下ろした。

「訳アリなのは見たら分かる。お前がこの子を連れている理由については……今は聞かないでおこう」
「……」
「ただし、一つだけ……僕の質問に答えろ。答えれば下層に連れて行ってやる」

 彼がそう前置いても、大男が異を唱える素振りは見せない。その態度を了承と捉えた彼は、ゆっくりと赤子の瞳を見遣った。

「……お前は」

 続く問いに、大男がもたらした答えは――。




◇◇◇




「――ホーネルぅ! 朝よぉ、起きなさーい!」

 何だ、この不快な声は。目覚めた瞬間、耳に届いた中途半端な高さの声に、ホーネルは思い切り顔を顰める。昨日まで起こしに来てくれた、元気で爽やかな声ではなかった。

 ――ああ、彼女はもう出発したのだった。そうなると当然、オングもいないわけだから……。

「……あ……? じゃあ今の誰……」

 途端に彼を襲う恐怖。屋敷には自分ひとりの筈なのに、つい先ほど不気味な声が朝を知らせたのだ。おまけに名前までしっかりと呼んで。

 そこで鼻腔を突く、香ばしい匂い。誰かが台所で調理をしている。寝起きの怠さなど即座に吹き飛び、ホーネルは部屋を飛び出した。階段を駆け下りて向かった先は居間ではなく、その手前にある玄関だ。壁に引っ掛けてある外套からナイフを引き抜き、猛ダッシュで居間へと駆ける。

 扉を蹴飛ばす勢いで開けたホーネルは、鼻歌交じりにテーブルを整える巨漢に向けて、ナイフをぶん投げた。

「ふんッ!!」

 刹那、背中に目でも付いているのか、巨漢は振り向きざまにナイフを素手で叩き落とす。殺すつもりで投げた凶器が床へと落下すれば、巨漢が思い出したように身体をくねらせた。

「もう、朝から激しいのねぇ、ホーネル」

 不快極まりない朝の知らせ、台所で勝手に調理をしていたのは、花屋のマリーだった。フリルをふんだんに使ったエプロンを揺らし、絶句しているホーネルに向けてキスを飛ばす。その軌道から逃れるように体を逸らし、ホーネルは扉に額を打ち付けた。

「……どこから入ったんだよ……お前……」

 不本意ながらもテーブルに着席させられたホーネルは、一向に回復しない気分を憂いつつスープを啜る。

「何しに来たんだい。お前の標的はオングだったはずだろうが」
「んふふ、そうねぇ。アナタはちっともタイプじゃないわよ」
「最高に嬉しい」

 本心から零れ出た呟きに、マリーは「んもう、失礼ねっ」と怒る。これがマオだったら許せたのだが、生憎と眼前にいる巨漢が消えてくれる気配はない。何が悲しくて、こんな暑苦しい朝を迎えなければならないのか。もしかして新手の拷問だろうか。ああ、きっとそうだ、そうに違いない。

「全く、素直じゃないわぁ。マオちゃんもダーリンも出掛けちゃったから、アナタが寂しがるかなぁって思って……わざわざ早起きして来てあげたのよ」
「気持ち悪い」

 もう本音しか出てこない。どうしたらいいのだろう。ホーネルが片手で顔を覆った瞬間、早朝だというのに玄関からノックが鳴り響く。

 こんな早くに一体誰だろうか。これ以上ヤバい化物は訪問してくれるなよ、とホーネルは花屋を化物認定しながら席を立った。

「はい、どちら様……」

 扉を開けた瞬間、彼は思わず目を丸くする。そこに立っていたのは暗い赤髪の青年――魚屋と呼ばれている男だったのだ。

「……え。……何だい? 悪戯?」
「……いえ」

 失礼な問いをぶつけても、魚屋が腹を立てることはない。口数が少ない者の相手は苦手なので、ホーネルが少しだけ対応に迷っていると。

「この屋敷を、見張っていたようだったので」
「!?」

 そう言って魚屋が放ったのは、気絶した見知らぬ男。暗色の外套に身を包んでおり、顔も半分ほど隠されている。そんな怪しさ満点の男が足元に転がされ、ホーネルは反射的にその体を蹴ってしまった。

「え、うわ、何だいコイツ。屋敷の近くをうろついてた、ってことかい?」
「……ええ」
「あらぁん! アナタが仕留めてくれるとは思ってなかったわ、魚屋さん」

 そこへマリーもやって来ては、「ありがと」と魚屋にウィンクを飛ばす。さすがの魚屋もさり気なく体を逸らしてから、小さく首を横に振った。

「は……お前、知っていたのかい? この男が近くを彷徨いてるって」
「知ってたわよ、昨日の夜くらいから、ねぇ」

 ホーネルは花屋を見上げ、今朝の不審な挙動について何となく理解する。花屋は恐らく、怪しい人物がこの屋敷周辺を嗅ぎ回っていることを知り、朝早くからホーネルの元へやって来たのだろう。もしも危害を加えるような存在であれば、その逞しすぎる腕で不審者を粉砕……いや、捕縛するつもりで。

 そしてこの魚屋に関しては、早朝の市場に向かう途中、怪しい人物を見掛けたので引っ捕えてみたというところか。

 ホーネルはつい、不審者の方に同情してしまう。第一層は物騒な連中が多いのだ。花屋は見た目通り腕っぷしが強いし、病弱そうな魚屋もどうやら只者ではなさそうだし、同業者のガルフォは作業道具で不埒な輩を成敗したとの話もある。

 不審者の捕縛は駐屯兵や自警団に頼らずとも、無駄に戦闘力の高い住人で事足りる。自己防衛が為っていると言えば聞こえは良いが、果たしてそのような括りに収めても良いのだろうかと、たまに疑問に思うホーネルである。

「……取り敢えず、不法侵入者ってことで牢屋にぶち込んでもらおうかな。魚屋さんは市場に行ってくれて構わないよ」
「そうですか。……それでは」

 魚屋は何かを言いたげな雰囲気を出したものの、結局その思考を表に出すことはしなかった。物音ひとつ立てずに去っていく彼を見送り、ホーネルは参ったように腕を組む。その傍らでは、平素の気持ち悪い動きをやめたマリーが、少しだけ真面目な表情で不審者を見下ろしていた。

「いいのぉ、ホーネル? この男、“アナタたち”の存在に目を付けてたんじゃなぁい?」
「……そうだねぇ」

 花屋の問いに肯き、ホーネルはちらりと視線を他所へと飛ばす。早朝の空に滲む橋脚は、いつもと変わらず静寂を保っている。だがこの時ばかりは、あの謎多き“遺物”に不気味さを感じずにはいられなかった。

「……無事で、と言いたいところだけど……僕にはどうにもできないな」

 その呟きに、マリーは何処か責めるような視線を送って来た。ホーネルは苦笑すると、「さて」と切り替えるように瞑目する。放置していた不審者を指差し、あっけらかんと花屋に声を掛けた。

「これ担いでくれない? 僕、ひ弱だからさ」
「んまっ、乙女にそんな力仕事を頼むなんて。だからモテないのよ」
「つべこべ言わずに運べよ」

 「あん、横暴」と可愛く悪態をついた直後、マリーは軽々と不審者の男を肩に担いだのだった。

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